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ぼくの人生第一章3部-高校-

ぼくは全国で注目を集める前橋育英高校に入学した。やっぱりメンタル的にきつかったし、つらかった。本気でサッカーと向き合う3年でもあった。今回はテーマ事に話して行こうと思います。
話が急に飛ぶこともあるので、よろしくお願いします。

-自転車-

急になんの会話だよって思うかもしれませんが、ぼくは自転車通学です。

「だからなんだよ」

そのツッコミ待ってました。ありがとうございます。

ぼくの家から学校まで約15キロ離れています。往復30キロ、それを3年間ほぼ毎日こぎました。朝は7:30に朝練が始まるから6:15に出発。基本午後4:00から練習。それから自主練。帰るのはいつも、午後8:00か9:00。それからすぐ風呂入ってご飯で10:30には寝る。そして、また同じ朝。それが習慣だった。

当時めちゃくちゃきつくて、慣れるまで時間がかかった。体調も何度も崩した。その瞬間になれてからはオフの日でもその時間に起きてしまう。オフの日はいつも友達の家でゲームだ。
友人はいつもまだ寝ているが、おれのLINEの電話で起こしていた。そのため、良い迷惑でもあった。

-新しい環境-

ここからがサッカーの話である。
さすが、全国制覇を狙う高校とあって、競争は激しかった。1年生はネームTシャツを着て練習。「金田」というシャツは抵抗があったが、慣れれば、わざわざ服を選ばなくても済むというメリットもできた。

練習は最初からなかなかきつかった。
とくに、毎週10キロ走るとは思ってもいなかった。しかも、その後に練習もあった。足もつり、帰りの自転車はまったくこげなかった。
生きていけるのか心配だったが、意外と慣れるもんだと思った。


-国体-

1年は国民体育大会がある。
ぼくはそのメンバーとして、戦うことになった。1年生の時は、4月から10月まで国体があったため、ほとんど高校で練習してない。場所は、同じ高校だったがwwメンバーもほとんど同じ高校だったがww

草はやしすぎた。はやしすぎて森。森通り越して夢。夢とおりこして俺。

はい、意味わかりませんね。ごめんなさい。

全国大会は長崎県、はい、ここで出てきました。なんと、また飛行機がとれるチャンス。前の記事読んでもらえればわかるんですが、飛行機に乗りたい好奇心があるのです。
しかし、群馬県は関東ブロック予選を突破したのは過去10年で一度だけ。それくらい難しいものだった。

しかし、今年のチームは予選リーグも1位で突破し負け知らずだった。

勝てる自信しかなかった。
全国を決める試合は勝った。9年ぶりの快挙を成し遂げだ。でも、終わりではなく、これからが始まりだ。

飛行機にのり、長崎へ。

ん??飛行機にのり、、

おおおおお!!!やった!!飛行機にのれた!!以上

全国大会の1試合1試合すごく白熱した。毎回延長戦で体力勝負に持ち込んだ。見事決勝まで進むことができた。しかし、ぼくは決勝に出場することができなかった。すごく悔しい思いをしたことを覚えている。

父さんはわざわざ長崎まで見にきた。
母さんは入院していた。この2人のために国体は頑張ったと言ってもいい。なのに、最後に出る事ができず、めっちゃ泣いた。
結果にじゃない、自分の情けなさに。

この時、サッカーへの覚悟が強くなった。

これがぼくの国体最後の姿勢。
ボールを拾った俺。

群馬県一部リーグ

2年生の時は、Bチームで試合に出た。
3年生はとてもうまかった。だけど、負けたくはなかった。すごく優しかったし、いつも背中でチームを引っ張る。そんなたくましい先輩だった。だからこそ、Bチームでも、頑張ろうと思えたし、Aチームを目指して毎日努力できた。

リーグ戦の最終節が1番印象に残っている。

相手は首位の桐生第一、育英Bは2位だった。
相手は引き分け以上で優勝が決定する。
でも、これも勝てば優勝。実質、決勝戦だ。

リーグ戦に優勝すると関東プリンスリーグの参入戦への権利が獲得できる。
Aチームはプレミアリーグへの参入戦が決まっていた。どちらも勝つ事ができれば、2チームが関東以上のリーグで試合することができる。

リーグ戦は簡単ではなかった。
リーグ戦とは思えないほどの人が見にきた。

まるでトーナメント戦のようだった。
いつも気楽に戦っていたが、3年生の気持ちの入れ方が違った。それはそうだ。勝てば、参入戦で試合ができる。負ければほとんど引退と変わらない。

両チーム譲らない攻防だったが、育英が少ないチャンスをものにして、優勝することができた。1年通して、すごく良い終わり方ができた。

ぼくはその次の週からAチームのプレミア参入戦に呼ばれた。しかし、結果は負け。
Aチームは、プレミアリーグに上がる事ができず、関東プリンスリーグに残留となった。

そのBチームはプリンスリーグの参入戦への権利は2位の桐生第一が獲得した。
3年の顔を見ることができない。
何人か練習に姿を表さなかった。

優勝したときの写真

-3年生-

去年の悔しさを忘れず、ラスト1年にのぞんだ。
みんなから投票で副キャプテンをすることになった。副キャプテンの役割は、キャプテンを支える、プレー、生活以外のところでも育英サッカー部の看板を背負っていることを忘れない、みんなに行動で示すなど様々あるが、ぼくはそれを一個もやったことない。

はっきり言ってそれどころじゃなかった。
怪我して、治れば怪我して、治れば車にひかれて、治れば、怪我しての繰り返し。

チームなんて見てられないし、サッカーどころではなかった。グラウンドにいって何もできない悔しさ。後輩はサッカーが上手。怪我で筋トレもできない。サッカーを見れば悔しさで口から文句がでる。

サッカーがすごく嫌いになった。

医者から選手権までに怪我が治るのは厳しいと言われた。親にそれを告げた時、今までよく頑張ったよって言われた。なにも頑張っていない。普段から怪我で暇だったからコーチと話すことしかなかった。だから、ほかのチームメイトに比べ、コーチから信頼が厚かった。

怪我はよくなり、試合はダメだが、激しい練習でなければやって良いと医者に言われた。

育英にハード以外の練習があるわけがない。

無理をしてでもやったが、思い通りに動かない。ぶつかることが怖かった。

最後の選手権、監督には怪我で試合にでれないことは怪我した時に告げてあった。
でも、ベンチにずっと入れてくれた。
3年生にとって、誰もがベンチに入りたかった。
怪我で試合に出れないのはわかってるのにアップしたこと、動ける人がいるに、動けない人を優先したこと。とにかく、いろんな思いが自分の中で溜まっていた。

だから、選手権の最後、最後のロッカールームの時、1人の後輩と埼玉スタジアムの周りをボトル拾いのついでに歩いた。

そのボトル拾いの一周がぼくの高校サッカーをしめる最後の仕事。

何か高校サッカーに爪痕を残したい。
その一心、

「埼玉スタジアムにスパイクで穴を掘った。」

だが、その穴は次の日には修正された。

ぼくの爪痕は消え去った。


-終わりに-

今回は、テーマごとにして、場面ごとの思い出話になってしまいました。すみません。
いつも面白くないのですが、今回は特別面白くなかったと思います。

つぎは、大学編ですのでよろしくお願いします。

ご清聴ありがとうございました。

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