努力の定義とは何か朝ドラから考えてみた、話。
努力しろ、努力しろと子供の頃から言われている私達ですが。
「努力」とは何か考えた事はありますか?
『ちむどんどん』の暢子は努力していない?
Twitterで何故か大不評な朝ドラ『ちむどんどん』。
ある日のタイムラインに、某コラムニストの方が主人公・暢子を「努力しないヒロイン」と書いた新聞のコラムが流れて来ました。
「は?何でそうなるの?」
これが私の正直な感想でした。
東京でイタリアンのシェフとして働き、その後で沖縄料理の店を開店させた暢子。彼女が「努力しない」人間であったなら、そこまでたどり着けなかったでしょう。
しかしTwitterではコラムが大絶賛。
そのような数々のツイートを眺めているうちに、疑問が浮かびました。
努力とは、何か。
周りの人間から「努力している」と認められる態度や行動とは、何か。
「楽しんでいる」「いきいきしている」のは努力ではない?
暢子の場合
暢子と言うキャラクターは、子供時代から食いしん坊で美味しいものが大好きです。また、家で料理をする場面もありました。
そんな彼女が誰かのために料理をして喜んでもらう幸せを知り「コックさんになりたい」と夢を持ったのです。
美味しいものを食べるのが好き。
自分で美味しいものを作るのが好き。
それを美味しいと喜んでくれる人がいるのが嬉しい。
暢子が心をときめかす事は、シンプルです。
そのシンプルな喜びを求めて、新しい料理を作れるようになりたいと思い、もっと美味しく作るにはどうしたら良いかと試行錯誤します。
……料理が苦手な私には、こんなにも「努力」出来る彼女は眩しいばかりです。
でも、暢子は努力を努力と思っていないのです。
楽しいから、嬉しいから、幸せだから。
料理を作る事が苦ではない。
皮肉な事に、視聴者にはその姿が「努力しているように見えない」と非難の対象になる。
彼女と正反対な事例を、私は知っています。
私の場合
私が大学に進学したのは23歳の時ですが、その前に1年間予備校に通っていました。
高校を中退したため、大検(大学入学資格検定、現在の高認に相当)に合格して受験資格を得た私には一般入試に受かるしか道が無かったからです。
始めのうちこそ学力不足が不安でしたが、いざ講義を受けてみると楽しかったんです。新しい事を学ぶのは新鮮で、少しずつ力がついて行くのがわかり、過去問が解けるようになると夢に近付いている実感がありました。
勉強は全く苦になりませんでした。
行きたかった大学や学科が明確にあり、そこに突き進んでいたから。
社会科系の科目は割と良く出来ていたため、講師の先生に「何で本土の大学受けないの?」と言われたりしましたが。
大学に合格した時は嬉しかったのですが、オリエンテーションで戸惑った出来事がありました。
私の志望学科は、定員の半分が推薦入試やAO入試で学生を取っていました。つまり、一般入試の枠は少なくなります。
一般入試で入ったと言うと、周りは口々にこんな反応を返して来ました。
「一般入試で受かったなんてすごいね」
……いや何を言ってるんですかあなた方!?
そもそも私はまともに中学や高校に通えなくて、そのために一般入試で受かるしかなかったのに。皆みたいにちゃんと学校に通って推薦枠とか取る方がすごくないか、私には出来なかったんだから!!
これが私の本心でした。
一般入試で受かったからと言って、無理な努力をしたわけじゃない。これしか出来なかったし、勉強は楽しくて仕方なかった。
勉強は楽しかった。苦ではなかった。
見事なまでに暢子と反対ですよね。
世間は「目に見える努力」しか理解しようとしないし、それだけで勝手な評価を与えるのです。
世間に認められる「努力」とは何か?
努力の定義とは何か。
努力とは「苦しそうに見える」ものであり、「楽しそうに見えない」もの、そして「歯を食いしばって嫌な事を乗り越えるように見える」ものであると言えるでしょう。
暢子は楽しそうに料理をしているため、努力しているように受け止められない。
一方、私は世の中で苦労するものだと思われている勉強で結果を残したため、努力していると受け止められた。
何かおかしいと思いませんか?
結局のところ、日本と言う国の世間では「努力しているように見える」事が大切なのでしょうか?
わかりやすい努力の形も、朝ドラにあった
では、どのような「努力」なら世間に受け入れられるのか。
それは大ヒットした前期の朝ドラ『カムカムエヴリバディ』(以下『カムカム』)にありました。
『カムカム』一部の主人公、安子は戦争で夫と実家の家族を亡くし、娘と生きて行くために1人でお菓子の行商を始めます。
夫の家族からの支援は得られず、娘を預ける事もせず、孤軍奮闘するのです。
しかし仕事は上手く行かず、最愛の娘には事故で一生消えない傷を負わせてしまい、最終的には逃げるようにアメリカへ渡ると言う衝撃的な結末を迎えました。
後に娘と仲直りする展開もあり、安子の「努力」は誰もが認め応援するものとなりました。苦労、犠牲、孤独、これらが「努力」として認められる要素でしょう。
『ちむどんどん』とは時代背景も違いますし、日本における沖縄人コミュニティと言う独特の要素もあります。だからこそ暢子の「努力」は認識されにくいのではないでしょうか。
時代は変わったように見えて、ちっとも変わっていない。
沖縄復帰50周年記念になる『ちむどんどん』は、これまでの歴史ではなく現在の社会を映し出しているのでしょう。
※ヘッダー画像は「みんなのフォトギャラリー」からお借り致しました。ありがとうございました。
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