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わすれもの

プラスチックの白いトレーに「わすれもの」と書かれた小さな紙が貼られている。僕は軋む音のするパイプ椅子に深くもたれて背伸びをしながら、遠目にその捲れた紙を眺めていた。流し目に部屋の壁掛け時計を見る。休憩時間は残り10分だった。6畳程の休憩室の壁際、スチール製のラックに置かれているそのトレーは店長が最寄の100円ショップで購入してきたもので、わすれものという文字を書いた紙を貼ったのは僕より2年先輩の女性従業員だ。女性らしい字だ、なんて言うと語弊や差別的に聴こえてしまうかもしれないが、達筆とは程遠くとも丸みがかった特徴的な”わすれもの”の文字は小動物の様に可愛げがあり、鋭角な書体よりも個人的に好感がもてるものだった。恐らくは学生時代、手紙交換をした友人の間で流行った書き方なのだろう。大人になってから身についたものではないはずだ。その字を書いた先輩従業員の名はムラセさんといった。ほとんど休み無くシフトに入っているムラセさんは従業員の間では店長に次いで頼れる存在だった。今日も僕の休憩の後、つまりは従業員の中で一番最後にムラセさんは自分の休憩をとる。口数の多いタイプではなかったがそうした勤務中の細やかな思いやりで周りから信頼を得れる、そんな女性だった。パイプ椅子の上で充分に伸びきった体の反動をつかって上半身を起こした僕は立ち上がると、ムラセさんの文字が貼られたトレーに歩み寄る。店長からは休憩時間の合間、もしくは退勤してから必ず一回は中の物を確認するように指示されている。経年劣化で少し黒ずんだ容器を覗き見ると、タヌキとウサギを混ぜた様なキャラクターもののキーホルダーや自転車の鍵、残高があるのかないのか不鮮明なクオカードなどが郷愁を伴った様な姿で無造作に散らばっていた。キーホルダーに関して云えば僕が勤め始めた頃からこの中にあったはずだ。たぶん落とし主ももう存在を忘れているだろう。週末に休みをもらっていた僕は二日ぶりの出勤だった。土日は家族連れが時々訪れるこの店舗は週末開けの月曜日は大抵新しい忘れ物が追加される。今週は玩具の小さな指輪が仲間入りしていた。おもむろに僕はその指輪を手に取ると顔の前で仔細に眺めた。プラスチック製の水色のリング、そこにキャンディーの様な大きくて透明な紫色のダイヤが埋め込まれていた。小さな女の子ならば誰しもが目を輝かせそうなデザインだ。この指輪を落とした女の子は今頃母親に泣きついているのだろうか。僕は幼少期の忘れ物の経験を思い出しながら空想の中の指輪の少女を想った。ゆっくりと指輪を戻そうとした僕はそのトレーの隅で一際目立つものを見つめる。正確に言えば"今日も"その存在が"この場所"にある事を"確認"している。そう、土日を挟んだ二日ぶりの出勤、もしかしたら。もしかしたら。という気持ちもあり僕は実際には面伏せな顔をしながらトレーに近づいていた。指輪を手に取ったり、少しだけ思案を巡らせたのも自分の中で少しだけ早くなった鼓動を落ち着かせたかったからだ。僕は少しだけ視線を逸らしてから改めてそれを見る。光沢のある黒縁の眼鏡。あれから3ヶ月も時が経ったことなんてカレンダーを見て意識するまでは実感すらなかった。本当に何もかもが、そう。瞬間的に過ぎていた。僕はその忘れ物の眼鏡を手には取らない。白い容器と僕の顔との間、息のかかるくらい近い距離でじっとそれを見つめている。テーブルの上に置いていた携帯電話のバイブが鳴る。休憩時間の終了を告げるものだった。僕はその場所から後ろ髪を引かれる様にゆっくりと体を動かし携帯を手に取ると、残り数時間となった夜の業務へと再び戻った。
過去の出来事を鮮明に覚えている人はいるだろうか。大切な友人との旅行、記念日。突然の別れ、卒業。そして出逢い。その出来事が大きければ大きいほど印象というのは私的な感情を伴って強く根付くものだが、僕にとって3ヶ月前の出来事は普段と変わらない一日の中にあった。9月の終わり、少し肌寒い日の事だ。その日、台風が接近していたN市内は昼間から薄暗く曇っており、店内の窓を雑巾で掃除しながら今にも一雨降りそうだななんて僕は考えていた。午後の掃除を終えてムラセさんに休憩に入るように指示を受けた僕は賄いとして出されたオムライスを食べながら昨晩携帯音楽プレイヤーに入れたばかりのアーティストの新譜音源を聴いていた。流し目にネットニュースの一覧を見ていると地元の天気予報が目に入る。台風の接近速度は予想よりも早いらしく、やはり夕方から強い風を伴った大雨が降るらしい。きっと傘も役に立たないだろうな、と僕は帰り道で自分の身に起こるだろう出来事を想像した。液晶画面をスクロールすると政治関連の時事ニュースが目に入ったがあまり興味の無かった僕は携帯を置いてオムライスと耳元の音楽に集中した。あっという間に30分の休憩時間は過ぎ、カウンターに戻った僕へ顔を向けたムラセさんは眉間にぐっと皺を寄せて親指で外を指しながら「降ってきたみたい」と小さく告げた。店の入り口は入居しているビルの構造上少し奥まった場所にあり、突然の雨が降った時にはそれを凌ぐ様に店の前には数人の人だかりが出来ることがあった。今日も例外なく既に幾人かが店の前に集まっていた。外の冷たい風に我慢できなくなったのかその中の一人が濡れた袖口を庇う様な動きをしながら店に入ってきた。外の様子が気になって入り口の傍に来ていた僕はムラセさんより先にその人に気付き、いらっしゃいませと声をかけた。前下がりのボブヘアー、黒縁の眼鏡をかけた気弱そうな女性は先に店内にいる客の目を気にするようにゆっくりとカウンターに近づいてきた。ベージュのステンカラーコートは湿気を吸って少し重たげに見え、跳ねた前髪が気になるのか彼女は片手でしきりにいじっていた。地味。というのが最初の僕の印象だった。少しだけ高い位置に設置されたカウンターから僕は見下ろす形で彼女の前に立つ。見たところ僕と同じ20代半ばだろうか。オレンジの間接照明に照らされた彼女の髪の毛はカラーリングなどされておらず真っ黒だった。通っている大学で巻き髪の女子や奇抜なカラーリングの男子を普段から目にしていた僕にはなんだかそれが少し珍しく感じた。目の前のメニューに軽く目を通した彼女はまるで単語を切るように、ホットの、コーヒーの、小さなサイズを。と、僕にオーダーした。当時はまだそれほど仕事に慣れておらず掃除を主に任されていた僕は、普段あまり触っていなかったレジのタッチパネルの該当のボタンを探す。半ば見切り発進の様に放たれた"230円です"という僕の言葉と、追加の注文があった彼女の"それと"という言葉がカウンター越しで意図せず正面衝突してしまった。あっ、という声が反射的に互いに漏れ、相手を敬うように顔をあげた僕はそのタイミングで初めて彼女と目が合った。前髪をいじりながら、ごめんなさい。と気恥ずかしそうに砕けた笑顔を見せた時、僕はもう彼女から目が離せなくなっていた。一瞬だった。人生の中で一度や二度、そういった瞬間があるなんて誰かから聴いたことがあったが、紛れもなく僕にとってはそれがその瞬間だった。あの時謝ったのは彼女だけで、たぶん僕は彼女にすみませんと謝ることができていなかったと思う。長すぎる一瞬の沈黙の後、僕は彼女の顔を見つめたまま犬の様にじっと次の注文が何なのかを待った。タッチパネルを見ていた為に分からなかったが彼女はカウンターに埋め込まれたショーケース内のドーナツやケーキを選んでいるようだった。さっき注文が途切れ途切れだったのもそのせいかと遅れて気付く。両手を体の前で交差させ、待ちの体勢をとったとき手のひらが汗ばんでいる事に気付いた。未だ前髪を片手で撫でながらしばらくケースを流し見ていた彼女は、待たせていた事を詫びる様に控えめな声で改めてコーヒーのみのオーダーを僕に告げた。先程の反動で慎重になるあまり金額を不自然にゆっくりと伝えてしまう。なんだか恥ずかしくなった僕は我慢できず少しだけ笑った。彼女もそれに応える様に笑ってくれた。遠慮がちに口元に手をあてて笑った顔が重なるように頭にひどく焼きついた。僕は彼女から差し出された丁度の代金をいただいてから奥の受け取り口の方向へ片手をあげて案内する。小さくも微笑ましいやりとりを終え僕の前を通り過ぎた彼女は受け取り口でムラセさんの淹れたコーヒーの乗ったトレーを受け取ると店の奥の方へ消えていった。一連の不慣れな挙動を後ろで観ていたのか彼女へコーヒーを渡し終えたムラセさんが僕と交代する旨の指示を優しく出した。さっきの笑顔が頭から消えず気の抜けていた僕はたぶん今までで一番だらしない返事を返してしまったと思う。不思議な顔をしているムラセさんと場所を替わった僕は、洗い場に溜まったコーヒーカップやケーキ皿を食洗機にかけた。雨の所為で飛び込みの客が増えたり長居したりする客が多かった為、それ以降夜の業務は堰を切った様に忙しかった。雨脚が弱まったのを見て店を最後に出た客を見送った僕は掃除用具箱に向かい床の掃除に取りかかった。時間はほとんど閉店間際だった。本来ならばカウンターには僕とムラセさんを含めたアルバイトが少なくても四名常駐しておりオーダーをとったり調理をしたりしながら回転する形で店内の掃除や各自の休憩などを回していた。しかしその日は台風の影響で公共交通機関に影響がでていた為、結局店に来れたのはムラセさんと僕と風雨から非難してきた休日中の店長の三名のみだった。実際には店長は事務室にこもりっきりだったので僕とムラセさんだけでお店を回すことになっていた。とてもじゃないが普段の半数でカウンター業務をしながら掃除など出来る余裕もなく、手付かずで乱れ放題だった店内を相当に遅れる形でメンテナンスをかける流れとなっていた。丸めて投げられた使い捨てストローの包装を集め、雨なのか飲み物をこぼしたのか判然としない液体をモップで拭いて回る。足元に花火の様に飛び散った水しぶきを見つめながら、僕は再び彼女のパッと弾けた笑顔を思い出す。モップをかける。思い出す。モップをかける。思い出す。思い出す。そんな事を数回繰り返しながら気付くと僕は水気のすっかり無くなった床を幾度もこすりつづけていた。使用済みのガムシロップの容器は喫煙者専用スペースの隅の席で、まるでオブジェの様に積み重なっていた。雨が止むのをまっていた客が時間つぶしの流れでやったのだろう。置き土産の様に綺麗に積み重ねられたそれを壊すと僕はテーブルに雑巾をかけた。人工の観葉植物が隣だっている最後のテーブルに雑巾をかけようと歩み寄ったとき、先程のものとは明らかに違う物が卓上に残されている事に気付く。黒縁の眼鏡だった。今考えれば他の可能性は幾らでもあったはずなのに、僕は反射的にこれは彼女の忘れ物だと確信した。なにかの拍子に雑然と置いたというよりはしっかりと意思をもってそこに置いたようにその眼鏡は綺麗に折りたたまれていた。昔からずっとそのテーブルにあったような、置物に似た安心感すら感じ得た程だ。
僕はその眼鏡を、彼女のものらしい眼鏡をゆっくりと手に取りエプロンのポケットに入れると掃除を切り上げて休憩室に戻った。その日から3ヶ月、白いトレーの中ですっかり貫禄をもってしまった眼鏡は持ち主に引き取られる事を今日まで待ち続けていた。しかしそれは同時に僕自身も同じことだった。僕は未だにあの眼鏡の女性が忘れられなかった。注文をとることで精一杯だったあの頃に比べたら今ではポイントカードやオススメのケーキなどを客に薦める事もできる。接客にかける時間は全員に平等でも今の僕なら努力次第で幾らでもカウンター越しに相手を知るきっかけをつかむことはできた。休憩時間、あの白いトレーに入ったままの眼鏡を見る度に僕は胸が苦しくなる。もしももう一度出逢えたなら、と、そんな事を密かに願うばかりだった。忘れ物とは置き忘れた人にしてみれば大抵は取り戻したいと思うものだ。これまでも幾度か忘れ物を捜して尋ねてくる人々の悲しげな顔を見てきたし、同時に目的の物を再び手にした時の喜びに満ちた表情も見てきた。この落し物を保管しているトレーの本来の目的は文字通りきっとそういった事なのだと思う。しかし、僕は日々この眼鏡がここに置いてある事に安心している。今日も彼女は取りにこなかったと落ち込む反面、この眼鏡がここから無くなってしまったら自分と彼女との関係や繋がりがスッパリ切れてしまう様な恐怖感があった。何処かの道で彼女とすれちがっても二度と気付けないような。そんな気さえした。出来ることならば僕が店に出勤している時、何かの偶然で彼女が再び店に現れたとき、その時に一番に、誰より早くこの眼鏡を届けたい。そして嬉しそうに喜ぶ彼女に、よかったですね。と気持ちに寄り添うような温かな言葉をかけたい。一度この感覚が芽生えてしまってからの僕は仕事中も魂を抜かれたように立ち尽くしてしまう事もあった。台風が近づいた雨の日、彼女の格好。こんな風に鮮明にあの日の事を思い出せるのは未だ彼女の笑顔が頭から消えないからだ。さして会話もしていない初対面の相手に対しこんな感情をもった自分を最初は可笑しくも思った。だがこの感情は果てしなく強固なもので、どうにも変えられないものだという事も同時に僕には分かっていた。彼女が僕に微笑んだあの瞬間からどうすることもできない程にもう手遅れだったのだ。始まりとか終わりとかそういう極端なものが成す術無く強引に僕の中にやってきた感覚だった。いずれにしても僕にとって彼女の姿を思い浮かべる事は、3ヶ月を経過した今でも心地良くもあり痛々しくもあった。他の学生アルバイターを先にあげ、遅れて今夜の営業を無事に終えた僕がムラセさんと共に休憩室に戻ると吹き抜けになっている奥の事務室から物音がした。気になった僕が事務室を覗くといつのまにか店にきていた店長が難しい顔をしながら翌々週のものらしいシフトをパソコンで作成していた。事務所の中央には休憩室と同じだが汚れが目立つテーブルが置かれており、店長の私物であろう分厚い漫画や週刊誌などの雑誌類が雑然と並べられていた。この店で働き始めた時、小奇麗に整えられたこのテーブルを挟んで店長と面接をした事を少し思い出す。休憩室とは隣り合わせだが、あの日以来この事務所には入ることは殆ど無かった。煙草でも吸っていたのだろうか。燻した様な香りが鼻をついた。僕の後から事務所に入ってきたムラセさんが店長の存在に気付き、おつかれさまでしたー。と挨拶をして去っていく。店長は顔をパソコンの画面に向けたまま労いの言葉を投げた。ムラセさんが帰っても事務室に残った消えない気配に気付いた店長が黒いデスクチェアを回してこちらに振り返った。
「おぅ、居たのか。おつかれさん。忘れ物ボックスはみたか。」
「あ、はい、おつかれさまです。確認しました。なんか小さな指輪が入ってましたね。」
僕は数時間前に手にした玩具の指輪を思い浮かべた。
「指輪かぁ。週末は親子連れ多いからなあ。子供がはしゃいで落としたんだろうな。いやあ、うちの娘も今元気で大変だもん。注意しても聞かないし。」
店長はそういいながらデスクに置かれていた煙草を手に取ると火をつけた。
「店長のお子さんて今おいくつでしたっけ」
「今4歳。もう毎日大変、大変。なんだか自我っつーのかな。色々なものも芽生えちゃってさ。こっちがだめだよーって怒ったりしても屁理屈こねたりするんだよな。この前なんて煙草やめなさいって言われたんだぜ。その忘れ物をした子もきっと同じくらいの年な気がするよ。」
苦笑して自分の子供の話をしながら、店長は一度つけた煙草を思い出したように灰皿に押し付けて揉み消した。
「あぁそうだ、その指輪ってのどれ。たぶんもう取りに来ないんじゃないかなあ。うちの子なんかもしょっちゅうそういうの何処かに忘れるけどさ、もう一日とか二日でケロっと忘れちゃうんだ。最初はあんなに大泣きしてたのに何事もなかったように新しい玩具で遊んでるし。問題なさそうだったら俺持って帰っちゃうよ。」
軽い欠伸をしてデスクの椅子から立ち上がると店長は休憩室の方へ向かっていった。
「あぁそうそう、翌々週のシフトとりあえず打ち込んだからトイレから戻るまでに軽く見といて。来週は学生バイトが皆休日申請しちゃってヒーヒーだよ。」
店長のその言葉を納めるように休憩室のドアがガチャリと閉まる音が聴こえた。来週はきっと過酷なシフトになるのだろう。働く事ばかりで大学のレポートや出席率が落ちる事はよくないが店長の子供の話を聴いたばかりの僕は少しの間頑張るしかないかと自分に言い聞かせた。デスクで煌々と光り続けているパソコンのモニターに近づくとデスクの上はひどく散らかっていた。よく分からない数字が細々と並べられた店の経営に関する書類や、電気かガスの督促の手紙らしい物が薄く積み重なっていた。デスクをまじまじと見ていた僕は半分だけ中途半端に開いた左側の引き出しが目に止まる。流れで引き出しに手をかけて閉めようと試みたが、なにかが中で引っ掛かっていたのか上手く閉まらず一度開けてみることにした。そこに入っていたのは古びた携帯電話や外装にひびが入った自動車の鍵、タイヤ痕のついた財布や折れ曲がったICカードの塊だった。これは、、と僕は考える。多分、店長は公にしていないだけで自分自身も店に残された忘れ物の管理をしていたのだろう。全従業員が手に触れたり確認できるような忘れ物はああして休憩室に置いてはいるが、個人情報など機密事項がありそうなものはこのように別にしてしまっていたのかもしれない。変わり果てた姿の忘れ物たちは押し込められた空間の中で暗く静かに息をしているようだった。なんとなく目の前のカーキ色のパスケースを手に取った僕は裏返してみて驚いた。そこに居たのは、彼女だった。ケースの裏側は透明なビニールで覆われておりそのビニールの向こう、曇った学生証の顔写真の欄に印刷されているのは、それは紛れも無く彼女の顔だった。自分の心臓が急に早くなるのを僕は感じていた。これは、一体なんで。よく見るとパスケースの下の方にシワだらけになった黄色い付箋が最後の力を振り絞るように頼りなげに貼られてある事に僕は気付く。僕はその小さな付箋に殆ど殴り書きに近い形で綴られた乱れた文字をゆっくりと読み上げた。


「9月22日。連絡済。2日後駅西口。」

日付を見た僕は愕然とした。9月22日。それは僕と彼女が出逢った台風の夜のきっかり2日前の日付だった。その2日後に駅の西口。。脳裏に焼き付いて忘れようにも忘れることの出来ない彼女と出逢った日。9月24日。それはつまり、彼女はあの台風の夜、店長と駅の西口で、待ち合わせていたということなのだろうか。。わからない。なにがなんだかさっぱりだった。突然体にのし掛かってきた黒い重力に僕の心臓はまた少し早くなっていた。浅い呼吸を繰り返していた僕は、そのままいつの間にか息をすることも忘れてしまいそうだった。確かにあの日はタイミングこそ違うものの店長も彼女も雨から逃げる形で店にやってきた。つまりは、彼らは直前まで何処か僕の計り知れない場所で時間を共有していたという事なのか。一体なぜ。このわすれものを返すことが理由ならば、、それがそうなら僕が今その忘れ物を手にしているのはとても妙なことではないだろうか。汚れが目立つパスケースに納められた眼鏡をかけた真面目な面持ちの彼女の顔を、僕は文字通りすがるように弱々しく見つめ直した。暗礁に乗り上げた船のように僕の中で込み上げた感情は行き場を失くし、体の中で激しく蠢いていた。彼女は、、店長と、、



「なあ、そういえばさあ、この黒縁の眼鏡。しばらく置いてあるよな。持ち主、取りに来ないのかな。」

僕の後ろで店長の低い声が響いた。


自費出版の経費などを考えています。