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7月。霧の様な雨がコンクリートを湿らせた市内は、例年より遅い入梅を迎えていた。
喫茶コラフの店内は普段通りの落着いた空気を、窓の外の薄曇った天候が後押しする様にしんとしていた。
駅から近い店舗とはいえ、少しだけ外れた場所に佇むコラフは実際には容易に天候の影響を受けてしまうのだった。
厨房に立つ陽菜はホールの奥に位置するはめ殺しの丸窓を見つめながらサラダに使う新鮮なレタスを千切っていた。
クボは早々に来訪の見切りをつけ休憩スペースに引っ込んでいた。大方うまい棒でも食べているのだろう。陽菜の横にはクボの仕事が順番待ちをしている事は言うまでも無い。
本来自分達を処理するべきのクボが居なくなり、銀色のボールに盛られた野菜達は診察結果を待つ不安げな患者の様にしゅんとしていた。
二ヶ月前にまゆ達と青葉祭りを共に楽しんだ陽菜は、自分自身でも不思議なくらい短期間で移ろい行く内面の変化に気付いていた。
あの日、宛名を間違えた異国からの郵便物を隣人へ届けなければ、今の自分には出逢えなかっただろうと想うと全ての偶然が陽菜にとっては特別に思えていた。
元を辿れば、現今わたしに仕事を押し付けているクボさんだって大切なキッカケをくれた。ルーツを求めて彷徨ったアーケードでの丸メガネのミュージシャンとの遭遇だ。
あの音楽を聴くことが無ければ。。今日も休憩中に綴る為に部屋から持ってきていたノートを思い浮かべ、陽菜は子を思う親の様な表情をした。
ここ数ヶ月の出来事を瞬間的に思い返しながら手元を見ると、新鮮なレタスを必要以上に千切りすぎていた事に気付く。やってしまった。。
気を取り直しプチトマトの蔕を取ろうとボウルに手を伸ばした陽菜に、橘君が苦笑しながら近づいてきた。金色の髪の毛はこの時期でもヤマアラシの背中の様にピンとしている。
陽菜は作業中に橘君の話を聴くのが苦手だ。滔々と話す内容は十中八九誰に話しても同じ返事が来る様な不毛な内容ばかりだからだ。
一度検証がてら返事をへぇとかふぅんとか浮ついた言葉だけで返してみた事があったが、彼は一通り話した後、不思議と満足げな顔をして去って行くのだった。
目の前のプチトマトに意識を集中させながら、陽菜は陶酔した旋律を奏でる橘君の演奏を左耳から反対側へ流す作業をこなす。我ながらアッパレだ。
改めて店内を陽菜は見渡す。傍らの橘君を除き静寂に包まれている店内は時間という絶対的な概念から切り離されている様にも感じられた。時の無い世界。
先の来客の見込みを憂い、営業を終えようと入り口のプレートを返しに厨房を出た店長が途中で歩みを止めた。と、同時にドアベルが高い場所で凛と響く。
小さな体に亜麻色のギターケースを抱え現れた彼女は、持っていたビニール傘の甲斐も虚しく濡れた体で入り口に静かに佇んだ。りさだった。
いらしゃいませと声を出そうと入り口に視線を向けた陽菜は、アーケードぶりの彼女との意外な再会に若干の胸の高鳴りを感じていた。一息の後に客人へ歓迎の声を向ける。
来客に気付いた橘君は、お喋りを止め本来の仕事へいそいそと戻って行った。図らずも強引な演奏会の中止を手引きしたりさに陽菜は重ねて感謝の目を向けた。
垂れ柳の様に伸びたりさの茶色い髪は湿っていて首元が大きく開いた白いシャツに張り付いており、砂金の様に小さな首飾りが青白い店内で煌いていた。
まだ、大丈夫ですか。と彼女が微風の様な声で言うと、店長は濡れた体を心配そうに見つつも、どうぞ、と彼女をコラフの席へ通した。
肩にかけたギターケースを重そうに持ち直し、どうも。と小さく呟いたりさは店舗の奥、陽菜がいつも物書きをする席へと着席した。ドクターマーチンの重厚な足音が店内で際立つ。
普段であれば客に声をかければ厨房へ戻る店長も、雨に濡れた彼女の後姿から目を離せないでいた。控えめに言ってもりさは魅力的で、引き付けられているのは陽菜も同じだった。
着席したりさは胸元まで伸びた長い髪を鬱陶しそうに両手で持ち上げると、慣れた手付きで頭の上に纏め上げた。席についた時に外した丸メガネを再びかけ直す。
あの日、アーケードで彼女を見た日。ずっと心の奥底に在ったけど気付けなかった何かに気付けた日。春の息吹を感じる小気味良い鈴の様なりさの歌声。
深紅の色を指先に落としたりさは人形の様に白い手でコラフのメニューブックをパラパラと捲る。ほとんど見ていないに等しい程のスピードだ。
レンガ色の座椅子の横に立てかけられたギターケースからは中に収納されたギターが心配になるくらいの水滴が絶えず床へ滴っていた。
りさはいつの間にか取り出していたタバコに火をつけていた。低い音を立てて机上に置かれたオイルライターは何処かで見たような歪んだデザインのものだった。
メニューを流し見たりさが片手を低く上げて陽菜へ視線を向けている。しまった、見惚れていた。すみませんと呼ばれている事に気付くのには数秒の間があった。実際はもっとかかったのかもしれない。
やってしまった、と若干の気恥ずかしさを顔に残しながら陽菜は手元のプチトマトを軽薄に放ると、伝票を握り、りさの元へと厨房を抜けて向かった。
「お待たせしました。。ご注文、お伺いします。」
陽菜は湿気ですっかり駄目になってしまった散漫な前髪を少し気にしながら言った。
「コーヒー。ホットで。一番大きなサイズがいいな。」
メニューに綴られた文字を細い指でなぞりながら、しかしその文字を自分の言葉で言い換えてりさは応える。
「かしこまりました。。あっ、あの・・」
「うん?」
水滴を乗せた丸メガネの向こう、りさの真っ直ぐな視線が陽菜へ向けられる。
「あ、、ミルクと、砂糖はお付け、あっ、如何なさいますか?」
「あぁ、、お砂糖ください。ミルクは結構です。」
りさは陽菜の妙な挙動不審振りを優しくも訝しげな目をしてからゆっくりと返答した。
「かしこまりました」
自分でも可笑しいと思った。なんでこんなにも緊張してしまっているのか分からなかった。
目の前に居るのは異性でも憧れの作家でもない。只、今まで遠くに在った物が突然目の前に迫る事に、陽菜は何処か息苦しさに似たものを感じていた。
厨房に戻り、白紙の伝票を見つめながら陽菜は注文を復唱しつつコーヒーを淹れる準備を整えた。再び席に目をやるとりさは手帳の様な物を取り出していた。
休憩室から橘君とクボが連れ立って出てきた。橘君はなんだか嬉しそうに顔を綻ばせ、対してクボは煙たげに細い目を一層細くさせていた。
「クボさん、ほら、あの子っすよ。あの綺麗な子!いやーこういう偶然ってあるんすね。運命ってあるんすね。やっべぇなあ。」
橘君は有名人を見る様な恍惚の表情で座席に腰掛けているりさを指差しながら、クボへささやいた。感情の抑えが利かないのか語尾が強く高ぶっている。
クボは玩具売り場で駄々をこねる子供を見るような目で橘君を一瞥してから視線を指差された方へ向け、おぉ。と唸る様な声を低く洩らした。
「あの女性とは、、りさだったかな。よく会うな。もうこれで三度目だぞ。新人、君にとっても久々なんじゃないか?」
クボは豆挽きに集中する陽菜へ呼びかけた。橘君は聴き慣れない単語を理解できずに目を白黒させながらクボと陽菜を交互に見ている。
「え、クボさんもう三回も会ってるんすか?この前と合わせて二回目じゃないんすか?露木さんも、、もしかして知り合いすか?」
脳みそと口元が直結しているような言葉を橘君はマシンガンの様に打ちつけた。カウンターから漏れてしまいそうな声量が耳障りで陽菜は少し鬱陶しく感じた。
豆を挽く手を一度止めて後ろのりさを確認する。どうやらイヤホンで何かを聴いている様でこちらの喧騒は届いてない。陽菜は安堵し再び手元を動かす。
「数ヶ月前にアーケードで演奏してるの見たんです。クボさんと。」
陽菜は物憂げに答えを待ち望んでいる橘君へ応えた。この人は些細な事にも過剰に大きな反応をするんだよな。答えてから陽菜は思う。
「えぇぇ、演奏って、じゃあやっぱり彼女はミュージシャン!かっけぇえ。。サインとかもらっちゃおうかな。つーか今日シフト入っててよかったっす。ほんと。」
遠慮という感情が欠落した節操の無い語気に陽菜は、仕事中ですよ。と同じく強い口調で声をあげたかったが、りさのコーヒーに雑味が混じるような気がして止める事にした。
「おい若造。わしは以前会ったときに音楽家だとそう説明したろ。人の話をちゃんと聴きたまえ。」
クボは金色の髪を靡かせてはしゃぐ橘君を横から小突いた。イテッと声をあげて橘君は口を尖らせながらクボを怪訝な目で見つめる。
陽菜は溜息を漏らすと二人の漫談の隙に作り上げた大きなサイズのコーヒーと砂糖の小瓶を、ステンレスのトレーに乗せりさの座る席へと運んでいった。
近づく人の気配に気付いたりさはおもむろに顔を上げると片方のイヤホンを外した。
「おまたせしました。前、失礼します。」
卓上に開かれた手帳には糸くずの様な文字がまるで迷路の様に隙間無くビッシリと綴られていた。
消しゴムを使用したのだろう無数の消しカスも相まって、もはや黒一色と言っても過言ではない奇怪な様子だった。
液晶の割れたポータブルプレイヤーはもう何年も前に販売が終了した旧式のモデルで、陽菜も昔使っていたものだった。
あれこれ気になる物を瞬間的に目にしながらりさの前にコーヒーを置くと、陽菜は軽く会釈をする。
ありがとう。とりさは湯気の立つマグを両手で包み込みながら陽菜へ感謝を伝えた。
「あの、、」
陽菜は一度立ち去ろうと踵を返した体を素早く元に戻すと、りさを見つめた。
「うん?」
りさと陽菜の間に数秒の沈黙が流れる。公私混同とはこの事か。わたしも橘君と同じじゃん。少し自分を責めてから陽菜は口を開く。
「あの、わたし、以前アーケードで演奏聴きました。なんか、故郷の歌、歌われてましたよね。。あの歌、よかったです。」
言ってしまった。自制が利かなかった自分が恥ずかしかったが、りさに対して深い感謝を伝えたかった気持ちには紛れも無く後悔も無かった。
「あぁ、、わたしの演奏聴いてくれた人なんだね、それは、どうもありがとう。」
りさは片耳に差されたイヤホンを外し言葉を選ぶ様な口ぶりで陽菜へ言葉を返すと、席を立つまではなくとも座りながら深い礼をした。
「あぁ、でもわたし色々なやつを歌ってるから。。故郷の歌、、なんだろう。。たぶん自作のものじゃないとは思うけど。。」
そう言って真っ黒に塗りつぶされた手帳を手を取るとパラパラとめくり、末尾のページに乗った欄をりさは熟読するように見つめた。
「あぁこれかな、ジョンデンバーのカントリーロード。普段あまりカバーでは歌わない曲だから聴けたのはレアだったね。」
りさはアラビア文字のように筆記体で綴られた手帳の一文を指差して言うと、陽菜へ向けてニッコリと微笑んだ。
「あっ、そうなんですね。嬉しい。。これってもしかして詞とか書いてるノートですか?」
陽菜はもう半分プチトマトの蔕取りの事など忘れて、目の前の不思議な手帳が気になって仕方なかった。
背後からクボと橘君の視線がまるでレーザービームの様に背中を焼いている気配は感じていたが普段滅多にしないことだ。もう少しだけ、と鋼鉄のシールドを背中に出現させた。
「あぁこれはね。そうそう。でも、詞だけじゃなくて、生きていて出会った気になる言葉とかコトワザとかなんでも書いてるんだ。この手帳は東京からこっちに来た日に買ったんだよ。」
りさは初対面の陽菜に対してまるで旧友に話すような軽い口調で話した。そのまま手にしていた手帳を遡る様に捲りながらりさは途中のページですっと手を止める。
「例えばこれなんかは今書いてるやつ。ちょっと手助けしてもらってるけどね。一応オリジナル、かな。」
一つだけ筆圧と書体が異なる文がそこには綴られている。手助けとはなんのことだろう。りさの人脈を陽菜は仔細に思い描く。
「ちょっと読んでみてもいいですか。」
陽菜は手帳に綴られた一文に目を落とした。りさの手元のコーヒーの香りが二人の空間を包み込んでいるようだった。

タンブルウィード(仮)
 

ずっと見えなかった 見ようとしなかった
色の無い景色が 僕の目の前に果てし無く在った
ずっと分からなかった 分かろうとしなかった
正しさや間違いの押し付けが 白い肌を焼いた
騒がしい闇の中 あの日光を見たんだ
うずくまっていた心が 腰を上げ歩き出した
理屈じゃない感情 僕を突き動かした 今

臆病なあいつが また顔を出してくる
やめとけって お前はここにいればいいんだって
信じられるものなんて何も無い未来で
だけど僕は今の自分を信じてみたくて

ナポリタン みたいな夕焼け
人が出逢い離れ行く交差点
君はいつかこう言ったっけ
すべてモノゴトは単純だって
当て所無く歩む日々の向こう
自分の在るべき場所 探し行こう 



視線をりさに戻して陽菜は言葉を選んだ。
「タンブルウィードって。。あの映画とかでよく見る荒野に転がる丸まった草?ですよね。」
「そうそう。だけどあんな綺麗に丸いのなんて本当は少なくて、みんなどれも歪な形してるんだよ。自然の産物だからそれは当たり前なんだけどさ。」
りさはそう言ってから陽菜の淹れたコーヒーに口を付ける。一口飲んでからおや。という顔をして砂糖を入れ忘れた事に気付いたりさはゆっくりと小瓶に手をかけた。
陽菜は抜け目の無さそうなりさのギャップに微笑む。ティースプーン山盛りの砂糖を幾度も漆黒の海へ放る姿も重ねて予想外で可笑しかった。
「この歌はいつごろできそうなんですか?」
「今はまだ詞も途中だし曲も全然できてないんだ。この歌はわたしにとっても始めての試みだから、時間はかかると思う。」
両手でマグを包み込みながらりさは陽菜へ話した。コーヒーの湯気で丸メガネが少し曇っては戻るを繰り返している。
「そうですか。でも、いつか出来上がったら、その時はライブ、見に行きたいです。また。」
陽菜はまだ見ぬ遠い未来のライブ風景を思い描くように遠くを見つめる顔をしてからりさへ話した。
「そうだね。うん、時期は約束できないけど頑張ります。ここにも、時々寄るね。どうもありがとう。」
りさは陽菜へ感謝を伝え、また軽く頭を下げると外していたイヤホンを耳に戻そうと手を伸ばした。そこで陽菜は押し込める様に言葉を吐いた。
「あ、ありがとうございます。わたし、りささんの歌のおかげで今があるんです。あ、ちょっとよく分からないかもしれないけど、感謝してるんです。」
耳に戻しかけた手を止め、りさはくすっと笑うとオッケー。ありがと。と小さく呟いて再び自分の時間へと戻っていった。
陽菜は自分の都合に付き合わせてしまい申し訳ない気持ちと感謝の気持ちを合わせて大きくお辞儀をすると真っ直ぐ厨房へ戻って行った。
りさの聴こえない外の世界で二人の男女に叱責される陽菜が居たことは言うまでも無い。プチトマトだって少しは怒っていたかもしれない。
偶然にもりさと再会し、感謝を伝えられたこと、そしてりさ自身もまた自分の新しい目標に向かって挑戦している事を知れた事に陽菜は刺激を受けていた。
クボと橘君の叱責を紳士に耳にし受け止めながらも、陽菜は休憩時間に綴るべく小説の内容をじっくり思案していた。我ながらアッパレだ。



自費出版の経費などを考えています。