『酢豚をパイナップルに入れる』を読んで
『食わず嫌い』とは、食べたこともないのに嫌って食べないことであるが、某お笑いタレントのテレビ番組のせいで『好き嫌い』と混同・混用され、今やよくわからない。
私は基本的に好き嫌いで食べられないものはない。好んで食べないものはある。豆ごはん、牛乳、生肉、ナスのぬか漬け、フルーツ全般。出されれば食べるが自分では選ばない。
唐辛子系の辛いものと牡蠣は、好きだけど体が受け付けないので、好き嫌いにはカウントされないと思う。
パイナップルは好きだ。
フルーツの中でも、いちごとパイナップルは例外。
もちろん丸のまま買ってきたものを切って食べるのも好きだし、缶詰のものも好き。ジュースも好き。
そして、酢豚の中に入っているパイナップルも、ピザにのっているパイナップルも、ハンバーグにのっているパイナップルも好き。パイナップルをのせた途端にハワイアンと冠されてしまう適当さも好きだ。ハワイアン酢豚とは呼ばないが。
同様の理屈としては、ポテトサラダの中のみかんとりんごも嫌いではない。
なので、“違和感”や“余計なお世話”という意味で使われるパイナップルには少々同情的である。
私だけはお前を愛そう……
そういえば、パイナップルをくり抜いた中に酢豚を入れたものを食べたことがある。勝手にタイトル回収である。
高そうな中華料理屋だったが、味は覚えていない。
なぜなら接待でド緊張していたから。
先日なぜか流行った“Pineapple on Pizza”というゲーム。あれは「(神が)よかれと思って(土人に)干渉したことにより破滅的な結末を迎える」というものだったが、オリエンタリズムと人種差別的な“有色人種による劣った文化”に対する視線の凝縮で、あれが流行るんだから白人文化なんてどうしようもねぇなと思ったら日本でも流行ったから驚いた。
あの島は言ってみれば日本でもあるのに。
御影福良といえば、眼鏡をかけて太ってはいないけどだらしない体型に見える、モグラとあだ名される女の子だったかしら?と思って『人をやる〜』を読み返してみたら、彼女は福楽だった。別人?マルチバース?と思ったら名簿では福良だったからセーフ。でもどっちにしろマルチバース。
ところで、美人の“友人”とは誰のことだろうか。
彼女がどういう人生を経て東南アジアか中央アメリカか西アフリカかを思わせるような土地を旅するような大人になったのかはさておき、『何かしらの西洋の信仰と習合混合した土着信仰の強い土地を旅してそうなOL』という存在への解像度が高い。
男女問わず、旅に向いている人とそうでない人がいる。
向いている人は危険地帯でも生きていけるが、向いていない人は安全が保証されたような平和な場所でもトラブルに巻き込まれる。これはもう立ち振る舞いや纏うオーラ(そうとしか表現できない)の問題だったりするので、努力でどうにかなるものではない。生存バイアスという見方もできるが。
御影福良は、そこそこ危険な土地でもなんとなく旅してしまえる程度の警戒心と、同時に相手に警戒心を抱かせない振る舞いと選択の鋭さを持っているということだろう。
日本国内であっても、同じ土地に行ったのに歓迎される人と半ば無視される人がいるが、歓迎される人に共通するのは『他人に対する期待値の低さ』と『喜び上手』ではなかろうかと思う。
期待値が低いくらいの状態でやってきて、ちょっとばかり歓迎したらとても嬉しそうにする人は好感度高い。大げさに感動を表現しろというわけではないのが難しいところだが。
御影福良は酢豚のパイナップルだろうか?
しかし誰がなぜ酢豚にパイナップルを入れることを思いついたんだ?
まぁいいんだ、今回は逆だから。よくないが。
地域の祭というのは、共同体維持のための団結力を高めるという意味合いと信仰が混ざりあったものであることが多いが、その信仰の部分で異邦人を神の使いに見立てることが往々にして起こる。
祭を研究する文化人類学者たちが、神の使いとして祭に影響を与えたという話もままある。
その歓待される神の使いがどういう風に選ばれるかということも含め、そこに神秘性を感じるのは“文明人”として当然なのかもしれない。
そこに現代文明の中では忘れ去られたプリミティブな衝動や情熱を感じざるを得ない。
それらは下等な非文明的なものを珍しがる差別意識から出るものではあるものの、異文化に対する畏れ、慄き、憧れがあるのは確かである。
そして、御影福良は選ばれた。誰に?
序盤から不穏な空気はあるのだが、段落毎に更に不安をかきたてていき、ここで「うえっ」となるであろうと計算して不璽王さんも書いているのではないかと思う。
いつもながら、質感と情感が気持ち悪い。
気持ち悪い描写が細かいというわけではなく、最低限の説明で気持ち悪いので、むしろ洗練された気持ち悪さなのだが。
ある程度の読書量のある人に“察させる”タイプの嫌悪感と言おうか。詳細や“それの意味”がはっきりとはわからなくとも、なんとなく悍ましい、なんとなく汚らわしい、なんとなく痛ましい想像をしてしまう。それが全て。
トリンが何を捧げ、何をされ、何を奪われたのか。具体的に知ることよりも、あらぬ想像を読者に委ねる方が、実はタネ明かしするより悪趣味である。
察しの悪いことで有名な私がただわかってないだけかもしれないけど、そこは『ナポリたん』みたいなものだと思いたい。
百合文芸の話ですよね?ええ、そうですが。
誰かに尽くすこと、それを受け入れること、それらは大切なパズルのピースとピースであり、嵌まらないことの方が多い。嵌らないと知ることを失恋と呼ぶ。一般的に。だけど、そのピースが嵌まってしまうことが正解とも限らない。
好きと憧れはそれぞれ別物だ。だけどそれらは紙一重でもある。
「どうせ殺されるならあなたみたいな素敵な人に殺されたい」なんていう倒錯もすでに使い古されたものだが、どうしても誰かに身を捧げねばならないなら、どうせならその人に恋してしまいたい、恋させてしまいたい、深く傷を付けてやりたい、できれば一生消えない傷を、一生引きずって幸せを拒むような傷を。
そこまで情念を抱えるかどうかは人それぞれだが。
十数年前、知り合いが子供を産んだときに、赤ん坊に母乳を与えるということに関して似たようなことを言っていた。
自分の血肉を与えてひとつの生命を生かすということへの、ある種の狂気めいた執着。母親業を社会への生贄として例え、子どもと自分の魂の不可分性を語る様は聞いていてゾッとしないものだったが、その異常なほどの固執にみえるものは実はそう異常なものでもなく、割と普通というか、あまり他で言語化したものを聞かないだけで、そういう風に思っている母親は少なくないのかもしれない。
御影福良が経験したこのプリミティブで本能的な、それでいて確信犯的で一方的で未熟な“恋”。
内角の合計が180度にならない歪んだ三角関係。
無言でそれを見守り(?)、利用する大人たち。
パイナップルは異物(異邦人)であり、それは神でもある。神の来訪は望まれるものである一方で、早いとこ機嫌よく帰ってもらいたいのも事実。
有益なものをもたらしたり、豊作をもたらすこともある。しかし放っておくと何をしでかすかわからないし、時には不幸(病気など)を連れてくることもある。
御影福良に捧げられた一人(二人)の供物は、幼年期の終わりと呼ぶには少々重い。
クライマックスの祭の場面に関しては、「うん、セックス」である。
スプーンで「あーん」と言いながら食べさせるのってエロいよね。介助だとまた意味合いは変わるからそこはノーカンとしても。好きな人に料理を作って食べてもらうのって、はじめのうちは本当にドキドキする。
食べるという行為が根源的な生の象徴であるからでもあり、信頼を表しているからでもあり。
じゃあその料理が“自分”だったら?
比喩としての「それともア・タ・シ?」ではなくて。
それって完全にセックスだと思うの。
そう、御影福良は選ばれた。
しかしながら、実際のところ彼女を選んだのは村人でも少女でもない。神は神によって選ばれ、意図的にいざなわれるのだ。
選ばれた神は罪をひとつ抱える。
土埃舞う風と、まだ未熟な少女たちの汗と甘いトロピカルフルーツの香りの中に、泥と血の混じって腐ったようなにおい。それらは決して鼻の奥から消えない。
だから、御影福良もきっと次の神を選ぶのだろう。
ちなみに、不璽王さんがこれを書くきっかけになったというある作家の短編集が出るそうな。当該の作品は収録されないそうだが、読んだことがない作家なので気になる。気になるけど読みたくない。フクザツな乙女のきもち。
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