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苦難を乗り越え、星々へ

日頃出不精である私でさえ、春という季節は外に、それもできれば知らない地に赴きたくなる。

この日はある現代音楽のコンサートを聴きに、ウィーンより西方に位置する街クレムス・アンデアドナウ(Krems an der Donau)に向かうことにした。レイルジェットで片道1時間20分。思いつきで行く距離ではないが、どうにもこの頃、日に日に柔らかくなる陽光と花の香りのせいで、逍遥への願望がいよいよ抑えきれなくなっていた事もあり、山ほどの課題や練習を途中で放り出し、夕刻前に家を出た。

ザンクトペルテン駅で、2両編成のクレムス行きに乗り換えた時には、すでに日は西へ傾いていた。車中で読むつもりだった本を家に忘れてきてしまい、移動中は徒然に車窓に流れる景色を眺めていた。延々と続く田園風景の中に、時折目を引くものが流れてくる。散歩する犬、ベンチに腰掛け話す老人達、ネコヤナギの束を抱えた人、自生している花々、また犬。なんだか妙に絵画的でおもしろい。停車時に前の席の若者が窓を開けると、野焼きの様な何かが燻る匂いと春風が車内を吹き抜けていった。

「クレムス駅。終点です。素敵な夜を」
そうこうしているうちに気怠げなアナウンスが流れた。

外はすでにとっぷりと日が暮れている。
コンサートまで少し時間があるので、駅から会場までおよそ2キロ程の道をふらふらと歩いた。会場はクラングラオム・クレムス・ミノリーテン教会。その名の通り元は初期ゴシック様式の教会であり、現在はコンサートや空間作品の展示などの芸術活動の場として使われているらしい。モダンなライトアップとIMAGO DEIという看板がなければ、教会にしか見えない。
入り口が何処かわからず、人に尋ねた。

「教授からmdwの学生は入場無料と聞いているのですが、入り口はこちらでしょうか?」

「ええ、伺っています。受付が別にありますので、そちらで学生証を提示してチケットをお受け取りください」

なんと今回ウィーン国立音大の学生は入場無料なのである。
うひひ、うへへと私の心の中のねずみ男達が小躍りする。

チケットを受け取り、中へ。
内装はかなりモダンであったが、ホール内の壁や支柱には半ば色褪せた宗教画が残っている。足音や話し声が高い天井の端まで反響する。舞台や照明は最新であっても、雰囲気は教会そのものであった。

手元のプログラムにはこうある。

PER ASPERA AD ASTRA
「苦難を乗り越え、星々へ」
Musik zwischen Dunkelheit und Licht
暗闇と光の狭間の音楽

恥ずかしながら、私は現代音楽はまだまだ勉強不足で、4曲とも未知である。だからこそ直感的に、あるいはほとんど野生的な感覚でその世界観に引き込まれた。

焦りや苛立ち、暗い海底に響く鯨の声、サンプリングされた人の声に纏う寂寥感、変質していくGの音。空間的な音響のせいか、あらゆる情景や感情を錯覚した。それぞれに呼応する様に映像や照明の演出が交錯する。
 緊張や不安が続くかと思えば、曲間にモンテヴェルディとジェズアルドのマドリガーレが、客席の周囲から断片的に演奏される。それがまるで不意に光が差すようで、途端に安堵する。
4曲目の終わりに向かうにつれて、すべての照明が次第に落ちてゆき、終には電子楽譜の画面の光さえも消えて、完全な無だけが残された。

終演後徐に照明がもどり、ふと上を見た時に、はじめて天井に星の絵が描かれていた事に気がついた。意図した演出かはわからないが、プログラムを通して暗闇から星々を見つけた様で、形容し難い余韻がじんわりと心に残った。

今まで体験したことがない表現世界に魅せられて、半ば興奮状態のまま帰路についた。帰りの車両に乗客は少なく、ほとんど皆眠っていて静かであった。私も疲れてはいたけれど、なんとなく眠ってしまうには惜しい気がして、また徒然に車窓を流れる景色に目を向けることにした。
昼とはまったく異なる様相で、只々しんと広がる田園に、夜が重たく覆い被さっている。こうも夜が深いと星もよく見えるのではないかと思ったが、月明かりのせいか、天候のせいか、家までの道中、星を見つけることは叶わなかった。


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