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わたしたちは「何者か」になれるのか?〜Day4 親子関係〜

あたらしい学習指導要領が掲げる「主体的・対話的で深い学び」。

前回は、学びの主体性を支える「個の尊重」についてお話しました。

今回は、新要領下での学びへの「種まき」をするにあたって必要となる、「土台」作りの部分、とくに「親」について考察したいと思います。

人の言葉を「微分」する

一旦話は逸れますが、私は高2まで理数系科目が大の苦手でした。しかし、いま理数系科目も見させていただくようになった中で、「本質」について考えるようになったとき、理数系領域で好きだった数少ないものとして、「展開と因数分解」、そして関数の「微分・積分」は、物事を体系立てて考える構造によく似ていると感じました。

話を戻します。

私の教室では、学びの主役はあくまでも塾生である、という理念は、2016年の開業時点から変えずに来ています。

多くの子どもたちの、学習内外の悩みに寄り添い、保護者さんたちや学校の先生の立場も思いながら、時には私の考えを貫かせてもらったりしつつも、学生の目線を第一で考えています。

子どもからすると、親や学校の先生(+時に私)など、大人の言い分は、頭ではわかっているけど、気持ちがついていかないし、大人からすると、自分たちのしてきた苦労に基づいて、同じ苦労はさせたくないという思いから、ついつい口が出てしまう。

ある程度の時期になるまで、ずっと平行線のように見える、大人と子どもの思惑。「そういうもんだ」と言ってしまえばそれまでなのですが、やはり私も、どうすれば子どもたちが自発的に実りある学びに向かえるのか、常々考えているもので

そして、「子どもが安心して学びに向かうことができるようにするには」と考えたところ、まず、私のように「子どもさんをお預かりする立場の者が、保護者さんたちの思いについて、できるだけ精緻に分析」したほうがよいと考えました。

子どもたちにとって、大人の発言には、理解できないバックグラウンドがたくさんあるのです。そうしたときに、大人の発言を要素ごとに分解しなければ、理解も難しいのだろう、と感じました。いやむしろ、大人と子どもに関係なく、人同士が理解し合うには不可欠なのかもしれません

親の言葉の分析の必要性

たとえば「勉強しなさい!」という親の言葉。

一般論として、「勉強して、いいところに行って、いい暮らしをする」ための方法論として語られやすいのが、「勉強しなさい!」という言葉なのでしょう。

しかし、これだけ情報がたくさん入ってくる時代。さらにコロナなど、今までの「当たり前」に大きく変容が求められる時代です。

高学歴が必ずしもいい生活に結びつくとは限らないことを、だれでも容易に知ることができるのです。

ただ、子どもとしては、なんとなく「勉強を頑張れば、今後の選択肢は広がる」というイメージは多かれ少なかれ持っているのでしょう。

教育の「あるべき姿」を追求する観点からは、「子ども側」の見方は、たくさん書かれてはいるのですが、ふと気になったのは、実際、学力のみならずとも、どこかしら「子育て」に当惑を覚えている「親側」に寄り添った論調は、あまり多くないように感じました。

そして、我々「お預かりする側」も、その表面的な部分のみをつかまえて、「教育」という名の元に、子どもたちに義務や制約を課していくことになるのでしょう。

子どもが一番長い時間、一番濃密に接するのは親です。

ということは、親のおかれている状況にも、ある程度は理解される必要があると考えます。

親から見た「我が子」のとらえかた

まず、親にとっては耳の痛い話からします

人によっては「何も知らないくせに地方の小さな塾屋、それも教育畑出身じゃない奴が何を!」と思われるかもしれません。

ですが、いたずらに批判するのではなく、親の気持ちに寄り添うためにも、このあたりの分析は避けては通れませんので、ご容赦を。

なにせ、親は子育てをしているという時点で、すごく尊いことなのですから!

では、参ります。

「勉強しなさい!」という言葉や、それに付随する怒りを、端的に分析すると、このようなことが考えられます。

・自分ができなかった分、子どもができるようになれば…と自己投影をしている。

・子どもができるようになってはじめて、自分が親としての責務を果たすのだから、それができないうちはダメだ。

というものから、

・自分ができたのに、なぜ我が子ができないのか理解に苦しむ。

・こんなことでつまづいていたら、社会に出たときにすぐつまづいてしまう。

といったものまで、十人十色のように感じます。

しかし、これらはすべて、親が「我が子」という存在を、無意識のうちに自分の一部、ともすれば一体となっているものとして考えてしまっているからではないでしょうか。

そしてそれは、もし新しい学習指導要領が、個性を尊重しあって、誰もが「何者か」になっていくことを目指すのであれば、残念ながら逆行していくことになるのです。

親にこそ「自信」を

我が子は自分の一生を捧げても守りたいもの。だからあえてリスクを取るような生き方はさせたくない。

それは親として当然の心理でしょう。

裏を返せば、もし親が我が子を「一体」と無意識にでもみなしていたら、自分の子どものリスクは、自分自身のリスクとみなしてしまう、とも言えますよね。

でも、それでは子どもはいつまでも親の手を離れられないことになります。今つまづいても乗り越えられないのだったら、この先も…と案じておきながら、立ち上がる力を鍛えるどころか、奪っているとさえいえるでしょう。

そして、実際社会でつまづいてしまったときに、「ほら言ったでしょう」と言って、親としての顔を出したくなるものです。場合によっては「私がいなければダメなのね」とも。

少しずつ親離れして、人間関係を俯瞰できるようになった子どもからすると、それは親が自分の苦労が報われるようにと、我が子を使ってマウントを取っていることに、容易に気づいてしまうのです。子どもは決して口にはしませんが。

新課程での学習が進めば進むほど、気づいてしまうでしょうね。

そうなる前に、努力の方向性を変えなければいけませんね。

はい、耳の痛い話はここまでです

大事なのは、親にこそ「自信」が必要、というお話です。

この「自信」は、文字通り「自分を信じる」ことです。もっと言うと、「他者の存在を前提としないで」自分を信じることです。その「他者」には、残念ですが「我が子」も含まれてしまうのです。

でも、大丈夫です

先ほども書きましたが、親は子育てをしているという時点で、すごく尊いことなのですから!

作られた一般像

だれでもできることではないんですよ。社会が少子高齢化、晩婚化している…といっても、豊かな暮らし向きでなくとも、子育てをしている方だってたくさんいるのです。

満足な教育をさせてあげられない、満足な衣食住を与えてあげられない…そういった暮らしでも、頑張っている方はたくさんいるのです。

でも、表に出てくるのは、良くも悪くも色々と顕著な事例ばかり。やっかいなのは、そういった色々と顕著な事例が一般化していると勘違いしてしまうほど目に見え、刷り込まれているだけなのに、自分自身のことを、作られた一般像からかけ離れていると思いこんでしまうことなのです。

だからきっと、焦って「要領が変わる!難しくなる!勉強させなきゃ!」という思考になってしまうのでしょうし、「どうせお金持ちや地頭の良い人など、何かに恵まれた人のための教育で、格差をもっと広げてしまうんだろう」と消極的になったりするのでしょう。

この構造が、社会としてしっかり理解され、共有されることで、親や大人が救われる仕組みになればと思います。そしてそれは、子どもの健全育成の土台の成分にもなるのですから。

作られた一般像に自分をはめ込まないで!

大変なことをいっぱい目の前にしながらも、先々の不安があったにしても、

・【「今時点は」どうにかでも、暮らしを保てているんだ。】

・【人はとやかく言うけど、自分は今を生きることができている。】

ということに、意識を向けてみませんか?

1日1分だけでも、30秒だけでも、心の中でつぶやくと、落ち着いてくると思いますよ。

繰り返しますが、親は子育てをしているという時点で、すごく尊いことなのですから!

日々のご苦労を思うと、尊敬のひとことしかありません。

できることを一つずつやってきて、今に至っているではないですか。作られた一般像に強烈に囚われる前に、その事実に目を向け、少しでも心が救われますように。

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