年期の入った鉄製の天ぷら鍋と鏡面ステンレス
目指せスーパースター。蕎麦宗です。
ここ最近蕎麦宗noteブログのファンになったという読者の方が、メッセージを下さった。有料記事購入やサポートをしてくれた上に「どれもハズレなく素敵で楽しめた」と書いてあり、本心でこの上なく嬉しい。なかなかどうして、こうだから書き続けてゆけるものである。
で、それに加えて「仕事道具の手入れについてのエピソードってありますか?」とのリクエストもあった。手打ち蕎麦屋を初めて19年目(2023年現在)となるので、確かに色々とあるなぁと思い巡らせて、とりあえず一つ書いてみよう!と思った。なので、今日の記事は、お礼がてらにその方のために書きます…さてと。
僕が修行した「懐石・八千代」の親方は厨房の清掃や美観に関してとても厳しい方だった。京都妙心寺の僧坊での精進料理からスタートした方だからという理由もあるけれど、どの一流の料理屋も厨房や道具の清掃は常にゆき届き、名店であればあるほどに光り輝いているのは疑いようもない。そうあらんとした親方にとっては当然の事だったと思う。
それは、蕎麦宗のように*サラシでなくとも、チリや一点の曇りなく磨き上げられているものだ。調理をするにあたっての衛星的な観点からも当然ではある。
しかし、まるで戦争のように取っ散らかる料理屋の厨房内をピカピカに磨き上げる労力は尋常でなく、僕も修行時代に日をまたいでやったことは日常だった。今となっては自分の店なので、正直言ってだいぶサボっている。親方に見られたら怒られそうでヒヤヒヤするくらい。でも、その親方も42歳の若さで亡くなってから17回忌を迎える。料理の師である親方に関しては【僕の蕎麦屋ができるまで】に書いているので、そちらをご覧いただくとして、そんな理由もあって、厨房のステンレスだけは未だに映り込む状態をキープ出来ている。
余談だが、鏡面にする理由はもう一つある。それは一人で営業していたり、お客さんに背を向けることも多い調理仕事の中で気配りするためには、お客さんの動きを把握するのにそこに映り込んだ様子が大切となるからだ。そのために自身でデザイン・設計する上で、こだわり抜いた厚みのステンレス一枚板を使ったので、建築に詳しい方ならば如何にそれが特殊かつ良い意味で一般的ではない事と、わかってもらえるかと思う。
さて、そんな風にキレイにされた中で一つだけ異質なモノがある。表題写真の天ぷら鍋だ。正直言って実に汚い(汗)、いや、キレイでない。実はこれには少々昔日からの想いがあってこうなっているのだが…。でも、長くなったので一休み。
ガス台周りに張り巡らされたステンレス壁が、何故に鏡面仕上げにされているのか?という話が前半で、そこに乗る天ぷら用鉄鍋が不釣り合いに汚いワケを話すのがこの後半。
時代は遡って1992年の春。横浜国立大に入学した僕は住まい探しに奔走していた。シーズン真っ只中なので物件が空いてない上に、残っているのはバブル期の事情も相まって非常に高額な家賃のところばかり。僕が浪人したせいで、弟と同時期に四年間を過ごさねばならないので、親も大変。
暫くは片道2時間の新幹線通学で乗り切って、ある程度生活スタイルが落ち着いた時に、貧乏学生に相応しい東屋を【リッチーP-23】に乗って自分で探すことにした。
ほとんどの*国大生は*相鉄線沿線の和田町駅近辺に住んでいた。が、市営地下鉄沿線の方が通学で慣れており、またバイト先が新横浜プリンスホテルだったなどから、そちらを廻った。そうして決めたのが神大寺にあるアパートで、そこに2年住んだのち片倉町の『あさひ荘』に引っ越した。名からしていかにも昭和な木賃アパートだった。
どちらも神奈川大生が多く住むエリアで、国大生はほとんどいなかった。出掛ける道すがらにランニングする*神大野球部の中に高校の同級生を見つけた時はとっても感動(佐野哲ちゃんといって、三島一の花屋『清花園』の現社長です)。
横浜にしてまだ畑の残る曲がりくねった細道を抜けると東急東横線の白楽駅で、田舎者の僕には不釣り合いな自由が丘や渋谷、新宿に出向く時にとても便利だった。その界隈は駅前商店街になっており、神大の学生のみならず多くの住民でいつも人だかりになって路地は埋め尽くされていた。
その白楽駅周辺は六角橋商店街といって、横浜駅から新横浜駅をつなぐ主要な道路沿いでもあったので様々な店があった。たまの外食でもよく出向いた。学生向けの激安食堂がたくさんあり【ハマのカローラFX】の村瀬さんと一緒に行った味噌ラーメンの屋台もそこにあった。あれは絶品だったなぁ。奮発して時折行った高級味噌カツの店も旨かったし、でも僕が一番脚繁く通ったのが老舗の天丼専門店だった。
その店、一番たくさん行ったはずなのに何故だか店名が思い出せない。天ぷら屋ではなく、あくまで天丼がメインでいつも混んでいた。それもそのはず『オススメの今日の天丼』は一杯500円でお釣りがくる。ナスやシシトウといった野菜に海苔、それにイカが乗ったりしていた。アップチャージで海老もあったが貧乏学生には一匹追加が精一杯。あの当時、海老天で埋め尽くされた丼に喰らい付くのは夢だった。
通りに面した窓の前で、白髪頭のオヤジさんが黙々と天ぷらを揚げる。お惣菜として天ぷらだけを持ち帰る近所の主婦も列をなしているから、きっとその分も揚げているのだろう。
僕はいつもその揚げている様子が見える位置の席が空くのを待って陣取った。湯気の代わりに油が霧立つように見え、換気扇にこびり付いている。それでも胡麻油の匂いも花の香を忘るるように居残れた。天衣を纏い、ボウルからとめどなく落とされる天だね。掬い取られる天かす。足される油。滴る汗を拭う間も無く、まるで天ぷら製造マシーンになりきる職人。
その中で一番目についたのが鉄鍋の外側の焦げ汚れで、それはまるで格闘家の二の腕のように盛り上がっていた。
伺ったわけではないが、その店は30年ほどは経つ老舗の庶民のための天丼屋。きっとそうやって天ぷらを揚げ続けて続けているうちに、刮(こそ)げることも洗う間も無く、*ガントリークレーンから*テンダーに落とされる石炭のように、もりもりと盛り上がり山積みされていったのだろう。
僕は行くたびに、その石炭のような焦げ汚れのついた鉄鍋に、その店の年季を感じ入っていた。僕が通った4年間ではそこまでの変化は感じ取れなかったけれど、確かに年輪のように刻まれ積まれて行くその歴史を想っていた。
2005年。蕎麦宗がオープンした。修行していた京懐石《八千代》でも散々やっていたので、メニューにも当然天ぷらと書いた。専門店としての天ぷらを提供するのであれば、銅鍋が一番なのは分かっている。それを鏡面に磨き上げて使うのが一流だ。でも、僕は鉄鍋を選んだ。そしてあの石炭みたいな焦げ汚れを育てようと思った。あとで調べると、あれがあってもなくても天ぷらの揚げ具合や味に変わりはないらしい。炭と同様の遠赤外線効果を謳う人もいるけれど、定かではない。もちろん、天ぷらのクオリティ維持のために、油こそ頻繁に交換しているのは勿論だし、その度に鍋も洗っている。でも、外側は刮げない。それを約束にして日々この鉄鍋と向き合って天ぷらを揚げてきた。
2023年。19年目を迎えた。蕎麦宗の天ぷら鉄鍋は、残念ながら六角橋の天丼屋のそれには遠く及ばない。格闘家どころか、まだまだ細女の二の腕。あと何年したらああなるのだろう。もっともウチは手打ち蕎麦屋だが…。
ステンレスの厨房壁を鏡面に磨き上げるように、キチンと道具を手入れをすることは大切だ。一方で、あえてそれをせずに愛情だけ注ぐのがこの鉄鍋のへの向き合い方としている。この石炭にような焦げ汚れを残し育てるために。それは自身の若かりし日々の思い出を包み込んで、また蕎麦宗のお客さんと共に積み重ねた時間を閉じ込めたものだから。
磨いて光るステンレスに不釣り合いな、石炭色の汚いこの鉄の天ぷら鍋は、一日と一年とその繰り返しの年季から作られる、この店の歴史である。終
*サラシ…カウンタースタイルの店のこと。お客さんから見て調理人の一挙手一投足が見られるので娯楽ともなる一方で、見られているというプレッシャーを常に受け続けねばならない過酷な営業形態でもある、と言っておこう。
*国大…国立の横浜国立大学を地元横浜の人はこう呼ぶ。市大は横浜市立大学。
*神大…私立神奈川大学。箱根駅伝の常連校として有名。
*相鉄…私営相模鉄道。横浜市民の脚
*ガントリークレーン…下記写真↓
*テンダー…蒸気機関車が真後ろに引いている、石炭積み込み用の貨車部分。
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