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「成功者はすべからく努力しておる」は嫌いだけど「20年かければバカでも傑作小説が書ける」はなんか好き

「努力したものが成功するとは限らないが、成功者はすべきこととして努力している」
「20年かければバカでも傑作小説が書ける」

両者とも、言わずと知れたネットミームだ。
前者は元ネタがベートーベンだとか長州力だとか言われているので、それに比べると後者の知名度はイマイチかもしれない。

どちらも文意は似たようなことを言っているように聞こえる。
つまり、努力はしたほうがいい、と。

しかし不思議なことに僕は、「20年かければバカでも傑作小説が書ける」を聞くと勇気が湧いてきて、「成功者はすべからく努力しておる」を聞くとやる気がしぼむ。

初めに断っておくが、今から書く内容は事実判断ではなく価値判断である。どっちの方が正しいとか間違ってるとかではなく、個人的な好悪の感情を述べる。事実の話をしだしたら、そもそもどちらの台詞にも根拠はないし、今年のイグノーベル賞の研究によると「人が成功するかしないかは運次第」であることがわかっている。この研究は個人的に納得のいく話である。面白かったので気になった人は論文を読んでみてね。

ネットミームは得てして、レス画像としての使い勝手の良さでウケている。どんな話の流れで出た台詞なのかを知らないと、正反対の意味で解釈してしまうこともある。だから、当該台詞の発せられた大まかな状況も説明する。

鴨川会長の名言

努力したものが全て報われるとは限らん しかし…… 成功した者は皆すべからく努力しておる!! ここにおる者全てがキサマの努力を目撃し確認しておる 自信を持ってリングに上がれ 最後はーーキサマが積み上げたモノが拳に宿る!! ~鴨川源二(漫画『はじめの一歩』より)~

『はじめの一歩』は幕ノ内一歩を主人公とするボクシング漫画。この場面は、主人公の先輩にあたる鷹村守が、最強王者ブライアン・ホークとの世界戦を直前に控えて最後の精神集中に入るシーン。名だたるボクサーが鷹村の応援に駆けつける中、鴨川会長がぶつけた激励の言葉。

熱い展開ではある。悪いのはいつだって、文脈を切断してもってくるファンたち。僕が今やってるのもそういうことなのかもしれない。

この言葉は、やれるだけのことをしてきたと自負する人の背中を押すときに使う言葉であって、どこぞのネット民のように怠け者を叩く棒として使うのは間違ってるだろう。

僕がこの名言を聞くとテンション下がるのは、己の努力に自信が持てないというのもあるけれど、名言全体に漂う胡散臭さにも原因がある。

鴨川会長が「努力しないで成功した人」の存在を見ないフリしてるのはどうかと思う。でも、そこから先は「努力」とか「成功」の定義論になるので不毛なのかもしれない。「努力」を苦しみながらやることと定義するなら、同じことを楽しみながらやってる人には勝てないと思うけどね。……って孔子が言ってたよ。

これを知る者はこれを好む者に如かず。
これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。 ~孔子『論語』~

努力は報われますか? と尋ねられたイチローの答えはこんな感じ。

報われるとは限らないですね。もっと言えば、努力と感じている状態はまずいでしょうね。その先に行けばきっと人には努力に見える。でも、本人とってはそうでないという状態が作れる。そうすれば勝手に報われることがあるんです。 
~イチロー~

ダメ押しで羽生善治さんの言葉も置いとく。

何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。
報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。 ~羽生善治~

世にはばかる『努力論』なるものの中じゃあ、ここら辺が妥当なところかなと思う。もちろん分野や目標とするレベルによって様々な要素があるわけで、21世紀はここらの分類分けからはじまるのだ。

ストレイト・クーガーの名言

この世の理はすなわち速さだと思いませんか? 物事を速く成し遂げればそのぶん時間が有効に使えます 遅いことなら誰でもできる20年かければバカでも傑作小説が書ける! 有能なのは月刊漫画家より週刊漫画家 週刊よりも日刊です! つまり速さこそ有能なのが文化の基本法則! そして俺の持論でさぁ! ~ストレイト・クーガー(アニメ『スクライド』より)~

我らがクーガー兄貴の登場&能力紹介シーン。
傑作小説に20年かけた人を褒めているわけではない。
むしろ貶している。

ただ、この言葉を聞くと、不思議と勇気が湧いてくるのだ。

「成功するために20年以上、鍛錬すべし!すべき!しなくてはならない!そうあるべきだ!そうあって然るべきだ!」はピンとこないけれど、
「20年かければバカでも傑作小説が書けるって誰かも言ってたし…」って言葉はなんだかワクワクする。自分も何か始めてみようという気になってくる。

目線を下限に設けているところが好きだ。上じゃなくて、ちゃんと下の部分を見据えているところ。より自分に引き寄せて、身近に感じることができる。
世の多くの人にとって「上の限界」とか興味なくて、リスクを考えれば本当に自分に関係あるのは「下の限界」の部分のはずなんだよ。
「最高でこうなる」より「最低限こうなる」がほしい。
不安を感じて立ち止まってしまったとき、止まった足を再び歩けるようにしてくれるのは、
新しいことに挑戦したくても挑戦できない人の背中を押してくれるのは、こういう具体的で力強い太鼓判の言葉だ。
「努力は報われる」なんて無責任なこと言うなよ。
いや分かる。赤の他人に責任とれないし、とりたくないからね。
だったら初めから何も言うなよ、とも思うけど。
他人に説教したくなるのが人のサガってやつなのだろう。

そしてこうなる。

努力は必ず報われる。報われない努力があるとすれば、それはまだ努力とは言えない。~王貞治~

問い:なんで努力は報われるのですか?
答え:努力は報われるからです。

ザ・トートロジー。
循環論法ともいう。詭弁の一種である。
もしこれがディベートの場だったら一蹴されてしまうだろう。
責任をとろうという気配はある。
むりやり責任をとったらこうなった。
もう、やめよう。初めから無理なテーゼだったんだ。
「必ず」とか「絶対」なんて言葉は非科学的だ。
反証可能性のないテーゼは現代社会で「宗教」と呼ばれている。

結局のところ n=1 で何かわかったようなことを言う人は真実に辿り着けない。統計学を学ばなくちゃ。

でも世間一般で使われる「努力」って、それくらいフワフワした概念だ。

努力が絶対に報われるのであれば、報われたと感じていない人は努力が足りない怠け者ということになる。
どんだけ人を追い詰めたいんだいこの人は。
挫折した体験が思わぬところで役に立つことはあるだろう。
人はそれを結果論という。


俺たちに大事なのは、その夢破れた人たちの方なんだよ。
俺たちが知りたいのは、報われなかったほうのその後なんだよ。


双生児法で


普通に考えて、芸術家になる努力と、サラリーマンになる努力と、プロ野球選手になる努力と、アマ野球選手になる努力とを一括りに語れるわけがない。

「口笛を吹けるようになる」と目標設定したとする。
一週間の練習で吹けるようになる人がいる。
一カ月の練習で吹けるようになる人もいる。
一年かかってやっと吹けるようになる人もいるだろう。
訓練すれば ほとんどの人が習得できる。
この習得スピードの違いを、世間では「適性」あるいは「才能」と呼んでいるのではなかったか。

では「口笛の世界大会で優勝する」と目標設定したときはどうなる?
先程の例とは打って変わって、達成できた人はごく僅かになる。
なぜなら、この目標は与えられたパイの大きさが限られているからだ。
ポストの数があらかじめ決まっているからだ。口笛は訓練すればほとんどの人ができるようになることだからだ。だから、この目標を達成するには人より秀でる必要がある。人より秀でた才能が必要になる。

「スキー選手になりたい」はどうか?
スキー場の近くに住んでいないと、まず努力する土俵にすら上がれないのがスキーである。これは環境が成功を左右する好例だろう。フィギュアスケーターならここからさらに親の財力が関わってくる。

自分の好みと適性が一致してるかどうかは遺伝子によるところが大きい。
苦しくても目標のために何かを継続する辛抱強さというのは、脳のドーパミン分泌量に左右されることがマウスの実験でわかっている。
後天的にエピジェネティックな変化があるとして、それを誘発するのはすべて運である。人との出会いは運であり、良き師との出会いも運であり、どんな人間関係を指向するかも偶々もって生まれた遺伝子による運である。
最終的にはすべて運としかいいようがない。
だから、マイケル・サンデルは「自分の成功に謙虚であれ」と言うし、任天堂第3代目社長は「成功は全て運次第」と語るのだ。「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」と剣術家の言葉にもあるように、成功者には強い成功バイアスがかかり、むしろ失敗者の姿からこそ多くを学べるのだ。

大きな視点で見ると、「努力」は単なる「性格」の言い換えに過ぎない。痩せてる人が痩せる努力をしているなら、太ってる人は太る努力をしている。それだけのことだと思っている。本質的にそれらに優劣はない。


閑話休題、ストレイト・クーガーの発言に戻る。

努力すればいいと思っている人が、致命的に見過ごしているものがある。
それは時間だ。
たとえば80年かかってプロ野球選手になれたとしよう。
そんなものに意味はない。
人生は有限で、とりわけ肉体がフレッシュな時期は一瞬だ。
努力を続ける80年のうちに脳みそも体も衰え、何も成せずに人生が終わってしまう。だからその前に、向いてないことにはさっさと見切りをつけて、別の何かに挑戦したほうがいいだろう。

自分に向いているのか向いていないのか、見極めるのはとても大事なことのはずだけど、なぜか世の人は疎かにしがちだ。もちろん、向いてるかどうかがすぐにわからない、というのも大きな理由の一つだろうが、それだけでは説明がつかないほど、みんな自分の適性に興味がないように見える。
転職や就職活動で適性診断をやるけれど、あれは自分の適性を見ているようで見ていない。本当であれば


「向いている/ふつう/向いていない」と分類したとき、
まあ、多くの人は「ふつう」に該当することが多いのだろうなと思う。
世の中は多数派が作り、多数派が回している、
社会は自然と多数派に合わせてつくられるのだから。

そして僕のような発達障害は、多数派の作り出した価値観に肌が合わず苦しむことになる。発達障害は能力のパラメータがピーキーなのである。

僕はADHDとASDの傾向がある。能力の凸凹が激しいとよく言われ、できることとできないことの差が大きい。できない、の言葉のニュアンスも一般の人と異なる。普通の人の「できない」が技術的な内容を指すのに対して、僕の「できない」は、発達特性によるものが多い。

技術的には楽々できることでも、やる気が出なくてできない、ということがしばしばある。「やる気」という言葉の捉え方も、普通の人と少し違うようだ。僕の「やる気」は意識の外にあって、自分のコントロールの外側にあるものだ。よく言われる「やる気を出せ」は、僕にとって「水の上を歩け」に等しい響きを持っている。定型発達の人なら無理矢理やる気を奮い立たせる場面で、僕はそれができない。

つまるところ、僕はドーパミンの分泌が少ない脳を持っている。やる気はドーパミンがD2受容体に結合したときに発生するので、薬を飲んだり、音楽を聞いたり、大声を出したり、体を動かしたりして、どうにかこうにかドーパミン分泌を促している。しかし、合わないエンジンで走り続けるようなものなので、限界がきて精神が壊れる。壊れた。そういうわけで現在、うつ病で精神科にお世話になっている。

学校教育の話。学校で「適性がなくても努力でなんとかなるもの」ばかり教え込むのは悪影響もあると思う。慈悲の心が育たない。

本質的な話をしたい。
努力という言葉が使われる場面で、本当の論点になるべきは「現状維持 or 現状打破」という二択なのではないか?
頑張って就職した会社だったけど周りのレベルが高すぎて辛い。そんなとき。人によって、転職することを努力と言う者もいれば、今の職場に留まることを努力と言う人もいる。思考停止したまま合わない会社に居続けることを努力不足と呼ぶ人がいるし、すぐに仕事を変えてしまうことを堪え性のない努力不足と呼ぶ人がいる。何が努力で何が努力じゃないかなんて、見る人の捉え方次第なのだ。
この場合「現状維持 or 現状打破」の選択を迫られているわけで、努力がどうこう、なんてまったく本質からかけ離れた無意味な議論になる。まず、問いの立て方が間違っているのである。

ベートーベンが言ったとされているのがこちら。

努力した者が成功するとは限らない。しかし、成功する者は皆努力している。 
~ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン『出典不明(現在調査中)』~

これ、本気で調べたけれど出典が分からなかった。詳細を知ってる人はコメント欄で教えてほしい。今のところ、ネット上の根も葉もない噂話である。
でもベートーベンってそういうところあるよね。
厳しい父親にスパルタ教育を受けた経験が影を落としてはいないか?
己の身に不幸が多すぎて認知的不協和を起こしてないか?

嫌いではないんですよ。神業のように思える超絶技巧イラストレーターのpixivを投稿日順で遡ると、最初はへたっぴで、だんだん上手くなっていく過程が見られて、ああ、神絵師も人間だったんだなと安心したりして。

好悪以前に、全く事実ではないと思うし


ちなみに、もっと根本的なところからひっくり返した人もいます。

Try not to become a man of success but rather to become a man of value.
~Albert Einstein~
成功者になろうとするのではなく、価値ある人間になることだ。
~アルベルト・アインシュタイン~

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