見出し画像

青木とスクールドッグの物語①

大学を卒業して、学校の教員になった。どうしても先生がしたかったというよりは、母親と姉が教員として働き、身近なところに教職という環境があったため、自然と教師になっていた。

1年目は採用試験に失敗したが、縁があり学生時代のアルバイト先で常連客だった、養護学校の教頭先生より声をかけられ、私の教員生活は養護学校スクールバスの添乗員としてスタートした。

初めての学校現場はおっかなびっくり。障害のある生徒とどのように接すれば良いのか。自分のことを受け入れてくれるのか。そもそも授業ってどんなことをしているのか。

養護学校で働くうちにそれらの不安はすぐに消えた。

「障害」と聞くだけで、自分とは異質なものと勝手に思い込んでいたが、人それぞれ特性があり、ただ単にその強弱があるだけだった。

養護学校の子どもたちは外から来た人を受け入れる寛容性があった。初めての学校生活はそうやって子どもたちに助けられた。

授業はまさに生きるための学びそのものだった。これから生活していく上で必要な力を身に付ける場であった。ある時はみんなでハンバーガーショップに行き、生徒一人一人が注文し、精算した。それが授業だった。この日を迎えるまでに教室で頑張って足し算や引き算を練習したのだった。買い物が成功する度に生徒も先生もみんなで喜び合った。

しかし、周りのお客さんたちの視線は冷たかった。

私自身、内心「この子たちは何も変わっていない。変わっているのは異質なものを受け入れられないお前たちではないか!」しかし、それは1年前の自分に対して言ったことだったのかもしれない。

養護学校での教員生活は1年で終わり、これも縁があって関西屈指の私立大学附属の中学校で働くこととなった。自由な校風、生徒たちもエネルギーと好奇心が旺盛。さらに職場環境にも恵まれ15年間務めることとなった。

働きはじめて初めて担任をした中学3年生の生徒が不登校になった。正確にいうとその生徒は入学してから徐々に学校に行きにくくなっていた。こんな素敵な学校で、おそらく家庭の経済的にも不自由ではないのになぜ?

初めは、その生徒の思いが分からず、足繁く自宅の近くまで通ったり、学校に来た日には、近くの川に2人でザリガニを捕まえに行ったりもした。徐々に関係性もでき、週1回の登校が2回となり、3回と増えていった。

その年にその生徒は、私の結婚式にも顔を出してくれた。

無事に卒業式を終え、高校進学の日。早朝に彼は私に電話をしていた。そのことに気づいたのはお昼を過ぎてから。すぐに彼に連絡をし直すがでない。自宅に連絡すると母親が電話越しに「今日、行けなかったんです。頑張って玄関までは行ったんですが…」そこで、彼は私に助けを求め電話したのだった。

そこから彼は学校に行けず、高校1年生の途中で自主退学した。

教員人生15年の最初の年の出来事だった。このことが頭から離れることはなく、常に罪悪感だけがあった。あの時電話に出れていれば…そもそも、彼の居場所を自分は作れていたのか。

それからも、教員生活を送る中で多くのしんどい子たちと出会ってきた。こんな素直で、真面目な子たちがなぜ?その度に、養護学校時代の生きるための学びや助け合う学びが思い出された。

また、同時に先生たちの多忙さにも直面した。本当は生徒たちと向き合いたいのにその時間すら持てない。私も在職中は常に昼食時間は10分以内だった。時には、多忙すぎて持っていった弁当を夕方の5時に食べることもしばしあった。

何かがおかしい。そう思いはじめた矢先、長男が学校を休むようになった。当時小学1年生の彼にどうして学校に行かないのかと尋ねた。すると彼はこう答えた。「だって、先生の話をずっと聞くだけで、何も面白くない。行く意味がわからない」これは、教員である私に対しても投げかけられた言葉だった。

なんのために学校はあるのか?傷ついてまで行くべきものなのか?

そのような最中に、学校で犬を飼う取り組みが始まった。東京の小学校で実践していたこともあり、比較的スムーズに導入まで漕ぎ着けた。東京の小学校でも不登校の問題に頭を悩ませていたのだが、児童の「学校に犬がいればいいのに」の一言からスタートした。

私の学校でも実践したところ、多くの生徒が犬たちに救われた。

犬は何も言わない。でもそばで寄り添ってくれる。子どもたちが求めていたことがなんだかわかった気がした。成績でも、お金でも、ゲームでも、スマホでもなく、「居場所」だった。

そして、その居場所には仲間が必要だということ。犬は仲間でもあり、時には人間関係の潤滑油として働いてくれる。このスクールドッグの取り組みは子どもたちにも受け入れられ、メディアにも紹介された。知り合いの大学教授と子どもたちのストレスがいかに下げられるのかといった臨床実験も行われた。

何もかもが順調にいっていたが、内心では、「この取り組みが全国に広がれば、多くの子どもたちの居場所になるはず。しかし、このままでは1人の物好きな教員と寛容な学校の取り組みで終わってしまう」そこで、長年お世話になった学校を離れることを決断し、岡山県の小さな村で事業を立ち上げた。事業を立ち上げた当初は、本当に大丈夫なのだろうか?この取り組みは必要とされるのか?と不安に思うこともあったが、ある時、スクールドッグに救われた教え子から連絡がきた。

「元気にしていますか?私はスクールドッグに救われました。将来は先生と一緒にこの取り組みを広げるお手伝いがしたいです」
この言葉が今の心の支えとなっている。

画像1

Social Animal Bond HP 

https://www.social-animal-bond.jp/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?