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しあわせでいてね、しあわせでいるからね。

もしも神様がいるのなら
あなたを信じなければ救われないのでしょうか
無神論者の優しいあの子は
地獄に落ちてしまうのかしら
あの子は賢く優しく美しいけれど
「わたしを信じて救われなさい」を
信じてはいないから

知りたかったこと
知りたくなかったこと
知ってほしくなかったこと
知らなくていいこと
世の中にはたくさんあるから
選び取るのはとても難しい
本当はあなたにわたしの気持ちを
分かってほしいけれど
わたしの心はわたしの内側だから
あなたに見せてあげることはできない
あなたがわたしを信じることでしか
教えてあげられないの ごめんね

もしも神様がいるとしても
信じることはとても恐ろしくて難しいから
「わたしを信じて救われなさい」の
たった一言さえ守れていないの
わたしも地獄に落ちてしまうのかしら

信じることはとても難しいから
あなたに「わたしを信じて」とつたえても
気味が悪いこともよく分かるよ


だからせめてしあわせでいることにします
あなたもしあわせでいてね、
しあわせでいるからね。

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最近宗教哲学を勉強しているのですが
信仰とは要するに
「あなたを信じ帰依します」と
宣言することなのかな、と思いました。

人は、他者と信頼関係を構築し、
それにより社会活動を行います。
友情にしろ恋愛にしろそれ以外にしろ
ある程度の「信じる」という行為により
他者と交わり、生活するわけです。
それは日常の様々な取捨選択のうちに
ほぼ毎日行われている行為だと思います。

宗教哲学の勉強をしていて、
「なぜ人は何かを信じられるのか」という
疑問に直面しました。
信じるという行為は先程述べた通り
日常的に行われている行為でありつつも、
実はとても難しく、高度なこと
なんじゃないか、と
勉強しながら思ったわけです。
だって「神様」という認知不可能な
存在に身を委ね、帰依して
生活の基盤とし、道徳心の支柱とするのは
不安じゃない?大博打じゃない?と
典型的現代日本人なわたしは感じるわけで。
「それ」を信じてもし間違っていたら
採算が合わなくないか?と。

そこで話をもう一度日常生活に
置き換えて考えてみます。
友情にしろ恋愛にしろそれ以外にしろ
ある程度の「信じる」という行為も、
実は自分たちが感じているよりも
とんでもないことなのかもしれません。
神様と同じで、目に見えませんし
採算が取れるとか取れないとか
そんな話でもないですから。

「あなたを愛しているよ」とか
「一緒にいられて嬉しいよ」とか
そういう言葉を素直に受け取れるなら、
それはもうめちゃくちゃに
すごいことをしてるんだと思います。
信じるっていう難しい行為を
素直にできるあなたも、
あなたのいる環境も素敵です。

逆に、
「あなたを愛しているよ」とか
「あなたと一緒にいられて嬉しいよ」とか
そういう言葉を信じられないあなた。
それもそうかな、って思うんです。
心は目に見えないからこそ
確たる証拠の提出は出来ません。
現状認知不可能な神様が
「わたしを信じて救われなさい」と
言ってきても、はいそうしますと
反射では言えないと思います。
それと同じなのかなって。

じゃあ何も信じなくていいのかというと
わたしが伝えたいのはそうではなくて、
「しあわせでいてね、
 しあわせでいるからね」ということです。
わたしやあなたの身近な誰かを
無理矢理信じなくていいと思います。
それはそこまで不自然な行為ではないです。
ただ、そこで何もかも拒絶して
閉じこもってほしくはないです。

わたしも勝手にしあわせでいますから、
あなたも勝手にしあわせでいてください。
そうすれば何かを信じられなくても
あなたの平穏はきっと
あなたの手の中にあるでしょうから。

神様や恋人や友達や世界を信じるより
それらから少し離れたところでも、
あなたがあなたと向き合い、
しあわせになるほうが
きっと易しいように思います。

なんて、幸福論を信じすぎでしょうかね。

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