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活き活きした「悪態」は今どこへ・・・

前回と同じくまた道端で出会ったことだが、今度は小学生の口喧嘩である。
4,5年生であろうか、学校帰りの男の子が二人言い合っている。
 「バーカ、バーカ」
 「おまえこそバーカ」
 「バーカ」
 「バッカバカ!」
これで終わりである。さっさと一人は帰って行った。
残った子は少し遅れてそのまま同じ方向を口を尖らせながら歩いていく。

なんとも情けない喧嘩である。
言い合った言葉はただ「バカ」のひとつ。

いつだったか居酒屋で、小学校のベテラン教師が「この頃の子ども達はちゃんと喧嘩しないんだよ」と話したことがある。取っ組み合いはもちろん、口喧嘩さえあまりなくなったというのだ。
それをきっかけに飲み仲間数人が、自分の子どもの頃の喧嘩について話し出した。みんな豊かな喧嘩体験を持っている。
口喧嘩についても、そういえばこんな言い方もあった、と次々と悪口、悪態の例が繰り出された。しかも出身地域がばらばらなので郷土色豊かな悪態が並び、実に面白かった。なるほどこんな悪態もあるのかと、言葉を膨らませる子どもの豊かな感性に感心したものである。(ちなみに私の覚えている悪口は「バーカ、カーバ、百貫デブ おまえのカーチャン出ーべーそ!」。言われた方は「ウチの母ちゃんは出べそなんかじゃないやい」と、こともあろうに大事なカーチャンの悪口を言うとは許せるものか、と猛烈に抗議し、時には相手にとびかかっていくことになったりもした。馬鹿→河馬→デブと繋げるが太った子に限らず、相手がやせっぽちであっても出てくる悪口で、もっとも相手を嫌がらせるのはそのカーチャンへの悪口なのである。百貫などという尺貫法の単位が、言葉の言い回しだけとはいえまだ活きて使われていたのだ。)

ひとしきりそれぞれの体験談が終ると、みな一様に「今の子はおとなしくなったのかなぁ」と言ってその教師を見た。彼は「そう、おとなしいといえばおとなしくなったといえる。でも、あの子は嫌いとかいやだとか、そんなことはしょっちゅうなんだ。だからといって真っ向から喧嘩しようとするのは少ない。陰湿なんだ。喧嘩の仕方が陰にこもってる。・・・」と話しが続いた。
聞いてる私たちも何とも寂しくなり、それこそ陰にこもってしまいそうになってしまった。

真っ向から相対する人間関係を避ける、というのが今の風潮であることは、様々な場面で実感する。それが小さな子どもにも現れ出てるとすると、暗澹とした気持ちにならざるをえない。
関係の濃密さを嫌い、バーチャルな世界へ身を浸そうとする若者はもう特殊ではなくなってきている。悪態もつかずに無言で刃物をブスリ、といった事件も増えている。

悪態といっても、むろん他者を傷つけ卑しめる悪いだけのものもあるが、ここでいうのはそうではない。悔しさ、怒りなどの感情のふくらみを思いっきり言葉として叩きつけるダイナミックな悪態、ユーモアや洒落のセンスすなわち諧謔味(かいぎゃくみ)あふれた悪態、などのことである。
日本語にはそういった悪態がいっぱいあって、人々はそれらを駆使して生活してきた。芝居の中や文学の中だけではない。落語を聞いてみるとよくそれがわかる。長屋の住人の胸のすくような歯切れのいい啖呵や、イメージ豊かな表現の悪態などに満ち満ちている。
例を挙げればきりがないし、特にあざやかな啖呵など長くなるのでやめておこう。ただ、次のような
 「あいつはぼーっとして、世の中をついでに生きてるようなやつだ」
 「おめぇみてぇなそそっかしいやつは、しまいにァ電車ン中へ体をおいてくるぜ」
などは、その人柄の一面などをニュアンス豊かに表す例であろう

相手に悪態をつくということは、実は自分の腹の底を見せることである。裸になっているのである。
それはまた、相手に対して真正面から向き合っているのであり、自分の気持ちにも正直になっているのだ。いってみればきちんとした人間関係の現われなのである。
映画「寅さん」をみると、悪態が見事にちりばめられている。寅さんとおいちゃん、寅さんとタコ社長の言い争い、つまり口喧嘩は繋がり合う関係であるが故の悪態のつきあいなのである。 
「寅さん」映画の最終作の、リリーが寅さんに向かって徹底的に悪態をならべる様は、この映画48作中の白眉といえる。それは、リリーの、本当はちっとも女心のわかっていない寅さんに対する、思いの爆発なのだ。

子ども達の間でも口喧嘩さえ少なくなるということは、互いが真っ向から向き合う人間関係を結ぼうとしない、ということになってしまう。それでは活き活きした言葉などは生れてきはしない。
今日の子どもの喧嘩の、「ばか」という一語だけの応酬に、大きな危機を感じたのである。

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