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家を建てるみたいな愛をしたい

友達のおすすめで
花束みたいな恋をした」を観てきました。


邦画をあまり観ない友達が勧めていたので

普段は恋愛モノを僕は観ないのですが

これはなにかあるな、おもしろそうだと思ったのですぐに観に行きました。


現実のお話みたい

恋愛映画やドラマの経験があまりないので

これがよくあることなのかどうかわからないんですが、

この映画の世界が

僕たちの生きている世界を舞台に繰り広げられていて

(例えば、この主人公の二人が終電を逃して寄ったお店で

偶然”押井守”を見つけて興奮したり、

二人が見に行こうとして行けなかったライブが天竺鼠の単独ライブだったり、

一緒にミイラ展行ったり

静岡にデートしに行って時間がなくてさわやかのハンバーグを食べ損ねたりとか)

実際に僕も知っている、触れたことがあるものを扱っていたので

作品の中の人というよりも

実際にこんな二人がこの世界のどこかにいるんだなと思えたのと

だからこそ自分に照らし合わせやすかったので

恋愛ものが苦手な僕でも難なく見れた気がしました。


不安と希望の実像が

二人の恋の始まりが20代の初め頃という

子供でもないし大人にもなっていない

とても未熟な、

未完成な(完成なんて一生しない気もしますけど)、

不安定な状態で

不安を感じながらも

その不安はあまり現実味を帯びることもなくぼんやりとしたもので

どちらかというと夢や希望や期待が大きく膨らんでいる状態でもあります。

こんな状態のときに

好きなことや思っていることが同じだ!

こんなに人と共感できるんだ!という人と出会っちゃったら

そりゃもうビビビっときて

この人と出会うために生まれてきたんじゃないかなんて思ってしまうこともあります。

そういう人と出会った衝撃というのは

この若さだからこそ感じる衝撃でもあるのかなと思います。

もちろん
いつになっても衝撃を感じることが出来る人もいるでしょうけども、

大半の人は
一回目を相当超えてくる人と出会わないと衝撃は感じないのではないでしょうか。

大噴射のロケットスタートで始まった恋愛も

時間が経つにつれて

始めの頃の不安と希望の割合がお互いに変化し始め

この場合では男の方の”麦”が大きく変化しているのでしょうか。

彼はもともとイラストレーターになりたくで下積みでイラストを描いたり

アルバイトして夢を追っていたが

二人で生活するためにはしっかりお金を稼がなければいけないと

ついに夢をあきらめ、就職するが

女の方の”絹”は

もともと大学卒業の際に就活をしたがうまくいかず

そこからフリーターになり資格を取ってい事務職に就きながらも

二人の共通であった趣味を楽しみながら

ついに自分の好きな分野で仕事に就くことが出来た。

この二人の生き方が最初こそ

趣味を介して一緒に歩んでいたのだけども

段々と別々の道を歩いていて

気付いたら声の届かないくらい別の路線を走っていました。

あの最初の
めちゃくちゃ楽しく一緒の道を歩いていたころがあるだけに

この別々の場所にお互いがいることに違和感を感じてしまったのかもしれなません。

別の言い方をすれば

お互いに大切だと思っていたことが

時間が経つにつれて明確になり、その実像が浮かび上がってきたときに

その違いを見て違和感を感じるということでしょうか。

ただここで

男と女の違いがありました。

僕は男なのでおそらくこの意見が男の大半であると思って男を代表して書きますが、

二人がお互いに別れを切り出そうとしたとき、

その日は別れるときは笑顔で別れたいという思いから二人で一日を楽しく過ごし、

その日の最後に話をしようとファミレスに行き

お別れの話をするのですが、話をしているうちに

男”麦”はやはり別れたくないと、

こんなに楽しく居れるんだからやり直せると、

結婚したらなんとかなるって言っちゃいますね。

本当にこんなもんで

やっぱり楽しいんじゃねえか!って

今後もなんとかなるだろ!って思ってしまいがちだと思います男は。

これってやはり間違っているのでしょうか?

なんとなく間違っていそうだよな、

やっぱり女の子がもうだめだというその言葉が正しそうだなとは思うのですが、

どうなんでしょう。


恋って・・

つくづく思うのですが

結局”恋”って終わってしまいますよね。

これが嫌なんです僕は。

二人の恋は終わってしまって

またそれが新しい恋の始まりだとも言うのですが

その新しい恋も結局終わりが来ちゃうんじゃないの?なんて思ってしまいます。

終わってはしまったけど大切な思い出だとか

その恋が糧になって今の自分があるのだとか

そんなこと言ったら

何回も何回も恋を初めて終わらせていけば

どんどん大切な思い出や糧を増やしてパワーアップしていくものなのかよと。

もちろんそんなことはなくて

全力で人を好きになった結果

お互いのいい距離、形を保ち

人生をいいものにしていくためには離れなければいけなくて

この恋が必ずしも時間の無駄ではなかったと肯定するために

そんな言葉があるんでしょうけども。

この映画の中で

始まりは終わりの始まり」という言葉が出てくるのですが

それを恋愛に照らし合わせ

まるで恋は終わるものであるみたいな価値観を持ちながら恋愛をしている

主人公の女の子”絹”ちゃんに

ちょっと待ってくれよという思いがあります。

最初からあきらめてるようで

達観しながら結局恋なんてそんなもんでしょと思っちゃってるんじゃないかと。

これは自分にも言えるのですが

恋に関わらず、

何事にも楽しい瞬間がありまして

そのときに「ああ楽しいなあ!」と思いながらも

「でもこの時間も長くは続かないんだよな。あーあ」

という思いも出てきちゃって

全力で楽しんだ後にそれが終わって寂しくなるのを恐れるあまり

楽しみながら

「これ以上楽しんじゃうとこれが終わったときにとっても悲しくなるよ!」

と自分で楽しさにブレーキをかけてしまうことがあります。

だからこそ

恋には終わりがあるなんて思いながら恋するんじゃなくて

終わらせない努力をしろよ!って思ってしまいます。

でもそれでも終わりが来てしまうときはあるわけで。


僕はそんなに恋愛なんかしたことありませんが、

それでも数少ない恋の終わりをむかえては

なにこれ???

に尽きてしまいます。

人並みに感傷に浸ったりもしますけど

もっとこうすればよかったんじゃないかと後悔とかしても

もうそれを生かす人もいなくて

新しい人にそれを生かせば?とも思いますが

十人十色であの人にしてあげるべきだったことはこの人にしてはいけないことだったり。

結局思い出のままで

それ以上でも以下でもないというか。


今回の映画「花束みたいな恋をした」では

タイトル通りこの恋は花束のようにキレイだったねで終わり

新しい恋が始まっていくのだけども

僕は花束で終わってしまう恋なんてまっぴらごめんだと思いました。

映画批判ではなく恋批判ですねこれは。

花束は枯れちまうじゃねえか!

そんなキレイな思い出で終わってしまう恋よりも

一生住める家を建てるような恋、いいえ愛をしたいなと思いました。












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