画面をうずめる青い花々と霧ヶ峰のマツムシソウの群落

 仕事帰りの夜道、私は商店街の通りを避け、それより2本も3本も裏になる道をわざわざ遠回りして帰ることが多い。
 庭の広い住宅が多く、道には木の香り花の香りがかすかに漂い流れているし、秋には虫の音も聞けるからである。

 10月に入っても日中の暑さは続いたが、今日は雨のせいもあって寒いくらいだ。
 家への道をゆっくり歩きながら、私は「おやっ、何かおかしい」と感じた。駅から毎晩歩いて帰る道なのに、なんとなく違和感がある。
そして気づいた。いつも木の上から降り注いでくるアオマツムシの高い声が今日はないのである。葉の陰で少し強くなった雨を避けているのだろうか。
それならそれでいい。この雨音だけの住宅街もまた一興だ、と思った。

 そうして歩きつつ、私はふと高原の秋に想いが飛んだ。アオマツムシの名からの連想であろうか、初秋の霧ケ峰・車山の薄青い大群落"マツムシソウ"へ・・・。

 高原一帯に咲き乱れていたニッコウキスゲの黄色い群落が次第に消えていくとともに、マツムシソウが咲き出す。淡い青紫のこの花は秋を呼ぶ花である。マツムシが鳴き始める頃から咲き出すのでこの名がついた、という説がある。それほどマツムシソウは草原の秋を代表する花だ。

 霧ケ峰の、いくつも連なるゆるやかな起伏に秋の風が渡ると、群り咲く青紫のマツムシソウが一斉に揺れる。
   うれしくも分けこしものか遥々に松虫草の咲き続く丘  (長塚節)

 何十年も前の話だが書き出してみよう。私が大学生のとき、臨床心理学の教授が私に家庭教師の口を持ってきてくれた。同じ大学の理学部助教授の家である。
 息子の小学生の家庭教師となったのであるが、その子は発達障害をもつ子であった。当時はカナー症といわれた自閉スペクタル症(ASD)である。私は紹介してくれた教授のもとで両親や他のスタッフと共にプログラムを組み、週2回、1年2年と通った。
 その子は時に激しく暴れたり、自傷行為もあったりで、会話もままならず、初めの頃は私はいつも重い気持ちでその家に通い続けた。だが、自身の実践的な勉強のためにもなると、私は懸命だった。それに、教授が、私には過大な役目ではあるけれど願ってもない学習体験を与えてくれ、しかも経済的に困窮している事情から世間の家庭教師以上のアルバイト料をいただける、という温かい配慮が心底ありがたく、その気持ちを裏切らないようにと必死だったのだ。そして、私はその子の持ついろいろな面がとても感動的で大好きになり、彼もまた私を受け入れてくれるようになっていった。

 その少年にはひとつ特徴があった。ノートや画用紙はもとより広告紙の裏など紙の白い部分があれば、その紙いっぱいに青い色鉛筆で無数の小さい花を画くのである。
 青一色のそれは、ひとつひとつに茎がありその茎から小さい葉がいくつか出、上に少し大きめの花が咲いている。そして画面全てが青い花の大群落で埋め尽くされる。それを、何枚も何枚も画いているのである。
 「これは何の花?」と聞くと、彼は人差し指で絵の紙を強く何度も叩いた。それは「ぼくの花だよ」と表現しているのだ。「どこに咲いてるの」「花、花、こっちも・・・風が吹くと寒いよ」

 およそ2年ほど彼の家に通っていたが、私は両側中耳炎急性増悪症から聴力を全く失って休学するハメとなり、むろん彼の家にも通えなくなった。やむなくある大学院生と交代した。
 そして8ヶ月後、私は一応聴力だけは回復し復学した。しかしそれからは激動の学生時代だった。いわゆる大学闘争の激化、紛争の嵐だった。
例の教授も、また家庭教師先の助教授も徹底的に糾弾されていた。私と交代した先輩の院生も韓国を拠点とする宗教思想団体に入ってしまい、私と全く相容れない状態となった。

 誰もが信じられなく、自分もこれからどうしていいかわからず、私はひたすら読書と旅と山登りに自分を追い込んでいった。友人の何人かは自ら命を絶ったり行方不明となった。それもまた、私には大きな心の痛手であった。
 山も、尾根歩きから、より激しい岩登りへと傾斜していった。落ちて死んでもいいと心のどこかで思っていたのかもしれない。
 屹立し、人を拒絶する岩壁にしがみついて、悪戦苦闘しているときだけが生きてる実感を覚えていた。
 もうまったくあの小学生だった子ともの家を訪れることもなく、教授にも先輩にも会うことなく過ぎていった。

 それから何年経ったろう。ある秋の初め、私はふらりと新宿から中央線の電車に乗った。切符は初乗り料金で、どこへ行くという当てもなかった。その気になったところで降り、乗り越し料金を払うつもりであった。
 東京の家並みも切れ、車窓に緑濃い景色が拡がり出すと私の心は少し落ち着きだした。どこか虚ろで、それでいて若さゆえの焦燥に、どうにも身を処すすべなく、無為の毎日を繰り返していたのだ。そんなときの無目的の旅である。
 列車が進むにつれ、私はしきりに山を、それも穏やかな、陽のあたる明るい高原のようなところに行きたいと思い始めた。そして、そうだ、車山に行こう、と思いついた。
 霧ケ峰の車山には以前、3月と、それから自身の冬山訓練のため単独で12月に雪洞を掘って2泊したりなどはあったが、雪のない季節ではこの時が初めてなのだった。本の写真で見る夏の霧ヶ峰は、なだらかな丘の続く、いかにも明るい、花の高原らしかったから。

 茅野駅で列車を捨てバスに乗ったが、終点の強清水まで行かず、途中の集落が切れる辺りで降りて歩いた。
 初秋の風に水引草が揺れている。タムラソウやアキノキリンソウ、ヤマホトトギス、ナギナタコウジュなどが次々と現れ、続いていく。
 そうして登っていくうちに霧ケ峰へ、そして車山の肩へと着いた。

 そこは一面に薄紫の絨毯を敷いたようなマツムシソウの大群落であった。
ヤナギランもハンゴンソウ、リンドウ、シオガマをも、全てを圧倒して咲き乱れていた。

 私はかなり長い間立ち尽くし、見とれていた。
 そしてどこかでこれを見た気がして、ああ、あの子の描いた紙の中の風景だ、と思い当たった。
 画面に隙間なく描かれた小さな青い花々。それはまるでこの車山の光景を写したかのようではなかったか・・・。

 おそらくそれは違うであろう。あの子にとってその時は青色が気に入り、チューリップのような何かの花の姿をいくつもいくつも紙の上がいっぱいになるまで描いてみたのだろう。
 もしそれがこの光景を実際に見てのものだとしても(親から霧ヶ峰に連れて行ったらこの子は声をあげて喜んだという話を聞いていた)、マツムシソウとは限らない。やはり大群落をなす黄色のニッコーキスゲかもしれない。その本当のところはわからない。
 だが、事実は異なるとしても、彼の心象風景の奥底には、このような青や黄色の花が無数に咲き乱れていたに違いない。
 そう思いながら見ていると、彼の気持ちが少しわかるような気がした。そして、自分もまた彼と同じように、いつしか人と関わることが難しくなってしまっていたのを痛切に感じた。
 人間に、人間の社会に対して、私はどんどん後退しているのだ、と。
それでいて、自分から作り出した弧絶した状況から抜け出したいと思ってもいるのではないか。この当てもない旅の始めは、そんな思いが無意識のうちに出た行動かもしれない。「私は今、心を鎮める、巡礼の旅に出た」と、思うことにした・・・

・・・それから1年たった夏、私は結婚した。


マツムシソウの名の由来:  花が終ったあとの坊主頭が、松虫鉦(がね)に似ているところからという。松虫鉦は、僧侶が巡礼の旅に出るときに使う、マツムシの鳴くような音がする鉦。

マツムシソウの花言葉:  「感じやすい」

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