信仰と飛び降り自殺と靴(後編)
前編はこちら。(読まなくても差し支えないです)
自殺しようと思うほどの人は、神などいないと一様に口にする。それは真実であり、冷たい現実だ。
だが、人間は弱い。神や、因果や、運に頼りながら生きている。そうしないと、ただ寿命に向かって日々を消化しているという虚無感に陥ってしまう。
つまり信仰、信じる気持ちというのは、生きる力そのものだろう。
信じることは生きる力だが、その先は別に神じゃなくてもいい。
例えば、自分の好きなものや趣味、アイドル、憧れの人物、なんでもいい。
趣味がないなら、見上げた空が綺麗だとか、風が気持ちいいとか、好きな季節を待ち望むとか、そんなことでもいい。
心地よいと思えたとき、その感覚が自分への信頼に繋がる。
だが、信じる気持ちが次々と無くなって、空を見上げる気力もなくなったとき。
世界が色を失い、味方じゃなくなり、それに抗う力が無くなったとき。
人はとうとう、死を選んでしまうのかもしれない。
いまから馬鹿な話をする。
この記事を書いてる途中で、希死念慮が酷くなり、具合を悪くしてしまった。
自分の仕掛けた罠に自分でかかったような。
内容がセンシティブだからなのか、私個人の問題か、あるいは両方か。
なので時折風景を挿れて、暗くなりすぎないようにしたいと思う。
そもそも、なんで「飛び降り自殺と靴」をテーマに入れたかったのか。このテーマは、私に仕事の基礎を教えてくれた恩師から投げられた質問だからだ。
恩師は自殺した。そのせいで何年もこの問いが心に引っかかっている。
「なんで人は飛び降りをするときに、靴を脱ぐと思う?」
恩師の問いに、当時二十歳そこらの私は、アホがバレないように「あの世とこの世の境をまたぐため」だとか、それっぽい返答をした気がする。
恩師は哲学的な問いかけをよくする人で、当時は疑問に思ってなかったが、既にこのとき、鬱になっていたのかもしれない。
その数年後、飛び降りではない手段で死んでしまった。
このことはいずれ、書くかもしれない。センシティブなので、限定公開にするかもしれないが。
私は高所が苦手なので、飛び降りを考えたことはないが、空想のなかで自分は靴を脱ぐだろうかと考えてみた。
答えとしては、計画性が高かったら脱ぐ、衝動的だったら脱がない、だ。
冷静であればあるほど、死への恐怖は増す。靴を履いたままでは、思い切れない気がする。
より無防備になって、後には退けないことを自覚しないと、いつまで経っても飛べないような気がする。
それはなんだかゲン担ぎのようだし、自分にある、カケラの信仰心というか。
“自分は死の恐怖を乗り越えられる”
と、最後に自分を信じようとする気持ちが働くのではないか。
自分のことを棚上げするようだが、最後に信じるのが“自殺できる自分”というのは、正直悲しい。
散々自分を否定して、自殺まで追い込まれて、きっと自分は死ねる、大丈夫って。
本当に悲しい。それが最後の信念なんて。
もしこの記事を読んでるあなたが自殺したくて苦しんでる人なら、私はいまそばに寄り添いたい。
病み垢(X)にいると、悲しい別れに遭遇してしまう。
私は死にたい人間だが、親交のあった人に死なれると、正直立ち直れない。
死にたいくせに馬鹿だ、身勝手だと思われてもいい。これは私の弱さだ。
フェンスを前にして靴を脱ごうか迷っている人がいれば、今日は、心だけでもそばにいたい。
先日撮った風景。
その先に何かが待っていそうな光景に、思わずシャッターのボタンを押してしまった。
そういえば、人間が一番好きな色は青色らしい。世界共通で好まれる色。
元々、信仰も自然を崇拝する気持ちからきている。ここで前編の記事と繋がるのだが、人間は生まれてから何かを信じる気持ちが備わっていて、生きるために信仰は不可欠なのだなと感じている。
死ぬために靴を脱ぐのも、信じる力を借りているからだろう。
ただ、やはりそれは悲しい。
結論として、それは悲しいと思う。
恩師に言いたい。
それは悲しい問いかけですねと。
まとまりがいまいちだが、この辺にしたい。
ここまで読んでくださった方に、感謝を。
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