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生き字引だった祖母の話。

亡くなった父方の祖母は、90歳過ぎに認知症になるまで「我がシマ(集落)の生き字引」のような人でした。もう、伝統行事からゴシップ(?)まで何でも知っていて。
うちの集落で字誌(あざし)を作った時には、祖母のおかげで戦前の集落の地図が再現出来たようです。
それを話し出すと近代の沖縄がどうなったかという事にも関わって来るので、書いてみようと思います。

沖縄戦後の我が集落

前提として気に留めていて欲しい事をまとめておきます。
私の故郷は沖縄戦の激戦地だったため、多くの人が亡くなり集落も壊滅状態になりました。その上、祖母のように生き残った住民は収容所に行かされ、土地は米軍基地として接収されたのです。
その後に帰って来た人々は、決められた「割り当て地(わりあてぢー)」に住まわされる事になり、今に至ります。
そのため幸か不幸か、昔から近所に住んでいた方々とは離れずには済みました。

ちなみに、私の戸籍に載っている本籍地は米軍基地の中になっています。
沖縄戦で戸籍が失われてしまい、後から申請する時に祖母達は本籍地を元々住んでいた場所の番地にしたようです。それが父(結婚後は母も)の本籍地となり、私達子供の本籍地としても登録されたとか。
最近は「米軍基地は元々何もなかったところに造られた、そこに沖縄人が集まって来たんだ」という妄想を平気で言うヤマトゥンチューがテレビで威張っていますが、何もなかったわけではありませんし、せめて奪われた故郷の近くに住みたいと思う事の何が悪いのでしょうか。
私は一生本籍地を変えるつもりはありません。今は米軍基地になってしまったその場所に、かつて住んでいた人々がいたという証明になるのですから。

母が祖母から聴かされた話

正直なところ、生前の祖母は実の息子である父よりもその配偶者である母との方が仲が良かったのではないかと思っています。
ウチナーグチも母の方が堪能でしたし(ちなみに母は父より15歳年下でしたが、実家では三世代同居だったためウチナーグチを話す機会が多かったそうです)。
そのため、昔の事などを話すのは母相手が多かったようです。

例えば、年中行事の綱引き。
沖縄の綱引きは五穀豊穣を願う神事の要素が大きいのではないか、と私は思っています(雄綱《おづな》と雌綱《めづな》を棒で繋いで……って意味深長ですよね)。
祖母の時代は集落の中でも大きな道で、照明の松明を燃やし、前村渠(めーんだかり)と後村渠(くしんだかり)に分かれて綱を引いていたそうです。
まだ少女だった祖母は、道に面していた大きな家の塀に登って綱引きを眺めていたそうなのですが、とても大きく賑やかに見えたのでしょう。「綱がすごく大きかったよ」と話していたそうです。

また、祖父との馴れ初めについても母には話していたそう。
当時うちの家はそこそこ大きな農家で、やーんなー(屋号)を言えば集落の人々はすぐにわかるような家でした。しかも曽祖父は村議会議員も務めたインテリ。
一方、祖母は別の農家の娘でした。若くて働き者の彼女に目をつけたのが高祖父で、「◯◯(屋号)の次女をうちの嫁にくれないか」と直接交渉したとか。向こうにしてみれば玉の輿だったのかも知れません。
こうして相手の事も良く知らず結婚する事になった祖母ですが、婚約時代にうちの法事を手伝う事になったものの中に入れず困っていたら、祖父が「大丈夫だからおいで、あなたももうすぐうちに嫁ぐんだし」と招き入れてくれたそうです。
おじい、その優しさをあなたの息子は全く受け継いでなかったよ……。

字誌への貢献

大部分が米軍基地に取られ、昔の面影など残っていない我が集落の歴史を残そうと字誌が作られる事になった時、頼りにされたのはお年寄り達でした。
記録は戦争で失われたものが多かったため、「記憶」が重要な手掛かりとなったのです。

その中でも記憶がはっきりしていたのが祖母でした。地図を再現する際にも「うちはここで畑はこの辺りまであって、ここは◯◯(屋号)の家で、ここにはサーターヤー(黒砂糖を作るための施設)があって……」と指摘する事が出来たそうです。
それで細かな地図を作る事が出来たのですが、私が見てももう何が何だか。戦前はとても広かったんですよ、うちの集落。

お年寄りは皆が生き字引

祖母が亡くなってから実感した事は、お年寄りという存在はそれだけで生き字引だという事です。母も未だに「おばあが元気な時にもっと話聴いていれば良かったねー」と言います。

お年寄りが亡くなるという事は図書館1つが失われる事と同じ、という言葉を聞いた事があります。それを思うと、血の繋がらない「嫁」という存在でありながら祖母からたくさんの話を聴いた母はその話を誰に受け継ぐのかとも考えてしまうのです。

え、父はどうしてたかって?
父は若い頃のヤマトゥ暮らしが長かったせいかウチナーグチもかなり忘れていましたし、ヤマトゥ至上主義者で「沖縄の言葉は汚い」と幼い私達に標準語を叩き込んでいた程でした。
そして「年寄りの言う事は信用出来ないから聞くな」が口癖でした。あんたも大概年寄りだろうが、じゃああんたの話も聞かなくて良いんだな?と何度思った事か。
そんな感じで亡くなったため、父から昔の話を聞いた事は全くと言って良い程ありませんでした。


※画像は「みんなのフォトギャラリー」からお借りいたしました。ありがとうございました。

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