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観光地は「地域」、ホストはそれ以前に「住民」である。たとえ猫でも。

「GO TO ナントカ」あるいは将来に向かう話として。

とても簡単な事例から入りたい。以下はとある観光地の商店内おけるゲストとホストの会話。

ゲスト「ここはいいところですね」
ホスト「・・・そうですかねー?どのへんがですか?」

決まりきった問答ならばここでホストは「ありがとうございます」「そーでしょー!!」と答えるのかもしれない。しかし、これはリップサービスに過ぎない可能性もある。筆者の場合、都市の一角であれ地方の観光地であれ、他所に行って軽率に総体的な意味で「よいところですね」とホストに面と向かって口にしないようにしている。

その理由は、筆者自身がその地域を訪れた理由が観光であれビジネスであれ、いわゆる“一見さん”(イチゲンサン)とも呼べる、自分自身が地域をつまみ食う消費者の域を脱し切れないことを自覚しているからだ。

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冒頭の会話は、後の続かない儚いものであるが(笑)、そこには字数とは文脈が異なる言外の意とも呼べる、メディア・情報と地域に関わるひとつの要素が詰まっている。

つまり、一般的にゲストは目的地に到着すると、視聴覚的な情報を通じて、地域内の訪れるべき場所に足を運ぶ。仮に旅の前段階として何らかの情報を検索、受信、内在化していれば、それらを土台として、情報と現実の多少のズレを埋め合わせようと試みる。目的地に到着した瞬間に巨大な鳥の糞がメガネを直撃したり、スリや強盗等に遭ったりでもしない限り、従順な信教者のように、情報に従ってわざわざやって来た場所は、実際には心身を刺激するものがなくとも「いいところ」として神棚的に据え置かれる傾向があるだろう。旅とは実に骨の折れる行為だ。(だから身近な赤提灯のほうがよほど良いという意見も首肯できる)。

それを踏まえて冒頭の会話に戻ってみる。

問題は、ゲストである彼が言う「いいところ」があくまで表面的・断片的な情報に基づくものでしかないという事実である。つまり、ゲストが美しくまとめあげる「いいところ」という台詞は、対話者であるホストを含んだうえでの褒め言葉だが、その内容には一見的なゲストが入手できないホストだけが知っている日常的な政治的・経済的・社会的諸課題が完全に欠落している訳である。その意味では、ゲストの言葉には、聞き手にとっては “知ろうとも試みられない” “知りたくもないんだろう”という 無関心性だけが際立つ。それはホストにとっては情報が定型化した末の抑圧性、暴力性、階層性が内在化している状態とも言い換えられる。ホストによる、ホスト/ゲスト間のコミュニケーションを遮断させる一言は、外部他者からの「押しつけ」に対して繊細に反応した結果、その場所に深く関係する者としての抵抗の実践とも言い換えられる。

「美しすぎる言葉」。

愛の歌は何だかうまくなじめない 
口笛でなら少しは上手に吹ける 
なにもかも許して欲しくはない 
美しすぎる言葉で全てを飾りたくない 

『SPIRIT』/スガシカオ

人類学者の青木保は、情報化社会における問題のひとつとして、情報発信自体は従来に比べて速度・量共に向上したものの質に着目すれば、まず表面的な内容だけが発信され世界中を駆け巡りお茶の間に届き、多くの人々がその情報を受信し鵜呑みにする。そして、その表面的な情報を正確に読み解くために必要な、専門家による背景説明を含めた補足的・後続的情報が手元に届くまでには相当の時間が掛かるという情報化社会の弊害について「早い情報」と「遅い情報」という概念を用いて指摘している。

青木がここで言う情報とは主に世界各地における事件や出来事に関わる報道を中心としたものだが、彼の指摘は情報全般に対して意味を持つ。
上記事例に当てはめて考えると、「早い情報」と「遅い情報」は、「可視化情報」と「不可視化情報」とも換言可能である。

前者の情報は、とりわけ観光や移住促進における地域間競合という側面を踏まえれば、基本的には当たり障りのない(時に付加価値的に煌びやかに装飾された)“見える化”された情報であり、後者は当該地域に存在する諸問題・諸課題等が“見えない化”した情報である。双方ともに恣意性が共通項として挙げられるため、特に「可視化情報」は、情報のなかでも広告・宣伝的性質を備えたものとして分類できる。

事例におけるゲストの発言は「可視化情報」に基づいたものであり、それだけでは採取(受信)できない「不可視化情報」を得ているホストにとっては、両情報の狭間に存在する生々しい出来事を含んだ政治的・経済的・社会的・文化的(宗教的)背景との摩擦と違和感を正直に取捨できないまま、正直に些かの日常的な抵抗を実践しているとも言える。

このように考えてくると、事例における両者の対話は、ある地域における「可視化情報」だけが前景化される、

「生産者」-「消費者」という情報のパッケージ化

とそれら情報の相互作用によって構築され変容し続ける世界の不安定さを浮き彫りにしているとさえ言える。

情報化社会が叫ばれて長い年月が経過した今日では、情報化などという用語は何ら特別な意味合いを備えたものではなくなり、もはや用語自体が死語になりつつある感じさえ受ける。それはもちろん、情報化というグローバルな現象が社会から脱域化していくわけではない。そうではなく、情報化社会は今やわざわざ口にするまでもないまでに人々の日常生活にとって当たり前の存在として浸透しているという意味である。

情報の質(quality)はさて置き、溢れ出るような大量の情報(quantity)は、紙媒体に加えてデジタル化という電子の波に乗って、人間と時間の関係性、自然の規則性、太陽の動きとは無関係に時空間を行き交い、世界中の多くの人々に日々、何らかの影響を与え続けている。その結果、今日の我々が手にする情報については、正誤、根拠、総体性と断片性に対して、発信者というよりもむしろ受信者による積極的選択と判断こそが必要という“見極めらるべきもの”という性質が強くなっている。

あとはあれですね、報道に対して否定的・辟易しててもしょうがないので、専門家はTVに対するネガ発言だけでなく、「遅い情報」を積極的に発信して欲しい。仮に議論になってもいい。専門家ゆえに、番組に流されることなく意見を言って欲しいなと思うときがある。結果的に「面倒な人」となって、呼ばれることが減るかもしれないけど(笑)。

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