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高卒・元工場勤務の作業員が、東京のベンチャー企業で新規事業を立ち上げるまで

このnoteは愛知県の田舎で育ち、高卒で工場で作業員をやっていた僕(@so_ichi_raw)が、コネクションゼロの状態から、東京のベンチャー企業に入社し、念願だった教育事業を立ち上げるまでの話を書いたものです。これから学歴を超えて自分のやりたいことに挑戦したい人、また学歴問わず自分の好きなことを仕事にしたい、夢を叶えようと頑張っている人へ、何かのヒントになったら嬉しいです。

人の人生に関わる仕事がしたい

中学2年生、14歳の頃の僕は、『学校の先生になる』という夢を抱いていました。なぜかというと、「人の人生に関わる仕事がしたい」と思っていたからです。

僕の育った家庭は、裕福か、そうではないか、といえば、後者だったと思います。自営業で建設業を営んでいた父親はリーマンショックの煽りを受け、多額の借金を背負い、栄養士の母親が朝から晩まで仕事をして、なんとか家計を支えていたという記憶があります。

ただ、裕福じゃなかったから不幸だったかというと、それは、全く違います。父親はちょっぴりワイルドすぎて、ダメだなあと思う部分も多くありましたが、遊び心満載で、人生の楽しみ方を教えてくれました。母親は、問題児だった僕を、本当に広い心でいつも受け止めてくれました。
「やりたい!」と言ったことはなんとか全部挑戦させてくれて、昔から、人として素敵な大人たちに引き合わせてくれました。

そうして、学校の先生や、サッカーのコーチ、本当にたくさんの素敵な大人に出会う中で、14歳の頃には「人の人生に関わる仕事がしたい」と思うようになっていました。

そして、担任の先生との進路面談で『学校の先生になりたいです』というと、すごく喜んでくれて、すぐにいくつか高校の進路を示してくれました。でも学校の先生になるには、もちろん大学に行かなくてはダメで、大学に行くには、塾にも行ったりしなきゃいけないし、通うのにも多額のお金がかかるということを、僕は知っていました。

そして先ほど書いたように、自分の家が裕福ではないことも知っていた当時の僕は、お金を理由に『大学にいく』という選択を取らないことを決めました。自分で決めたとはいえ正直、なんとも言えない悔しい気持ちがあったし、”みんなが行く高校”に行かないという選択に対して不安も覚えました。

その話を母親にすると、ある進学先のパンフレットを持ってきてくれました。「トヨタ工業学園(以下、トヨタ学園)」と書いたパンフレット。読み進めていくと、トヨタ自動車の企業内訓練校だということがわかりました。

実際には”進学先”というより、”就職先”で、なんと学費は無料、そして入学した4月から勉強をしながら給料をいただけて、16歳の頃には配属が決まり工場で働き始めるという学校でした。僕はパンフレットを見て、たくさん調べて、すぐに担任の先生にトヨタ学園に行くことを決めたことを伝えました。

最初、先生からは「大変だぞ」と反対されていたけど、「自分でお金を貯めて大学に行けるかもしれない」「トヨタ学園の先生はトヨタの社員が務めるからいつか先生ができるかも」という2つの理由を話すと、先生も納得し、最後は応援してくれて、僕は無事にトヨタ学園に合格し、トヨタ自動車の一員となることが決まりました。

初めて人生に絶望した高校1年生

14歳の自分なりに、本当にいろんなことを考えて、同じ中学校からも誰一人として同級生がいない場所を進学先に決めた僕は、「あの世界のトヨタの養成校に入るんだ」と並々ならぬ気合いを胸に、トヨタ学園の門を叩きました。

トヨタ学園はほぼ完全寮制で、当日は初めて親元を離れるという不安だけが心を支配していたことを覚えています。全国各地からやってきた105人が同期として、同じ釜の飯を食う仲間として、共に過ごす生活が始まりました。当時はとにかく上下関係が厳しく、怖い先輩方を前に、なんとか自分を奮い立たせながらやっていた日々ですが、入学して早々に人生で初めて絶望を経験することになります。

最初の1ヶ月が過ぎて、ゴールデンウィークを迎え、少しは成長した自分を見せたいと、初任給で家族をご飯に連れてったりして、(ファミレスだったけど)すごく喜んでもらって、もっと頑張ろうと連休を終えて寮に戻りました。その時期あたりから、僕は周りから避けられるようになっていきました。

話しかけても無視されるし、近づくと離れていくし、自分がみんなの前で発表したりすると笑われたり、自分がいるのをわかっていながら『三浦のことどう思う?w』『マジうざいw』みたいなことを言われたり。

寮で目覚めて、スクールバスで校舎に向かって、1日授業を受けて、部活をして、寮に帰ってきて寝るまで、どこにも逃げ場がなくて、とにかく起きてる時間を減らそうと、ギリギリまで寝て、夜は点呼が終わった21時過ぎには寝る、みたいな生活をしていました。(あの生活のおかげで身長が伸びたと思うので感謝している)

人生を変えた恩師の一言

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あの頃、なんでそうなったのか全然わからなかったし、今もよくわからないけど、とにかく辛くて先の見えないトンネルの中にいる気分でした。しかしそのトンネルの中で「いつか抜けるはず」って自分に言い聞かして耐えることができたのは、支えてくれた2人がいたからでした。

1人目は母親。週末に時間ができると、とにかくそこから逃げたくて短い時間でも実家に戻っていました。心配かけないように何もないフリをしていたけど、卒業した時に母親からもらった手紙に「いつも送り出すのに涙をこらえていた」と書いてあるのを見て、「気づかれてたのかー!」ってなりました。今思うと、気づきながらも、何もなかったかのよう振る舞ってくれた母親には感謝しかありません。帰る場所がある、って最強ですね。

もう1人は、当時のサッカー部の杉浦監督。トヨタの社員であり、トヨタ学園の先生であり、サッカー部の監督でありながらも、20年ぐらいハードコア・パンクのバンドをやっていて、アメリカツアーや中国ツアーをやっちゃってたり、いまでも週末は全国のどこかでライブをやっちゃってる、まさに鉄人みたいな人。僕の人生の師匠と言っても過言じゃないぐらい、本当にたくさんのことを教えてもらいました。その中でも辛かった自分に刺さったのが

『宗一郎、おしゃれしたり、カッコつけたいと思うだろ?でもな、人にとっての一番のファッションは、生き方だぞ

という言葉でした。当時、うまくいかないことをずっと周りのせいにしていたけど、その言葉を聞いてから『自分が変わろう』って思って、たくさん本を読んだし、読んだことを日々実践しました。

気がつくと、僕のことを無視する人は1人もいなくなって、卒業式での生徒代表に選抜していただいたり、サッカー部のキャプテンに選んでもらったりしていました。

本当にいろんなことがあった3年間だったけど、自分の人間としての基礎を築いてくれたのは、杉浦監督と出会ったあの3年間だったと思います。そして、その出会いを通して、ますます「人の人生に関わる仕事がしたい」と思うようになりました。

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始まる工場での仕事と葛藤

16歳、僕に出された辞令は「組立部」という部署への配属でした。自動車の製造過程では”花形”と呼ばれる場所だし、特に僕が配属されたのはお客様から見える部品を取り付ける工程。

「自分が作った車がこの街を走るんだ」と思い、最初はワクワクしていましたが、実際職場に行って見た光景は、ひたすら流れ続けてくる車に、ひたすら同じ部品をつけ続けるという仕事で、僕の目には、すごく退屈そうに映りました。

そして、その職場で実習をする中で、「自分はここで働きたくない」という思いが出てくるようになりました。当時ドラマでやっていたリッチマン・プアウーマンを見ては「かっこいいいいな〜IT企業とか、俺も働いてみたいな〜、まあ無理か高卒だし」なんてことを、ずっと考えていたのを覚えています。

そして18歳、トヨタ学園を卒業して本配属される頃には「トヨタ自動車をやめたい」ということを家族に話したり、「俺、絶対将来自分で会社やるから」と同期に話すようになっていました。

とにかくいろんな話をしたのですが、その中で母親から

「3年は働いてみたら?トヨタで働けるって、なかなかないことだし、ここにいるのも何か意味があるんじゃない?」

と言われ、確かにな、と思った僕は、3年は絶対働く!という約束を、母親と、自分と、することにしました。

18歳、正式にトヨタ自動車の社員として、工場に配属されました。『3年は働く!』と決めたものの、実際にフルタイムで働き始めると、夜勤、残業、とれない疲れ、変わらない毎日、そんな日々から何度も逃げ出したくなる自分がいました。

その度にトヨタ学園の同期と励ましあいながら働いていましたが、やっぱり仕事に行くのが辛くて、日曜の夜がくるとちょっとメンヘラになる『サザエさんシンドローム』という症状にもかかりました。(ちなみに夜勤は14時に家を出なきゃいけなかったので『ミヤネ屋シンドローム』という症状もありました)嘘だろ!と思う人もいると思うのですが、本当です。

とにかく仕事に行くのが辛かったです。職場の人にはよくしてもらっていましたが、なんかもやもやしていて。職場の先輩に「仕事が楽しくないです」と伝えると「仕事ってそんなもんだよ」と諭されて。そんな自分も働き始めて3ヶ月経つ頃には、つまらない毎日を割り切って、惰性で生きられるようになっていました。

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どうせやるなら、全部楽しんだ方がいい

ちょうどその頃、僕の職業観を大きく変えるある人と出会うことになります。その人は、期間従業員として3ヶ月だけ沖縄から働きにきていた門口さんというおじさんです。

『門口と申します!沖縄からきました!よろしくお願いします!』

と暗い職場には明るすぎる挨拶をした門口さんは、早速作業を始めることになるのですが、その姿を見て、僕はびっくりしました。僕と同じような仕事をしている門口さんは、ニコニコしながら、鼻歌を歌いながら、怒られながら楽しそうに作業をしているのです。なんてことないことかもしれないですが、当時の僕には衝撃的でした。

そして、僕は仕事終わりの門口さんを捕まえて、ご飯に誘いました。門口さんは最初は驚いた表情をしていましたが、すぐに嬉しそうに『行きましょう!』と言ってくれて、僕たちは深夜2時のファミレスに向かいました。

そして、門口さんからたくさんの話を聞かせてもらいました。消防士になるという夢を諦めた話、猛勉強して公務員になった話、中学校の野球部をコーチとして全国2位まで導いた話、その過程で”居酒屋”というものに出会い「居酒屋をやる!」という夢を追いかけて35歳で公務員を辞めた話…。

とにかく全ての話が新鮮で、キラキラしていて、カッコよくて、そんな人と、この職場で出会えたことが嬉しすぎて、ちょっと泣きそうになっていたことを覚えています。そして僕は一番聞きたかったことを門口さんに聞きました。

『この仕事って、”楽しい仕事”なんですか?』

門口さんは少し考えたあと、にっこり笑いながらこう答えました。

「この仕事が楽しいかどうかは僕にはわからないけど、どうせやるなら全部楽しくやりたいと思ってるんですよね」

衝撃でした。

それまでの僕は『仕事とはつまらないものだ』『我慢してやるものだ』と決めつけていたように思います。そう決めつけるだけで、目の前の仕事を楽しもうとうする気持ちは全くなくて、今自分の人生が退屈なのは、目の前の仕事のせいだと思っていました。

門口さんの話を聞いた翌日から、「この仕事を楽しくするにはどうすればいいのか?「この職場に行くのが楽しみになるにはどうしたらいいのか?」とずっと考えるようにしてみました。

作業をしながら楽しいことを考えたり、仕事が少しでもラクに早くできるようになるために工夫してみたり、職場で元気よく挨拶をしたり、先輩をご飯に誘ってみたりしてみました。そうすると、僕の人生はすぐに楽しくなっていきました。

人生には、やりたいことのためにやらなければいけないこともあったり、なんなら、やりたくないことの方が多いかもしれないのですが、全部、楽しめるようになったら最強です。

その仕事自体に、「楽しい」も「つまらない」もなくて、自分自身が「その仕事を楽しいものに変える方法を知っているか」が重要だと、ライン作業から学ぶことができました。

ちなみに、今の僕は、仕事だけじゃなくて、人生を全部を楽しめるように頑張っています。どうせ働くなら、楽しいほうがいいし、どうせ生きるなら、楽しいほうがいい。そう思います。

「トヨタで3年は働く」自分で決めたなら、どうせ働くなら最高な3年間にしてやろうと決めました。

そして、門口さんはあっという間に沖縄に帰っていってしまったけど、最終出社の日、職場にはボロボロだけど最高においしい手作りのサーターアンダギーと、『あなたの笑顔がいちばんです』という言葉を僕にプレゼントしてくれました。あのサーターアンダギーの味は一生忘れないし、あの言葉は僕の人生の中における最も大切な言葉の一つになりました。

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『旅と、人と、本』にしかお金は使わない

門口さんとの出会いをキッカケに、楽しい人生を生きるのも大事だけど、楽しく人生を生きるにはどうしたらいいか?を考えられるようになった僕は、とにかくたくさん旅をしようと決めました。

実は中学校3年生の時に、地元のライオンズクラブのツアーで、フィリピンに連れていってもらった時から「大人になったらたくさん海外にいく」「将来は海外でも活躍できる人間になりたい」という思いが胸の片隅にあったのです。

社会人になって、自分でお金を稼げるようになった僕はとにかく休みの日は旅をしようと決めました。日々のライン作業の10mの世界から、もっと広い世界をもっと見てみたくて、長期連休や、有給をフル活用して、21歳までに18ヶ国を訪れました。カンボジアを一人旅してみたり、ニュージーランドをヒッチハイクで縦断してみたり、バリ島で100kmマラソンに挑戦してみたり、とにかくいろんなことをしました。

旅をしていると周りの人からよく「お金はどうしてるの?」と よく聞かれていました。その答えは「普通に働いて貯金してたよ」なのですが、僕は18歳の時からお金の使い方のルールを自分に決めていました。それは「旅と、人と、本にしかお金を使わない」ということです。

僕がそうしているとき、周りの同期は、新車の車をローン組んで買ったり、高いブランド物の服をたくさん買ったり、ギャンブルにお金を使っている人もたくさんいました。

あれから6年経って、同期たちが、あの時ローンを組んで買った車はもう買い換えているし、あの時買った高いブランド物の服はタンスの奥かメルカリにあるし、ギャンブルに使っていたお金はどこに消えたのか、わかりません。

ありがたいことに、僕がお金を使った「旅と、人と、本」は今でも僕の心に残り続けてくれているし、実際にあの頃の経験が今の仕事に繋がっていたりしています。そして、これからもっともっと大きいものになるような気もしています。
お金の稼ぎ方を今すぐ変えることはできないけど、お金の使い方は変えることができて、10代の頃から、「モノ」ではなく「経験」や「知識」にお金を使っていて本当によかったと思います。

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初めて人の人生に影響を与えたカンボジアツアー

旅をして、人に出会って、本を読んで、僕の世界は少しずつ広がっていきました。その中でも、特に強烈だった出会いは、18歳の時のベトナムで旅行会社を経営している伊藤ケイジさんとの出会いでした。

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旅を通して、人に出会い、人を通して、またさらに出会ったのがケイジさんだったのですが、初めて会って日本で講演を聞いた時の印象は「あ、こんなにぶっ飛んで生きてもいいんだ」「好きなことして生きてる人って実際にいるんだ」というものでした。

そして、ケイジさんの講演を聞かせてもらった翌日には、カンボジア行きの航空券をとっていました。1ヶ月後、不安な気持ちと、ワクワクした気持ちで、初めてカンボジアの地に降り立った時、人生が変わる感覚というか、すごく肌がピリピリしたのを覚えています。

僕の予感の通り、まさにカンボジアの一人旅は僕の人生を変える大きな経験となりました。カンボジア人のタクシードライバー、ボロボロの服でも眼を輝かせて勉強している子供達、普段、絶対に会うことがない日本人の旅人たち、全ての出会いが、全ての経験が、僕にとっては貴重でした。

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たった7日間の旅でしたが、カンボジアを発つとき「カンボジアの魅力を、旅することの素晴らしさを、仲間達に伝えたい」と強く思いました。

そして、帰国した僕は一人一人、会社の同期や、地元の友達に会い、カンボジアの旅について伝えました。しかし、みんな「楽しそうだね」と言ってくれた後、決まって「でも…」と言いました。

その時はまだ、カンボジアや東南アジアに対して良くない印象を持っている人はやはり多くて、「どうせ同じお金払うなら、ハワイとか行くよ」っていう人も少なくありませんでした。

すごく悔しくて、自分の無力さを強く感じつつも、何かできないことがないか、考え尽くした結果、「講演会をやる」というアイデアが浮かんできました。自分の他に、カンボジアの魅力を語れる人をゲストに呼んで、本気で伝えたら誰か1人ぐらい行ってくれるんじゃないかって思ったのです。

地元の会場を探しました。ホームページを見ていたら『小ホール』ってところが1ヶ月後に空いていたので、そこを予約してみたら、240人収容のホールで「あかんやん、全然小ホールちゃうやん」って絶望しつつ、しかも1ヶ月で…と何度も絶望しつつも、ゲストのケイジさんにも声かけてるし、なんとしてもやらなきゃと思って、一人一人に(今思うと)あつくるしいメッセージを送りました。

そして迎えた当日。満席とはならなかったものの、180名近くが来場してくださり、初めての講演会は何を話たのか、全然覚えていませんが、イベントは大成功。そのイベントをキッカケに15人もの仲間が、「カンボジアにいきたい!」と言ってくれました。

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その夏、僕はケイジさんに現地のアテンドと旅のメンターをお願いして、13人でベトナムとカンボジアを縦断するツアーを実施しました。そして最終日に、「カンボジアに来れてよかった」「本当に宗一郎に出会えてよかった」と、参加した全員が言ってくれました。

後輩のミヅキなんて「来年が俺がやる!」って言ってくれて、実際に翌年も10人を連れて旅をしてくれました。実はそのツアーは今でも、慶応大学SFCの吉野ゆうとが代表を務める一般社団法人JECOで『旅革命研修』として続いていて、すでに300人以上がこの研修に参加して、カンボジアに行っています。

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あの旅から帰ってきた空港で、自分の小さな一歩が、人の人生をいい方向に大きく変えるきっかけを作ることができると感じ、やっぱり自分は人の人生に関わる仕事がしたいんだな、と改めて強く感じたのを覚えています。

トヨタ3年目を目前にして「会社を辞めるか、変えるか」

トヨタ自動車の2年目の僕は、とにかく足を動かして、人に出会って、本を読みました。ヒッチハイクの旅や、茨城県の鬼怒川が決壊した時や熊本の震災があった時などは現地に入ってボランティア活動などもしました。

さらに、仕事の方もずっと全力でやり続けていて、気がついたら、自分が働いていた職場はどんどん挨拶が増えて、どんどん楽しくなっていって、間違いなく、工場の中でいちばん明るい職場になっていました。

「何をするかよりも、誰とするかの方が大事」ってことを知り、職場が明るくなれば、働く人の人生も明るくなるな、と感じ、トヨタの中でもっとそういう活動をしたいという思いも芽生え始めていました。

そうする中で、トヨタの社員で、様々な活動をしている人とお会いすることもできるようになって、トヨタの職場を変えていくこともできるのではないかと思ってきたタイミングで、3年目を迎えようとしていました。

「あれ、後1年で辞めなきゃじゃん」そう思い、「会社を辞めるか、変えるか」ずっと考えていましたが、その決断はあまりにも難しく、決め切ることができなかった僕は、「離れる」という選択肢を取ることにしました。会社を1ヶ月ぐらい離れて、よく考えようと思ったのです。

手をのばさなければチャンスは掴めない

そんなことを考えているときに、たまたま読んでいた永崎裕麻さんの本で内閣府の『世界青年の船』の存在を知りました。そしてちょうどその1週間前の成人式で「世界青年の船に参加する」と言っていた同級生がいたことを思い出しました。

すぐに彼に連絡して、話を聞いて、僕はすぐに申し込むことにしました。とにかくビビっていましたが、職場の後輩たちに、「オレ、絶対選ばれるし、応援しててな」と、根拠のないことをいうことで挑戦することへの恐れと闘っていました。

1次試験の志望動機の作文は無事通り、2016年の6月に2次試験を受けました。2次試験の内容は、『一般教養テスト』『小論文』『個人面接』『集団面接』『英語面接』。できる限りの対策はしましたが、得意の面接以外は全滅で、「あ、終わった…」って思っていました。

一般教養は奇跡的に一問もわからず、「え、世の中の一般ってこんなにレベル高いの?」と驚愕し、小論文は人生において書いたことがなかったので、行きの電車で『小論文 書き方』ってGoogleで検索して、「ああ、なるほど、上は3つぐらい空けて題名かくんだ。読書感想文みたいな感じか」って調べて試験に望んだら、用紙がまさかの横書きでパニックになりました。

英語面接は、試験官が何言ってるか、1つもわからなかったのですが、最後の「Anything alse?(他に何かありますか?)」という質問の答えだけ準備していて、

『I don’t speak English well.BUT I HAVE A PASSION』

とドヤ顔で言い放ちました。すると試験官が前のめりになって、何やら英語の勉強の仕方について熱心に教えてくれました。『あれ、もしかしていける?』って感じで試験を終えました。

個人面接では、「僕を選ばないのは損です」ぐらいの勢いで他の参加者との違いを強調し、集団面接では持ち前のコミュニケーション能力を活かして、試験の前から”みんな仲良し!”の状態にしていたので、集団面接では最高のパフォーマンスを発揮することができました。

正直、合格する自信はありませんでしたが、挑戦したことと、やれることはやった自分へのご褒美として、帰りにハーゲンダッツのアイスを買いました。

試験の2週間後、夜勤に向かう車の中で内閣府からメールが届きました。信号待ちの間にメールを開くと『合格』の文字が。車の中でガッツポーズして、叫びました。後ろの車からクラクションを鳴らされて、青になったことに気がついて、再び車を走らせながら、自分の人生に新しい道が開いていくのを感じていました。

「無理かもしれない」と手を伸ばしていなかったら、チャンスさえやってこなかったな、と思います。あの時、恥さらしになるかもしれない、落ちたらいやだ、という自分の恐れに負けていたら、手を伸ばしていなかったら、チャンスは掴めなかった。

「チャンスが来るのを待つ」という人もいると思いますが、バス停まで行かないとバスに乗れないように、チャンスに手を伸ばさないとチャンスを掴むことはできないと思います。

とにかく、あの時勇気を出して、一歩を踏み出せてよかったと、本気で思います。
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一歩を踏み出す時の恥ずかしさは時間と共に小さくなるけれど、一歩を踏み出さなかったことへの後悔は時間と共に大きくなるのではないかと思います。**

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上司を説得するために

無事に内閣府世界青年の日本代表のチケットを手に入れた僕が、次にやるべきことは、上司を説得することでした。世界青年の船の期間は40日間。働き始めて3年目で私用で会社を40日も休むのなんて前代未聞だし、普通にやっても無理だとわかっていました。

僕はとにかく戦略を練って、最良の方法を考えました。それは、上流から流す作戦でした。最後は上の許可を取らなきゃ行けないなら、上からいってみようと思いました。

当時の僕の職場は一つの課に800人が所属するマンモス部署でした。その800人のトップである課長に「飲みに行きたいです」と約束を取りつけ、サシで飲みに連れてってもらうことに成功しました。
それができたのも、普段の職場での僕の頑張りを評価してくれていたからで、自分のやりたいことに挑戦する時のために、日々コツコツと頑張ることの重要性を感じました。

僕は、課長から色んな話を聴かせてもらいました。そして最後の10分で世界青年の船に行きたいと、勇気を振り絞って伝えました。なぜ行きたいのか、何を学んでくるのか、参加するには休みを取らなければいけないことなど、全力で伝えました。

僕の話を最後まで聴いてくださった課長は、「よし、行ってこい。オレがなんとかするから」「お前は今のうちに広い世界を見てくるべきだ」と言ってくださりました。そこからは、職場のみなさんが応援してくださって、僕が世界青年の船に参加するための体制づくりを進めていただきました。

自分が挑戦したいとき大事なことは2つあると思います。

1つ目は、周りの人に応援してもらうこと。それは普段の自分のパフォーマンスで決まることです。もし自分が「こんな仕事ダルい」なんて言っていたら応援してくれるはずなんてありません。

2つ目は、戦略的に進めること。もし僕が、一番最初に直属の上司に相談していたら渋い顔をされていたかもしれません。
ノリと勢いも大事ですが、ちゃんと頭を使って、タイミングと人を見極めて挑戦の実現可能性を最大限まで高めることが大事です。

こうして僕は、職場のみなさんのおかげで、世界青年の船に挑戦するチャンスをいただくことができ、そこから半年間は勉強の毎日でした。

DMM.comとハッシャダイとの出逢い

合格通知から2ヶ月後、世界青年の船の日本人だけの事前研修に参加しました。周りは大卒ばかりで、とても緊張していましたが、研修前にみんな「英語に自信がない」と話していて、今まで割と旅をして英語でコミュニケーションを取れていた僕は少し安堵していました。

しかし、実際に英語での授業が始まると僕は死にそうになりました。みんなが言っている「自信がない」と、僕が言っていた「自信がある」は5次元ぐらい違う話で、実際の僕の英語力は、う🙆‍♂️こレベルでした。
そんな衝撃と共に始まった世界青年の船でしたが、事前研修の時点で素敵な仲間に巡り会うことができて本当に嬉しかったです。

2017年の年越しを迎え、船まで残り2週間と時間が迫ったときに、世界青年の船の同期がFacebookでシェアしていたものが目にとまりました。

『君に、大卒に負けない力を』

それは、DMM.comが始めたDMMアカデミーの一期生の募集要項でした。DMMの亀山会長の直属で、色んな人に学びながら、給料をもらいながら実践的に力をつけていくという内容で、それを見たとき、すぐに申し込むことに決めました。

DMMのことを徹底的に調べ、亀山会長の記事を全て隅々まで読み、志望動機を完成させた僕でしたが、「自分なんかが合格するのか」と、自信がありませんでした。
Twitterなどで調べると、同世代の起業家や、旅人、エンジニアなど、明らかに自分よりすごそうな人が「申し込んだ!」とツイートしていてそれを見た僕は、”普通”に受けても工場の作業員の僕が受かるわけないと、思っていました。

じゃあ、”普通”じゃない方法でやればいい。僕が思いついたのは、『亀山会長に会いにいく』ことでした。ちょうど世界青年の船に参加するために東京にいくから、前入りして、行ってみようと、愛知からヒッチハイクで向かいました。

当時のDMM.comの本社があった恵比寿ガーデンプレイスに到着し、僕はキョドキョドしながら「21階」のボタンを押しました。エレベーターが着くと、いきなり受付で、きれいすぎる受付の方に出迎えていただきました。

👩「ご用件をお伺いします」
👶『亀山会長に会いに来ました』
👩「アポは取られていますか?」
👶『アポって…なんですか?』
👩「お約束のことです(にっこり)」
👶『あ!なるほど…取ってないです(恥)』
👩「…かしこまりました。少々お待ちくださいね」
👶『あ、ありがとうございます!(何を待つんだ…!?)』
(数分後)
👩「お待たせしました。担当のものが参りますのでもう少しお待ちください」
👶『えっ!本当ですか…ありがとうございます!!!』

という感じでまさかの受付を通してもらったんです。そしてそこに現れたのは、当時、DMMの人事本部長であり、DMMアカデミーの責任者だった沼野井さん。名刺も持っていない僕に本当に親切にしてくださり、オフィスを案内していただいた後、ゆっくりと話を聴いてくださり、たくさんのアドバイスまでしていただきました。

そして、一時間ぐらい話した後、

「亀山があってくれるって言ってるから行っておいで」

と言われ、会長室に案内していただきました。

「おお、何しに来たんだ…?」

という亀山会長の一言とオーラに圧倒されつつも、自分がここに来た理由、アカデミーに入りたいと思う理由を必死で伝えました。時間にしたら30分ぐらいでしたが、本当にあっという間に感じました。何を話したのか、全然覚えていません。

「まあ、頑張れよ」という亀山会長の一言でその時間は終わりました。やれることはやった、と思いながら「お時間いただき、本当にありがとうございました!」と伝え、部屋から出ようとした時、亀山会長から思いもよらぬ言葉をかけていただきました。

「今日俺のところに若いヤツが話をしに来るけど、お前も来てみたらどうだ」

即答です。Yesか、はいか、Yesしか選択肢はありませんでした。そしてそのまま、六本木のawabarに連れて行っていただきました。そこには(当時の自分はよくわからなかったけど)すごい人たちがたくさんいて、田舎者の僕はビビりっぱなしでした。

そして、その時に亀山会長の元に話をしに来ていたのがハッシャダイの久世さんで、亀山会長にヤンキーインターンのことを話しているのを僕は横で聴いていました。

まさにハッシャダイは、自分がやりたいことを全部やっていて、そのような会社がすでにこの世界に存在していることを知り、感動と悔しさを覚えました。

亀山会長に紹介される形で、久世さんと話始めた頃には、僕はハッシャダイに興味津々で、すでに大ファンになっていました。

これが、DMMとハッシャダイとの最初の出会いです。

朝4時まで続いた飲み会で、僕はDMMの色んな人とたくさん話をさせてもらい「アカデミー、絶対こいよ!」とまで言っていただきました。そしてその時は、船から降りたらすぐ、DMMに来るつもりでいました。

(結果的にDMMアカデミーの選考は、実際に最終面接まで残していただいたのですが3月に帰国したタイミングで選考を辞退することにしました。

DMMアカデミーに入学するには、3月に帰国してから、2週間で退職をしなければいけなくて、15歳からお世話になったトヨタをキッチリとした形で退職したいと思い選考辞退を決めました。)

世界の”深さ”を知った世界青年の船

DMM.comを訪ねた翌日から、世界青年の船の研修が始まりました。世界青年の船とは11カ国から240人の若者を集め、未来のグローバルリーダーを輩出することを目的とした内閣府のプログラムです。

世界青年の船に関しては、詳しく知りたい方はこちらをご覧ください!

40日間、240人の仲間との船旅は、僕の人生においての宝物となりました。本当に深いレイヤーで、幸せについての話や、人生についての話をする中で、世界の広さだけでなく、世界の深さを知ることになり、もっと学びたいという強い想いが芽生えました。そして、僕にそれを教えてくれるのは、世界中の全ての人たちで、船から降りたら、その人たちに出会う旅に出ようと、決心しました。

迷いを振り切り、トヨタを辞めると伝える

3月。船からトヨタへ帰ってきて、元どおりの日常に戻った僕は、まるで船の日々が夢だったかのような錯覚に陥ることもありました。

日常に戻り、仕事を再開すると辞めると思っていた自分の中に迷いが生じるようになりました。

「6年も育ててもらって、さらに長期の休みをもらったのに辞めるなんて恩知らずじゃないのか?」
「トヨタにいた方が安泰じゃないのか?」
「これって辞めないとできないことなのか?」
「どっちの道が正解なのか?」

そんな迷いに心の中を支配されていました。そんな迷いを振り切り、決断することができたのは、応援してくれた人たちの存在と、ちょうどその時勧められて読んだ、あるマンガの一節でした。

それは『バガボンド』というマンガに出てくる沢庵和尚が主人公の武蔵にいう言葉。

「お前の生きる道は、これまでもこれから先も、天によって完璧に決まっていて、それが故に、完全に自由だ」

どっちの道が正解で、不正解なのか、と考えてしまいがちですが、そもそも道は一本で、その道を正解に変えていくしかない、ということを教えてくれました。自分にトヨタを辞めるという選択肢ができたのも、本当に様々な要素が絡み合っていて、偶然とは思えない、そう決まっていたんだ。と思ったのです。

そして、僕はその翌日、上司に退職する旨を伝えました。
上司に話した瞬間、一気に運命が動き出す感覚に包まれて、すごく気持ちよかったのを覚えています。
一人一人に退職理由を説明しました。一人一人が納得して、僕の新しい挑戦を応援してくれました。

そして僕は、2017年7月31日に、6年5ヶ月お世話になったトヨタ自動車を退職しました。

何もなかった15歳の自分を一人前の大人に育ててくれて、さらに自分の世界を広げるサポートを全力でしていただいき、気持ちよく次のステージへの背中を押してくれたトヨタ自動車、そして、支えてくれたトヨタの皆さんには本当に感謝しています。「いつか恩返しができたら」と、今でも僕が頑張る1つの理由になっています。

スペイン横断、900kmの巡礼の道を歩く

トヨタ自動車を正式に退職した7月31日には、もう僕は飛行機に乗っていて、家族や仲間からもらった手紙を読みながら泣いていました。そして、初めて自分の人生を自分で選んだ実感が湧きました。それと同時に、自分で選んだ道を正解に変えていこうと、決めました。

僕の目的地は、フランス・パリ。南フランスにある小さな街、「カミーノ・デ・サンティアゴ」のスタート地を目指すためです。

「カミーノ・デ・サンティアゴ」とは、日本でいう、四国の「お遍路」のようなもの。そのキリスト教バージョンといえます。ヨーロッパの各地から、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指す巡礼の旅です。

僕は「世界の深さを知る旅がしたい」と思っている時に出会ったジョーさんの話を聞いて、ただ世界一周するのではなく、世界中から色んな人たちが集まる道を歩くことを決めました。

その道の上では、本当にたくさんの素敵な人たちに出会い、たくさんのことを話しました。
900kmもの道のりを毎日歩き続ける中で、嫌でも自分と向き合うことになります。

自分の過去、現在、未来…自分がこれまでどんな人生を生きてきたのか、自分がこれからどんな人生を生きていきたいのか、ずっとずっと考えました。

900kmを歩ききった先に、僕がたどり着いた答えは、『人の人生に関わる仕事がしたい』というものでした。さらに、その想いは『自分らしく生きられる人を増やしたい』『自分の可能性に挑戦する若者を応援したい』と、少しアップデートされていました。

自分が日本に帰ってきた時に感じたあの違和感…僕は『目が死んじまってる』という表現をしているのですが、日本に感じる閉塞感みたいなのを、ぶち壊したいって、思っていました。

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ハッシャダイの一員になることを決意

約4ヶ月間の旅から日本に帰ってきたその足で、ハッシャダイの久世さんのもとを訪ねました。その時、また改めて色んな話を聴かせていただき、自分はもしかしたらハッシャダイに入るかもしれないと、その時には感じていました。

地元に帰って、心を整理し、ハッシャダイで働くことを前提に久世さんに再度お会いできないかと連絡すると、久世さんは名古屋まで来てくれて、『来月からよろしく』と僕に伝えました。2017年12月中旬の出来事でした。

そして2018年1月、22歳になった僕は初めて上京して、晴れて株式会社ハッシャダイの一員となりました。

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ハッシャダイに決めた3つの理由

22歳の当時の僕には色んな選択肢がありました。もっと世界を知るために旅を続けるのか、写真展までやることができたカメラでフォトグラファーを目指すのか、他にも興味のある分野の会社に入るのか…

4ヶ月の旅を経て、本当に色んなことを考えた末の決断だったのですが、僕がハッシャダイに決めた理由は3つありました。

1つ目は、久世大亮という人の元で学びたいと思ったからです。あんまりこういうことを言うと、本人は恥ずかしがるのですが、僕がこれまで会ってきた人の中でいちばん『敵わないな』と思った人でした。

人としての優しさと、経営者としての強さという、2つの魅力を持ち合わせていて、しかも自分と年齢もそんなに変わらない。
僕は今でも、勝手に師匠だと思っているのですが、弟子は師匠を超える責任があると、これまた勝手に思っているので、いつかそうできるように頑張っています。

2つ目は、東京で暮らすことを人生で一度はしてみたかったからです。
世界青年の船に参加したことをキッカケに何度か東京には遊びに来ることはあったのですが、自分にとって東京は、なかなか住みたいと思える街ではありませんでした。

でも、東京という街が魅力的なのは知っていました。人も情報も、一番集まるこの街にはたくさんのチャンスが転がっていて、自分のやりたいことを叶える、そして、自分の世界を広げるのに、最適な街でした。

実際に上京して、ちょうど2年経つのですが、今では本当にたくさんの友達ができました。最近、また新しい東京の魅力を知ることもできて、東京で暮らすという選択をしたこと、本当によかった思います。
さらに、2020年はきっともっとおもしろくなる予感がしています。

3つ目の理由は、『CHOOSE YOUR LIFE』というメッセージをもっと広げていきたい、社会に実装していきたいと思ったからです。

『CHOOSE YOUR LIFE』とは、ハッシャダイが掲げるスローガンです。選択格差を是正し、自分の人生を自分で選択できる若者を増やすというビジョンを知った時、自分が日本に感じている閉塞感をぶち壊すには、これしかないと思いました。

生まれながらの環境によって、その人の人生の可能性が狭まれるなんて、悲しすぎる。
学歴がないからって、手をのばしてもチャンスはやってきもしないなんて、辛すぎる。

実際に、未来の可能性が見出せずに、今を諦めるしかない若者がたくさんいます。

ヤンキーインターンで、若者の可能性を最大化すること。そして、全国の若者に『CHOOSE YOUR LIFE』というメッセージを届けること、それが自分の使命だと感じ、ハッシャダイの一員になることを決めました。

『ヤンキーインターン』で非大卒の若者と向き合った1年目

ハッシャダイにきて、最初の仕事は当時の新規事業だった「yankee.hacker」という新規事業の立ち上げと、参加者のメンターをすることでした。
そして、途中からはヤンキーインターン全体の新人研修の開発、実施から、卒業までのプログラムの作成などを行いました。

1年間の間に、200名近くの参加者たちの人生に関わらせていただきました。

今考えると、最初はMacの使い方なんて全然わからなかったし、タイピングも 本当に遅かったし、ビジネスメールの送り方も、名刺の渡し方も、全然知らなかったし、教育プログラムを作る知識なんてまるで皆無でした。
だから、1からビジネスマナーを学び、教育に関する本を読み、参加者と向き合うために心理カウンセラーの民間資格を取得しましたし、コーチングのスクールにも通いました。

最初の1年間は、本当に目まぐるしすぎて、あっという間でしたが、ハッシャダイならではのスピード感のおかげで、圧倒的な速さで、できることが増えたし、知らないことがたくさんあるということを知ることができた一年でした。

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突然舞い込んだ高校での講演依頼

1年目の時、ハッシャダイで働きながらも、学校の教育になんとか関われないかと考えていた時、知り合いの方から、地元の高校の『生き方講座』という授業の依頼をしていただきました。もちろん、喜んで話を受けました。

そこから、僕は月に2回ぐらいのペースで高校での講演活動をするようになりました。当時は、実費で交通費や活動費を捻出していました。

誰からも評価されなくても、自分が一番やりたいことだし、必ず意味がある、そう信じ続けて活動していました。

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そして、新規事業の立ち上げへ

僕が、講演活動をするようになったちょうど同じぐらいのタイミングで、ハッシャダイの創業メンバーであり、今の僕の大親友で、さらにビジネスパートナーでもある勝山にも、高校から講演の依頼が届くようになっていました。そして、2019年の頭には、2人で月に10本近くの講演をするようになっていました。

僕と勝山は、有給を使ったり、うまく仕事の合間を縫って講演活動をしていましたが、高校での活動をする中で、この活動が社会的にも、会社としても必ず意味があるものだと確信していきました。

どれだけハッシャダイとして、いいサービスを作っても届かなかったら意味がないし、どれだけ選択格差を是正したとしても若者たちが自分の人生を自分で選び取る力がなかったら意味がない。

実際に、高校にいって進路の話を聴くと『親や先生に言われたから』『周りがみんなそうするから』といった理由で、なんとなく進路を決める高校生がたくさんいました。

そして、その進路の決め方が、会社とのミスマッチによる早期離職の原因になっていたり、奨学金により自己破産してしまう若者が増えている原因になっていたりします。

そして何より、自分で決めていないから、人生で失敗した時に、簡単に人のせいにできてしまって、立ち上がることができない若者がたくさんいるんです。

この問題を解決し、本当の意味で自分の人生を自分で選択できる若者を増やすことが、これからを生きる一人一人の若者の人生をよりよくするんじゃないか、と勝山と話していたのを覚えています。

ビジネスの視点から見ると、高校での講演活動なんて、”稼げる”ものではないし、当初社内からはその活動をやることに対して、反対の意見が多くありました。

たくさん喧嘩して、たくさん話し合って、半ば強引に「必ず形にするぞ」と勝山と共に覚悟を決めて、2019年の頭に「ハッシャダイスクール」という船を漕ぎだしました。

ビジネスプランなんて、全くなくって、勝山と頭を付き合わせながらどうするか、ずっと考えていました。

もう、頭おかしくなるんじゃないか、って思うぐらい考えていた時、神様が救いの手を差し伸べてくれました。ある日、会社に一件の問い合わせがきたのです。

都内にある昔ながらの小さな会社ですが、企業として御社の活動の力になんらかの形でなりたいと思っています。

都内のある企業の社長さんからの問い合わせでした。
すぐに約束を取り付け、その1週間後、勝山と2人で会社を訪問させていただきました。

そして、約1時間もの間、僕たちの講演活動に対する想いをお話させていただきました。社長は静かに話を聞いてくださり、最後にはハッシャダイスクールのサポーター企業として、サポートすることをその場で決めてくださいました。

あれから9ヶ月、今、ハッシャダイスクールは合計8社のサポーター企業に支えられ、活動をすることができています。
もちろん、持続可能な形で教育事業をやっていけるよう、常に新しいビジネスモデルを考えては、試してを繰り返しています。

僕たちは、2019年の1年間で121もの学校と活動をさせていただき、講演を届けた高校生の数は3万人にも及びます。
そして、講演活動だけにとどまらず、高校生向けの自己探求ワークショップ『CHOOSE YOUR LIFE BOOTCAMP』の開発・実施、オンラインや授業後の進路相談会の開催、修学旅行のプログラム受け入れなどを完全に無償で提供することができました。

そして、先生向けにも『スナックハッシャダイ』という月に一度「キャリア教育」というキーワードを中心に先生が集まるコミュニティを立ち上げたり、先生向けにワークショップや勉強会などを開催することもできました。

2020年は、ハッシャダイスクールとして、もっと事業を大きくして、より多くの高校生に、より良い教育プログラムを提供し、教育効果を最大化していきます。それと同時に、様々な仮説を教育現場で検証して、次の世代に繋がる研究結果を残していきたいと考えています。

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学歴よりも、大切なこと

『人の人生に関わる仕事がしたい』
14歳のとき、一度諦めかけた夢。
10年経って、叶えることができました。

工場でライン作業をしながら、小さな窓の奥の青空を見上げては、『いつかこの作業着を脱いで、もっと広い世界に出るんだ』って、毎日考えていた18歳。

ひたすら足を動かし、人に出逢い、本を読み続けた19歳。

世界青年の船への切符を掴みとり、大海原へ飛び出した20歳。

トヨタを辞めることを決意し、世界の深さと、自分自身を知るためにスペインを歩いて横断した21歳。

ハッシャダイの一員となり、また”0”からスタートすることを決意した22歳。

仲間に支えられ、仲間と共に自ら新規事業を作り上げて、全国各地の高校生にメッセージを届け続けた23歳。

愛知県の田舎で育って、コネクションも学歴もなかった自分でも、こうして自分の好きなことを仕事にすることができて、夢を叶えることができました。

今の僕を見て『お前は特別だから』という人もいますが、それでいうと、僕という人間が特別なのではなく、一度きりの人生をより特別にするための行動をしてきただけです。

生まれ持った能力ではなく、ただ愚直に地道に、行動しただけ。
それは、あなたにもきっとできることだと思っています。

・自分の中に湧き上がる情熱や不満から目を背けないこと
・人生の師匠を見つけること
・常に目の前にあることを自分が全力で楽しめるように工夫してみること
・自分のやりたいことがないのなら、探し続けること
・若いうちは”モノ”ではなく、”経験”にお金と時間を使うこと
・みんなと同じことを、しないこと
・日々のひとつひとつのご縁を大切に扱うこと
・人生はよくなっていくと、信じること

自分の夢を叶えたり、自分の好きなことを仕事にするのに、学歴という資格なんて、必要ないと、僕は思っています。(ほとんどの場合は)

『高卒だから、だめだ』と、自分の可能性にフタをしている人がいたら、僕は優しく鼻フックをしてあげたいです。笑

認めたくないかもしれないけど、この社会はめちゃくちゃ不平等です。
生まれながらに金持ちの人もいれば、
メシ食ってくのも大変なぐらいの貧乏の人もいるし、
誰もがうらやむ才能を持ってる人もいれば、
何をしても平凡から抜け出せない人もいる。

なんだこれ、ってイラつくこともあるかもしれないけど
それは幸せになれない理由にも、夢を叶えられない理由にもなりません。

その事実を一生懸命、まるっと飲み込んで
一度きりの人生を自分で最高のものに特別なものにするために
必死で手を伸ばし続けたら、不平等とかもう、どうでもよくなります。

高卒、だからなんだ。
自分自身の人生は自分でつくっていく。そう決意して、自分で行動することができたら、必ず道はひらけると僕は思っています。

夢は続いていく

僕は20代後半、アメリカの大学に進学しようと思っています。
もっともっと学んで、もっともっと力をつけて、残りの人生でできることの数とインパクトを最大化していきたいからです。

あとは、できるだけ、今のうちにたくさん失敗をさせてもらいたいです。将来、できるだけでっかくて、カッコいいお父さんになりたいからです。
でっかくて、カッコいいお父さんって、子供の失敗を笑って許せる人だと思います。そういう人って、自分がたくさん失敗してきた人なんじゃないかと思います。
だから、今のうちにたくさん失敗をさせてもらいたいと思います。

僕には「笑って、死ぬ」という人生の目標があります。
これからも、それを叶えるために、邁進していきます。

これまで僕に夢と希望とチャンスを与えてくれた、かっこいい大人たちの期待を勝手に背負って、自分の可能性に挑戦し続けます。

そしていつか、自分にそうしてくれた大人たちのように、次の世代に、夢と希望とチャンスを与えられる人間になれるよう、走り続けます。

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ここまで、読んでくれたみなさん、本当にありがとうございました。
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