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水の泡になれたなら

 水の泡のようにそっとこの世界から消えることができたならどれほどよかったか。最近死について考える。少し重めの話になるので辛いと思ったら読むのをやめてね。死についてはずっと前から考えていたかもしれない。わたしは昔死にたいと思っていた。今もその考えはあるのだが本当に強く思っていた時期があった。電車のホームでずっと下を眺めてしまう。橋を渡ればここから落ちたらなんて考えてしまう。どうして生まれてきてしまったんだろう。でも死にたいというより消えたいだった。だれの記憶からもいなくなりたい。忘れてほしい。そして世界から自分を消去してほしかった。ゲームのように人生をリセットしたかった。そうしたところで次はもっと最悪の人生かもしれないのに。夜中になれば涙が止まらなくて辛かった。学校で孤独だったわたしはSNSで話を聞いてくれる人や同じような考えを持っている人とたくさん話した。今思えば、ネットとはいえ助けを求めることができたという時点でほんとうに死のうとはしていなかったんだと思う。
 最近、人身事故の現場に居合わせたことで辛くなってしまった友達がいた。どうして周りに相談しなかったんだろう、どうしてそこまで追い詰めてしまったんだろう、何かできなかったのかなということを言っていた。その子はほんとうに優しい子だ。でもどこかわたしにはとても眩しく思えた。だってわたしはあのとき毎日死にたいと思っていたけれど、根本的な解決を導いてくれるかもしれない人たち(家族、先生、学校の人など)には相談しなかったから。相談できないのだ。唯一の希望をかけてもしそれが弾き飛ばされてしまったら?小さな小さな唯一の希望が絶望に変わってしまったときほんとうにわたしは死んでしまうかもしれない。
 わたしは死ぬということがどうしても悪いことだとは思えない。だからそれを止めるのは納得がいかなかった。生きているから死が悪に見えるのだ。生きることに価値を感じている人だから、それを失いたくないと感じるのだ。死にたい人なんてもう失うものは何もない。生きていたらこんなことがあるんだよなんて口先だけで言われても、それはわたしにとって雨雲の上にあるもの。全く見えないもの。それなのに生きてほしいだなんて、その人のエゴでしかないし生きたいと願う人に死ねと言うのと同じことだと思う。それに救えるのは救われたいと願う人だけ。だから相談を受けた段階ならそれはまだ救える余地がきっとある。ニュースでどうしてあの子がというのをよく見るけれど、そういうことなんだろう。加えて思うのは(この人に)救われたいと願われる限り根本的解決に導くのは困難であるということ。他人に何を言われてもわたしのことなんて何も知らないくせにって思ってしまう。もしくは何気ないことが救いのきっかけにはなるのかもね。深夜に布団の中で見たYouTubeだとか。電車に乗ってたまたま聞こえた会話でだとか。救いたいという理由でかけられた言葉なんかより、たまたまわたしだけが刺さった言葉のほうがよっぽど大きな価値を生む可能性がある。そう思っていたんだよ。
 ずっと前、わたしのフォロワーに死にたいと嘆いている人がいた。誕生日を教えてもらったときその日が来るのも祝われるのも嫌いだと言っていた。わたしはどうしようもなく生きてほしいと思ってしまった。あんなふうに考えていたくせに。意味もなく死なないで、生きて欲しい、助けたい、救いたいなんてことを思っていた。リアルでの交流はないし、SNSで少し絡むだけ。それなのに救いたいと思ってしまう。でもどうすることもできない。結局、こうなのだ。どうして助けたいのかすらわからない。あの時のわたしを救いたいだけなのかもしれない。自分自身のためなんだろう。わたしの考えは浅はかだったように思えた。もうその人とは繋がっていないからどうしているのかはわからない。でも今つながりがある人がこのようなことを考えていたら救えるんだろうか。ネットなんで所詮誰だかわからない匿名サイト。それでも救いたいと願ったときわたしは何ができるのだろうか。見ていたいと思ってもらえるようなツイートでもするんだろうか。でも死ぬことで幸せになれる人だっているかもしれない。そういう人にいい加減な気持ちで救いの手を差し伸べるなんていい加減な話だ。
 わたしが魔法使いなら、そんな世界一緒にやめてしまおうよと言えるのにな。

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