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あなたとは違うんです(知性とかアレコレ) 

 静岡県知事のこの「知性」をめぐる発言でなかなか興味深い世界観が垣間見えたので記録しておきます。



https://twitter.com/Taroupho/status/1775103834156896448より引用)


 この知事の発言が炎上したのは

 

知性第一主義の社会的風潮ではなく、単なる差別的文脈だから


 です。
 誰かを貶める文脈でものを言えばそりゃ反発買いますよ。

 「知性」の部分を「能力」に置き換えても炎上したでしょう。

 
 収入とかでもね。
 例えば、君たちは自給1000円でモノ売ってる人は違う、と言っても炎上するでしょ。

 ていうか、知性で劣ると言われたら、いや、劣らないだろ、という文脈で言い返すのって当たり前だと思うんですけど。だって知性の比較をしてるんですから。
 体力じゃ負けない、と言い返すのはむしろおかしくない?

 例えばレストランオーナーが、お前の店は俺の店より不味い(味の評価)と言われたら、いや俺の店は美味しい(味の評価)で言い返すのが自然だと思うんですよね。
 いや、俺の店は内装がいいから、と言い返すのはチグハグでしょ。
 

 
 知性とは

 

 こう定義されてますが、物事を知り考え判断する、というのは誰でもやっています。
 専門分野は人それぞれですから、知性の方向性は異なるでしょうけどね。哲学者の知性、料理人の知性、経営者の知性、農家の知性、その他いろいろな知性があります。 

 例えば高卒から叩き上げで建設業の会社を作った人には知性はないのでしょうか?
 例えば料理人はさまざまなものからインスピレーションを得て新しいレシピを作り出す。客の好みや満足度をイメージしコース料理を組み立てる。
 これは知性だと思いますが。

 勿論自分に無い「知性」を持っている人は尊敬するでしょう。
 しかし、それは「自分に無い知性」を持っているからであり、「知性」があるからではない。

 例えば、哲学と言うフィールドでの知性と料理人というフィールドでの知性は両立しており、優劣はないと僕は思います。
 もちろん同じフィールドの知性においては優劣はあるでしょうけどね。

 「知性」なる概念は極めて定義が難しく、曖昧さを含むので共通認識を持つのは無理だと思っています。
 個人的には

「知識、観察力、想像力などを包括する総合的知的能力。分野は問わない」


 だと思ってますが、これはあくまで僕の定義。 

 ただ、この手のやり取りを見る限り、この手のインテリセンセイの中では「知性」なる概念は定義されてるっぽいんですよね。



https://twitter.com/rongtangjushi/status/1606953095313100802より引用)


https://twitter.com/Taroupho/status/1775178137359532341より引用)

 
 とはいえ、知性とはどんなものなのか。
 知性が高いというのはどうやってわかるのか。
 知性のある人、知者ってどういう人なのか。

 自己啓発本を読んで獲得できる知性は、知者とやらから教授される知性より劣位なのか。
 劣位なら何か根拠なのか。

 割と真面目に疑問なので、この辺を言語化してほしいです。
 でないとそもそも話にならない。

 人文学のカテゴリー内で定義された「知性」で知性第一主義で競い合うのは別に構わないんですけど、その知性第一主義マイルールを世間一般でも適用されてると言われても困るんですよ。

 


https://twitter.com/ganrim_/status/1775185230141517833より引用)


 そして、この世界で唯一正当化された差別は

 

「知性」による差別ではなく、「学力」による差別です。



 これは白饅頭氏もどこかで書いていましたが、学力という知力レースでの差別的扱いは肯定され、学力の高いものはこの世界で序列が高いとされる。

 学力による差別が可能なのは、それが測定可能だからです。
 試験の成績、偏差値、学歴、入った大学の格、修士・博士とかの肩書、国家資格の有無、それらの知的能力により獲得した報酬。

 これらは測定可能です。 
 例えば東大出と富大出だと恐らく東大出の方がすごいね、という目で見られる。
 職場の扱いとか処遇も変わるかもしれません。
 
 しかしこの両者の差は偏差値とか大学の格という形で可視化されます。
 だから扱いに差があってもまあしゃーないねって感じで受け入れられる。

しかし「知性」は測定できない。


 繰り返しになりますけど、知性をどう定義するんでしょうか?
 知性の高さ、低さをどうやって分けるんでしょうか?

 測定できないものを基準にして行われるのなら、それは気分の問題としか言いようがない。
 クラシックはロックより高尚だとか、文芸はラノベより高尚とか、そんなのと同じ程度です。

 

 試験の成績や学位、学歴が知性の高さを保証する


 という建付けならそれはそれでいいです。
 でも、そうなると、

オープンナントカに賛同したアカデミアの先生方も高い「知性」をお持ちってことになる


 んですけど、それでいいんですか?
 

 それにですね、知者に学べとか言いますけど。
 例えば上の知事は恐らく「自分の知性は高い」という自負があるんであろうと思うんですが。

 知性が上記の定義の通り「物事を知り、判断する能力」だとして、知事の立場で公にこんなこと言えば1000%炎上するの分かり切ってるじゃないですか。
 コーラを飲んだらゲップが出るのと同じくらい確実ですよ。

 だって、知性をどう定義するとしても、この文脈は農業従事者とかの比較している相手を見下す侮蔑的、差別的なニュアンスが含まれるからです。

 この文は

「君達は優れた知的能力を持っているからここにいるのであり、それを磨くように」


 といっても十分通じる。
 モノを売ったり云々の下りは全然、全く必要ないんですよ。

 その程度の判断すらできない人が「知性」を誇っているわけで、じゃあどういう人が知者なんですかって話なんですよね。
 知性があるなら知者ならそれらしく振舞ってほしい。
 

 とまあ色々書きましたけど。
 この人たちの「知性」の定義は厳密に言えば知りませんが、高等教育によってのみ醸されるもの、となってるんだろうなとは思います。

 でないと文脈の説明がつかない。
 明らかに自分たちを「知性」を有する者という位置づけで話してますからね

 知性は学術関係者のみがもつユニークスキルではない


 と個人的には思いますが……まあ他人の定義に口を出す気は無いです。

 これは宗教対立のようなものなので、論じるだけ無駄なんですよね。
 先方に改宗を迫っても仕方ないし、僕も改宗する気は無いので。
 
 あえて彼らの言うところの「知性」の定義を想像してみますと、

 人間の本質に迫る思索


 くらいのもんじゃないかなーと思います。
 個々の職業的な「知性」は、彼等的には「知性」に該当しない。

 もう少し述べるなら、多分文学とか哲学、歴史学、アートとかの文系学問はこの人間の本質(あいまいな表現)に迫るものであるという感覚があるんだろうと思います。
 なので専門バカの他の学者や、そもそも思想をしない凡愚な大衆と比べて俯瞰的な視野から本質的な話が出来る、という感じなのではないかと。

 やたらと専門外の社会問題とかにご高説を垂れたがるのもそれが理由かな。


 最後に、頭が悪いとまで言われたのでここで言い返しておきます。

https://twitter.com/Taroupho/status/1775138055571247504より引用)



 哲学は、世の中に何の役にも立たない、何も生み出さない暇人のやることだと僕は思っています。
 個人的な評価は社会学以下です。まあそういう学問があるのもそれはそれでいいとは思いますが。

 なのでその「知性」とやらにも全然敬意を払う気は無いですし、知者とも思わないんですよね。
 頭悪いと言われても、あなたの頭も大して良さそうに見えないっていうか。
 
 院時代の法学の先生は恐ろしく厳しかったけど、それでも明確に隔絶した高水準の知性を感じる人だったのでその知性を今も尊敬してます。
 でも、自称知性が高いだけの人には別に敬意は感じません。

 頭の上にステータス表記しておいてくれれば尊敬するのも吝かではありません。
 案外低いかもしれませんけどね。


 
 追記。

 知性とは単一のものである、そして試験はその知性を保証する、というより、知性を証明する方法は試験である、という人と遭遇したので、記録として貼っておきます。


https://twitter.com/cinema_ga/status/1776448712853868687より引用)

 クソ長いツリーとなっています。
 終盤は、先方の

 

「正しい私(根拠なし)が無知な君の誤りに気付かせてあげよう」


 みたいな態度が鼻に突いたので、僕の対応が雑になってます。

 途中のとあるtweetを見て、中の人は多分人文系のセンセイで某有名アカウントのサブ垢かなーとは思いましたが、明確な証拠はありません。
 仮にそうならファンネルを飛ばして攻撃してこなかった点だけは感心します。

 中の人がそう言う人ではなくてどこかの有象無象なら、別に知性の高さが保証されてないので、上から目線のお言葉を聞く理由が無いんですよね。
 中の人がアカデミアのお偉いセンセイでも、名乗らない以上は僕から見れば有象無象の1アカウントに過ぎませんが。

 僕個人は上記の通り、知性が「物事を知り考え判断する能力」である場合、それは誰でも有しており、またカテゴリごとに求められる判断力は異なると考えています。
 優れた経営者の持つ知性(判断力とか)と、優れた公務員の持つ知性と、優れた軍人が持つ知性と、優れた学者が持つ知性はそれぞれ異なるでしょ。

 仮に総合的な知性なるものがあるとしたら、その人は横断的にどの分野でも対応できるという理屈になるはずですが、現実的にそんなの無理です。
 だからこそ試験とかも細分化されている。

 そして、試験はあくまで学力を測定するものであり、知性は判定できない。
 その分野での知性を判定することはできるかもしれませんが、他分野の知性との優劣は測れない、という立場です。

 だって経営者と公務員の知性の差をどう図るんですか?
 公務員試験の成績優秀者は試験を経ていないというだけで経営者より知性が高いんですか?
 さすがにそれはかなりの暴論だと思いますけどね。

 もし仮に「知性」を試験で測定するとしたら、IQ試験のようなのとかなら可能ではないかと思います。
 つまり前提的な知識の有無、学習の要素が薄い、その場での問題に対する判断力や思考力を試すタイプの試験。

 弁護士試験主席合格という人が居ても、その人が医者の試験を受けたら点数はまずとれません。
 しかし、その事実をもって、医師より「知性」が劣るとは言えないはずです。 
 試験で知性が測れるというのは、さすがに無理筋だと思いますがね。

 とはいえ、別に僕は自分が正しいという気はありません。先方が正しいとも思いませんが。
 上で書いた通り、これは一神教信者と多神教信者の神学論争のようなものなので、宇宙の果てまで行っても決着はつかない。

 ただ、自分の内面を深掘りするなら……僕は職業柄かなりいろんな職種、立場の人と接します。
 その人たちにはそれぞれ方向性は違えど知性を感じる。僕にはこの人のまねはできないな、と感じることが多い。

 学業成績、試験だけならこの人より上だろうと思う相手はいくらでもいますが、それとこれは別だと感じることも多いです。
 そういう環境にいるので、知性とは様々であり並立的だと思うんでしょうね。
 

 追記・2

 個人的にこの手の知性に関するやりとりで一番不快を感じるのは、知性の優劣がある事を前提にして語る(多くの場合は、自分はあるという前提で無い者を見下す文脈)を使う人がいることなんですよね。

 知性の定義は上で書いた通り人によって差があって、その違いは宗教論争にしかならないと思いますし、人の定義に口を出す気は無いです。

 でも、知性に優劣が仮にあるなら、優劣を計測する基準が絶対に必要です。
 人に「知性が劣位だ」「自分は知性がある」「Aと比較してBの方が知性がある」というなら少なくとも自分なりの測定基準がないとお話にならない。

 例えば「知性とは学業成績である、よって知性は試験の成績で測られる」というなら、それはそれでいいんですよ。
 その意見は測定基準も含めて一貫しているから別に構わない。
 僕は賛同しませんが、試験が一定の知性を測ることはできると思いますよ。

 いずれにせよ、知性の優劣を語るなら、優劣の測定基準を示してほしい。いや、示すべきでしょう。
 それが知的誠意だと思います。
 
 

 


 
 
 

 

 

 
 



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