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【SDGs】ジェンダー問題の限界と働き方

 以前、社会学の授業の課題で「ジェンダー」と「働き方」に焦点を当てて書いたものです。noteのネタにもなりそうだったので、せっかくなので載せます。

 男尊女卑という言葉があるように、男が働き、女が家庭で子供を育てるという考えがしばしば社会に広まっていた。第二次世界大戦時に日本の男性たちが戦場へ駆り出され、女性たちが働きに出る瞬間もあり、それから女性も労働ができるという考えも出てきた。これは後にフェミニズムへと繋がっていった。

 フェミニズム自体は19世紀初頭にフランスで生まれた言葉であり、女性の精神的自立や教育・職業の機会平等の権利を主張するものである。この言葉は現代日本にもかなり浸透し、意味も同様に使われているが、時に過剰な女尊男卑の意味を含んでいる様子も近年見かける。過剰な女尊男卑はフェミニズムへ気を使い過ぎた結果ではないかと私は思う。フェミニズムを温床に、女性の優位を勝ち取ろうとする動きが発生してしまったのだ。

 男尊女卑が歴史上あったということは事実だが、私はそもそもそこから男女平等を謳ったのが間違いであると考えている。男尊女卑も女尊男卑も二性間に優劣がつけられてしまっている、だから優劣をつけず平等に行こうとしたのであろうが、男女には生物学的差異があるのだ。平等にも当然限界がある。ましてや近年はLGBT(新たな呼称としてLGBTQIAというものも広まってきている)という男女の二性に囚われないジェンダー概念の需要が始まってきている。もう男女平等という考えそのものが時代遅れになりつつあるわけだ。

 では今後の社会でジェンダー問題をどのように受け入れていくべきか。私は一度、性別は男女の二性のみだという認識に立ち直るべきだと思う。ここで明言しておきたいのは、これは決してLGBTの否定ではないということだ。性別という概念・定義を生物学的な生殖機能における区別とし、LGBTはあくまで性的嗜好・性格の一部とするべきだと思うのだ。そうしなければ、キリがない。種類が増える度に、その組み合わせも増えていき、それら全てを理解しろと言うのは無理がある。人の数だけ愛の形があるという認識に変えて、どんな恋愛のあり方も受容できる思考作りが今後の社会には必要だ。

 これはLGBTの人たちにも、そうでない人たちにもメリットがあるだけでなく、社会的な施設にもメリットがある。タイではトランスジェンダー専用のトイレがある。2008年には既にできていたという。つまり男・女・その他という三種類だ。身障者用も加えればトイレだけで四つの場所が必要という計算になる。数多のLGBTを性別として受け入れていくならば、このトイレの数も増やす必要性が生まれるかもしれない。建築コストは計り知れないだろう。どれだけ性のあり方が増えようと排泄機能は男女の二種類しかないのだ。男性用、女性用に加えて身障者用または男女兼用、もしくはその両方。施設の大きさに合わせて最大四種のトイレがあれば十分であろうと思う。タイはLGBTへの理解が進んだ国であるが、施設の対応も進んでいたというわけだ。

 この区別の仕方は働き方にも幾らか応用が可能である。トイレは排泄機能での区別を行なったが、働き方においては身体差での区別が可能である。力が必要な引越し業者などは男性向け。産婦人科医や助産師と言った女性の体に関わる医療系の職種は女性向け。あくまで例だが、このような区別の仕方だ。しかし、引越し業者もこなせるような力持ちの女性もいる、男性の産婦人科医も山のようにいる、という反論があるかもしれない。私はそれに備え、トイレの例では男性「用」、女性「用」と表現していたものを今回は男性「向け」、女性「向け」と表現した。働き方における区別は目安であるということを言いたいのだ。

 「募集条件:男性」「募集条件:女性」などという表記は今の時代、すぐに過剰なフェミニストが炎上の火種にするだろう。それ以前にこの表現にはいささか問題がある。引越し業者が求人で「募集条件:男性」と書いて、肉付きがないひ弱な男性が来ても困るだろうし、小さな子供を相手にする保育士で「募集条件:女性」(念押しでもう一度言うがあくまで例えである。保育士に男性もいることは知っているし、女性である必要がないことも重々承知している)、元プロレスラーですと言うような強面の女性が来られても困るだろう。

 身体差を前提とし、「向け」という表現を使うことで許容範囲が広がるのだ。引越し業者で元プロレスラーのような女性が活躍したり、あまり力のない男性が保育士となったり(保育士に力があることに越したことはない)とフェミニストらが目指した男女平等が実現できる。

 とはいえ、冒頭で述べたように「男女平等」は時代遅れである。しかしこの「向け」という表現方法ならLGBTにも対応できるのである。体が男性で心が女性の人、またはその逆の人も「向け」となることでどちらでも働く余地ができる。採用するかしないかは各採用担当の判断に任せればいい。これだけでもマイノリティーが働ける機会がぐんと増えるはずだ。

 このような男性のみ、女性のみと言う切り捨てを行わずに、生物学的差異を前提に多様性を受容する「向け」という表現を使うことで、救われる人々が増えるのではないかと私は思う。それが新しいジェンダー観を持つ働き方だ。


noteあとがき
 タイトルに【SDGs】と付けたけども、最近どこでもこの言葉を聞くようになって、安っぽさを感じ始めた。もちろん大切なのはわかっているけれど、重みが感じられなくなってしまった……。

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