好きな顔はありますか。
好きな顔の系統(≒好みのタイプ)という意味ではなく、もっとストレートに、この人の顔が好きだ。ただ見つめていたい。いや、チラチラ覗き見たい。でも決して恋愛対象というわけではない。そんな顔。好きな顔。

人には同性でも異性でも関係なく、恋とか愛も関係なく、更には美醜も関係なく、好きな顔というものは誰しもあるのではないかと思っている。おそらく、いや、あくまで勝手な想像でしかないけれどたとて目が見えずとも。

顔立ちと書く方が正しいのではないかと言われるかもしれない。
しかしながら、顔立ちでは“系統”や“傾向”という意味を持たせやすいように思うので違う。それはタイプだ。その微妙にすぎるニュアンスとしてだが。
同様に根本的な要素として、似ている顔というものがある。
芸能人の誰それに似ているだとか、父親に似ている祖母に似ている遠縁だが特徴があるだとか。個人的には大別して8種類前後と捉えている。人種も性別も超えて。目や鼻、頬骨や頭蓋の形というそれぞれのパーツの関係性と
なので、「このアイドルの少女はトム・クルーズに似ているなぁ」などというようなことを感じることも少なくない。
恥ずかしながら多くて8種類くらいしか顔の描き分けができないということでもあるが、そういう都合の悪いことは今は見ないでおく。
なので、好きな顔の傾向があるとしたときに“似たような”顔が候補に上がってくるし、それらをどうにかカテゴライズするときに「顔立ちが似ている」というような言い方をするのかもしれない。
そして、それを“好み(タイプ)”と呼ぶのかもしれない。
しかし、好みの顔というとどうも下衆っぽいというか色恋の匂いというか、梅雨時の北側の部屋の前を通り過ぎる時の生臭さを感じてしまう。
主観的なのでこの比喩が正しいかはわからない。

抱きたい体なんて言葉もある。
勝手を通り越して失礼な言葉だ。
好みの顔と同じような意味でもあるし、違うとも言える。そこに対象の人格が含まれるかどうか、その人格を尊重するかどうかも関わってくる。
抱かれたい体というのも同じものなのだろうか。それはちょっとわからない。

しかし、好きな顔はやはりそういうものとは違うのではないかと思う。

ある韓国のモデルのインスタグラムがおすすめで流れてきた時、何気なく振っていたサイコロが連続で6を出したときのような「おっ」という声が出た。

きれい、美しい、かわいい、色んな言葉で修飾できるし、パーツを拾ってここがいいここがいいと言うこともできるが、そういうことではなく、ああ、この顔好きだなぁと思った。
“系統”でいえば、大沢たかおと江口のりこのハイブリッドだが、だからといって大沢たかおがタイプではない。江口のりこは好きなタイプではある。
でもそれとは関係ない。
うまく言う表現が未だ以て見付からないのが歯がゆいが、出会ったときの感覚は箱を振って開けたらプラモデルが完成しているというものに近い。

「似たような顔立ちの他の芸能人の顔も好き」というわけではないのだ。似たような顔立ちの他の芸能人の顔がタイプである可能性は高いが、それは致し方ない。

書いていてどんどん泥沼にハマっていくのがわかる。
もどかしさは文章に出るが、そんなもの読む他人からすれば定まらない定義と主旨に苛立ちがつのるだけなのである。

菊地凛子の顔が好きだ。
笑ったときの、この女性はたぶんヤバいなと確信させるに足る目つきと口角の上がり方は最高だ。
でも、好きな俳優かというとそうでもない。
顔を見ていられるので映画を観るが、特に思い入れのある作品はない。
演技に対してどうこう言える立場でもないが、存在感のあるすごい俳優だとは思う。

好きな顔の話をすると、同世代かそれ以上(アラフォー以上)の人は斉藤和義の曲を引き合いに出す。「君の顔が好きだ」という曲はあまりにも有名だ。
シニカルに思わせて直球のラブソングである。多分。
そもそも恋なんてほとんど顔がきっかけで始まるものだと思っているし、多くの場合は顔が少なくとも“好み”の範疇にないと続かないものだと思う。遺伝子が求めているかどうかはわからないが、そういう側面もきっとあるにはあるだろう。
だけど、私が今どうにかして伝えようとしている「好きな顔」はそれらとは違う。
違うんだと思う。
セックスしたいと思う脳の部分とは別の部分が、「マジこの顔好き」と言って棚に並べようとする。

どうしてこんなことを書き続けているのだろうか。私ったらいつも降りるべきポイントを探しているが、無事に着陸できた試しがない。毎回不時着か墜落である。

もうひとつ、「〇〇の顔が好き」と言うと、決まって「へー、ああいうのがタイプなんだ?」と言われるわけだが、それが違う、のだ。
これは今回言いたかったことに限りなく近い気がする。
そう、そういう顔立ちの人が恋愛対象を見つける際の上位に来るんだね?と一般的には思われるものなのだ。ものらしい。
「〇〇が好き」と言うと、直接的に表現すれば「〇〇とセックスしたいの?」と聞かれることもあるし、学生時分などであればそれがある意味当たり前でそれを否定すると純情ぶるというか正直ではないという評価を受けたりするものだが、「顔が好き」というのはどうもそこに誤解を与える類の表明であるのだ。
そういうときに、「別に中の曲はそう好きでもないのにジャケットが好きで持ってる聴かないCDとかない?」と逆質問するのだけど、それもまた誤解を与える表現であるらしいこともわかる。

「好きな顔のタイプは?」と問われれば、菊地凛子とは言わない。ペ・ドゥナとも言わないと思う。森高千里とも言わない。市川実日子とも言わない。
若い頃は好みの顔と言うならhitomiが好みと言うと決まって「そっちなんだ?」みたいな反応をされた。ギャルじゃなくてもっと大人しそうなお嬢さんぽいタイプが好みだと思われがちだった。オタクだし。
心無い人たちは「どうせ綾波レイみたいなのが好きなんでしょ?」とお決まりのことを言ってきたりした。誰があんなややこしい厄ネタを……と言っても通じない人たちだ。
何ならアスカが好きだったし、何なら好みはリツコだ。
hitomiはギャルなんだろうか?ギャルか。ギャルだな。
でもそういう顔立ちの人とはついぞ付き合ったことはないし、いわゆるギャルとも付き合ったことはない。ただし、一人残らず普段の表情がきつい気の強そうな顔の人だったから、「気の強そうな顔立ち」が好みなのだろうというのはわかる。
好みというなら多分hitomiと麻生久美子が双璧で、でもずっと説明しようとしている「好きな顔」ではないのだ。

あくまでも感覚でしかないが確かにあるものを説明するために、恋愛における“好み”の話をするのは何だか損した気分になる。
なので今回はここまでにしておく。
そのうちまたリベンジしたい。
ここまで読んだ人には申し訳なくも思うけど。
もし、ほんの少しでも「好きな顔」のニュアンスが伝わっていれば嬉しい。

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