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令和の「あはれ」

三度の飯より平安文学が大好きだ。

中でも『枕草子』が一番好きなのだが、これは「をかし」の文学と一般的には言われている。
対比されるのは『源氏物語』だ。こちらは、「あはれ」の文学とされている。

昔から平安期の古文は語感でなんとなく意味がわかり、なんとなく訳すことができた。私の数少ない特技の一つである。

そんな私が、高校時代に古文を読むたびに引っ掛かっていたことがある。
「をかし」と「あはれなり」の現代語訳は、ともに「趣深い」とすれば丸がもらえたことだ。

高校生の私は、直感的に「おかしい」と思っていた。
この二つ、全然違うのになぜ同じ現代語に直さないといけないの……!!!

「をかし」と「あはれ」

「をかし」は、からっとした褒め言葉だ。

素敵やん
イケてんなあ
ええ感じやなあ
おもろいなあ

といった感じで、一語で言えば、

ええやん!

といった感じだ。

しかし、「あはれ」と近い現代語は私の中ではなかなか見つからなかった。

しみじみする
感慨深く思う
どうしようもなく悲しい

など色々訳し方はあるが、なんというか、こう、じーんとして、心が動くもっとズバッとその語そのものが当てはまるような語はないかと常々思っていた。

「趣深い」は、まあ「あはれ」なら近いかなあ、と納得していたのだ。

しかし、令和の時代。
あったのだ。
「あはれ」に的確な現代語訳が。※私基準

令和の「あはれ」

とある編集者のオーダーで、こんな連絡があった。

「そうまさん、今度の取材なんですが、エモい原稿を期待しています」

エモい原稿?

泣かせるような話ってこと?
それとも感動するような話?
あるいは心を揺さぶるような熱い話?

それって……あはれな話ってこと!?(飛躍)

これだ。
あはれ=エモい
これしかない。

心にグッとくるとか、感情を揺さぶられるような感覚が「あはれ」なのだとすると、それはすなわちエモーショナルな気持ちそのものだ。
それを形容詞化した「エモい」はまさしく「あはれ」なのである。

平安文学、なかでも『枕草子』がたまらなく好きなのは、千年も昔に生きていた人たちが、同じ日本で、同じ景色を見て、同じようなことを考え、話し、感じていることが伝わってくるからだ。

枕草子の第一段でも、現代語に近づければ感じ方が変わるかもしれない。

秋は夕暮れ。
夕日のさして山の端いと近うなりたるに、
烏の寝どころへ行く とて、
三つ四つ、二つ三つなど、
飛びいそぐさへあはれなり。
まいて雁などの つらねたるが、
いと小さく見ゆるはいとをかし。
日入り果てて、風の音、虫の音など、
はたいふべきにあらず。

よし、訳してみよう。

秋は夕暮れやな。
夕日がさして山の端っこにめっちゃ近くなってるとこに、
カラスがねぐらまで行こうとして、
三羽四羽、二羽三羽といったかんじで、
急いで飛んでいくんでさえエモいなあ。
まして雁なんかが連なっているのが、
ほんまに小さく見えるのもええ。
日が沈んでから聞こえる、風の音、虫の音なんかも
いまさら言うまでもないわな。

……ん?


……なんか、うん……。


……まあいいか。

とはいえ、こうして千年の距離を飛び越えられる気持ちになるのは楽しい。平安時代に生きた人たちも、現代の人と同じものを見て感動したり、悩んだり、涙したりしたのだと思うと、”趣深い”ものだ。

「あはれなり=エモい」くらいの感覚で、平安文学を感覚的に読んでみると源氏物語も枕草子も、全く別の物語のように新鮮に感じると思う。

この秋、ぜひ。

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