自由は不自由の中に
あれ、この駅、エレベーターがない…?
子どもがまだ0歳だった、あの日。
わたしは駅のホームに降り立って、途方に暮れていた。
ぐずる子をベビーカーから降ろした拍子に、取っ手にかけていた荷物の重みでベビーカーがひっくり返る。あぁ…。
汗だくになりながら、子どもと荷物を抱えてベビーカーを立てなおし、階段をのぼっていく。
この子だけは死んでも落とすまい、と右手に力を込める。
あの日から数か月。
子どもは1歳になり、わたしも母1歳になった。
子育てがはじまって、できないことは確実に増えた。
ごはんをゆっくり食べることも、8時間ぐっすり眠ることも。友達とカフェでおしゃべりしたり、一人で映画を観に行ったり、そんなことも気軽にできなくなった。
だけど、できなくなったことばかりでもないな、と最近思うのだ。
赤ちゃんのお世話はもちろん、ハプニングに落ち着いて対応することも、さまざまなことを想定して段取りすることも、8キロを抱えて家事をする腕の力も、そして抱っこしたままなんでもする足先の器用さも。
以前のわたしにはできなかったことが、たくさんある。
それらすべてが、母としての自信というか、「何があっても大丈夫」と思える心持ちにつながっている。なんなら、以前よりも自由な気さえする。
自由って、なんなのだろう。
子どもを産む前より確実に不自由になっているはずなのに、どうしてわたしはいま、自由を感じているんだろう?
考えてみると、たぶん、自由って2種類あって。
ひとつは、自分でコントロールできるということ。自分で好きなように、思ったようにできるという感覚。これが一般にいう「自由」なのかもしれない。
でももうひとつは、実は自分でコントロールできないものに付き合う力なんじゃないかと思う。
赤ちゃんのように、自分でコントロールできないものに向き合い続けていると、自分の意思が行方不明になる。笑いたくなくても笑って、どれだけ眠くても抱っこして。そのしんどさは、たしかにある。
だけど、ずっと相手に振り回されているだけでは疲れてしまうから、相手に付き合いつつ、楽しむ方法を見つけてきた。
ささいなことだけど、抱っこしててもおやつは食べられるし、子連れでもショッピングは楽しめる。夫や両親に頼れば、一人の時間も十分つくれる。子どもがいるから楽しめる場所もあるし、子どものおかげで強面のおじさんの笑顔だって見れちゃう。
不自由と付き合うのがうまくなる、というのかな。
不自由と付き合っているうちに、いつのまにか、そのときなりの自由が、ひょこっと顔を出している。
だから、きっとね。できなくなることを、そんなに恐れなくてもいいんじゃないかなぁと。
子育てだけじゃない。卒業したら、就職したら、結婚したら。「〇〇ができなくなるから、今のうちにやっておこう」とか、言うけれど。
できなくなることが増える分、できることも増えていく。
大人になるって、たぶんその繰り返しだ。
そして、できないと思ったことも、周りの協力を得たり工夫したりすれば、やってやれないことはない。
それは「自由」と呼んで、差し支えないんじゃないだろうか。
人生の変わり目、できなくなることばかり考えてしまうとしたら、それはできることが増える前夜の痛み。
人ってうまくできていて、しんどいことだけで人生がいっぱいにならないよう、そのときどきで楽しみをちゃんと見つけていく。
どんなにつらいことがあっても、ふとした冗談に笑ってしまうように。どんなにひどい失恋をしても、ごはんがおいしいように。
不自由なことだらけに思えても、その中から自由を感じる力が、わたしたちにはちゃんと備わっているのだと思う。
ベビーカーを押して、駅のホームに立つ。
流れるような動きで電車に乗り、扉のそばの角におさまったわたしは、目的地にエレベーターがないのを知っている。
駅に入ると、ささっとベビーカーのロックを外し、後ろ向きで電車を降りた。
右手で子どもを抱え、荷物を肩にかけ、左手でベビーカーを持って階段をのぼる。
秋の風が気持ちいい。まだ午前中の、まっさらな空気の匂い。はじめて赤ちゃんと出かけたのも、秋だったな。
たぶん、わたしはあの頃よりも、少しだけ強くなった。いまならこの子と二人、どこでも行けるような気がする。
階段をのぼりきり、見上げた空の青さに、思わず深呼吸をした。
毒にも薬にもならない文章ですが、漢方薬くらいにはなればと思っています。少しでも心に響いたら。