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ステートメントを考える

『君なら大丈夫かもしれないね』。そんなニュアンスの言葉を複数人の方達から頂いてスタートした新規就農。ありがたいと思う一方で、その言葉を紐解けば、この町を歩んだ産業のストーリーも朧気に垣間みれます。それに加えて僕の特異な部分を指しての言葉なのだろうとも感じ取ってしまいました。単純作業の繰り返し。農業には欠かせない作業スタイルも、度を過ぎると異質に見えたのかも知れません。僕は前職でもその作業は経験していたので、取り組み方は慣れたもの。そんな、毎日毎日、機械のように働く姿に強い違和感を感じる方もいらっしゃったと。故に『変わってるね』と言われることも少なからずあったというわけです。

思い返せば、過去にもそう言われたことは多かったです。単純作業の繰り返しを淡々とこなすことはもちろんのこと、得意不得意の差が激しいことも然り。興味の方向性も多数派とはズレることも多く、そのたびに『変わってるね』という言葉をもらってました。写真もそう。僕の視野が狭いだけかもしれませんが、写真とは伝える手段であり、自己表現のツールであり、つまりはコミュニケーションツールのひとつだと思っていました。もちろん、美を追求することが撮り手には求められていることは分かりつつも、それにおける興味の方向性は「美しいか否か」と同時に、「なぜに美しいと感じるのか」という方にも向いていたと思います。

PROVIA 100F RDPⅢ, smc PENTAX67 75mm F2.8AL, 2010年5月

それを強く思いはじめたのは、北海道の三笠市で撮影した写真からでした。その被写体はクラックの入ったエンボス形状の茶色い壁。特別な壁ではなく普遍的で何処にでもあるものです。F8.0の67中判ポジで撮られたそれは、壁のシミやエンボス形状の深さまでもが緻密に描かれていました。たしかに美しさを感じるものの、いったい何に魅せられているのか分からず、ただただ不思議な一枚。きっと、自分の満足のいく一枚は風景写真だと思っていたけれども、もしかしたらこのような壁の写真になるかもしれないと、そうまで思わせた一枚となりました。

PROVIA 100F RDPⅢ, smc PENTAX67 45mm F4, 2012年7月

その後、和歌山県の串本町にある橋杭岩を撮りましたが、この一枚も考え方を変えるものとなりました。海に浮かぶ奇岩群。それが海と空を分ける境界線となり、浜の朝焼けのシンプルな画に丁度良いエッセンスを加えます。67中判の45mmレンズはフルサイズに換算すると24mmレンズの画角と同等。海沿いの道路脇に三脚を立てると、都合よく風景がフレームに収まります。構図は上下1:1。アマプロ問わず多くの写真家に撮られたこの風景のこの構図は、悪く言えば手垢の付きまくったもの。つまりは「美しいか否か」はもちろんのこと、「なぜに美しいと感じるのか」と考える必要もなく、この写真は撮れてしまいます。それも写真の楽しみ方として間違いではなく、僕も楽しかったのですが、今後続けていきたい撮影スタイルではありませんでした。

PROVIA 100F RDPⅢ, smc PENTAX67 45mm F4, 2014年10月

「なぜに美しいと感じるのか」という問いに対しての仮説は、ふんわりとしながらも立てられていたので、その後は実証と不具合の糸口探しの撮影が続いていました。山口県の秋吉台の写真もその過程で生まれたものです。緑の大地と青い空、そして点在する白い巨岩。他には何もないので、広角のレンズを付けていても構図を工夫する際に邪魔するものはありません。仮説を利用した写真作りには適した場所だと思えました。ただ、そこでは不具合の糸口も見つけてしまいました。あまりにも美しすぎるその風景を前にすると、僕自身も普遍的な理由に引っ張られてしまうらしく、つまるところ美しいものを美しく撮影してしまうというわけです。それも僕の続けていきたい撮影スタイルとは少し違っていました。

NEOPAN 100 ACROS, smc PENTAX67 105mm F2.4, 2015年5月

仮説が正しければ、普遍的に美しさとは無縁のものも、その撮り方によっては美しさを感じることができる、はず。そう思って、大阪にある公園で階段を撮影しました。割と良い検証結果だったので、この撮影スタイルを続けたいと思った一方で、ここでも不具合が見つかりました。この写真の良し悪しを判断するには人の持つ『視点』が重要で、その視点を理解することが難しいのも人の特性。故にコミュニケーションツールとしては使い物にならなく、自己満足なものになってしまうということでした。

NEOPAN 100 ACROS, smc PENTAX67 165mm F2.8, 2016年7月

美しくないものを美しく撮影できる方法で美しいものを撮る。それが僕の最終目標に近づける方法と感じていました。それならば中途半端な自己満足にもならずに済むと。上の写真はそんなことを念頭に撮影しました。場所は十勝の牧草地帯。天気は霧。モノクロ的な風景は閲覧者の脳に何かを訴えかける力があります。写真は農園の片隅に飾っておいたのですが、お客さんや出入り業者さんからは割と高い評価を頂けました。僕は一切の説明をしなかったので、おそらく普遍的な視点で見ても良いと思える写真になり得たと思っています。一方で、僕の過去の流れ的にも満足のいく写真でしたので、今後はこのスタイルで行くことが正解だと、その時はそう思っていました。

SONY α7Ⅱ, smc PENTAX67 75mm F2.8AL, 2024年4月

その流れで被写体を選んだとき、しいたけは最適と思えました。普遍的に感想を求められれば『おいしそう』と。『かわいい』も然り。一方で良い意味で感想に困る方も多くいらっしゃいました。『美しいと言っていいですか』と。僕の仮説は科学的には検証できないものですが、皆様からの反応を見る限り、すくなくとも真実にかすっているのかもしれません。

写真を自己表現やコミュニケーションツールとして使うことが一般とされる世の中で、僕は何をやっているのだろうと。そう思っていましたが、それは僕の知識不足でした。自分のことを「変わってる人」と思っていたので、探すことを今まで疎かにしていたのだと思います。美術的には「変わってる人」ではありませんでした。

アートとは自己表現でありメッセージだと、そう誤解してました。もちろん自己表現やメッセージもアートですし、その意図で創られた作品は僕も好きです。けれども、知れば美術は学術的で探求はもとより研究の対象でもあると。それであれば僕のこれまでの歩みも「変わってる人」のものではなく、ごくごく普遍的。きっと、過去に同じテーマに取り組んできた作家さんもいるはずです。そのことが最近の中ではとてもうれしく思えました。故に今は美術史に強く興味関心が向いています。まだまだ勉強中なので語れることも無いですし、そもそも僕の認識が間違っているのかも知れませんが、ひとまずその仮説を「ステートメント」として書いてみました。すでに編集は3回入れています。

参考:Mushroom Farm Photographer

願わくば閲覧者も僕と同じ視点で見てほしい。そして多くの人に知ってほしい。そのためにはステートメントを写真と一緒に届けることが必要です。そのために今やるべきことは知識を得ること。もし、美術史に詳しい方がこの文章を読んでくれているのであれば、おすすめの書籍を何冊か教えて頂けたら嬉しく思います。

なんにせよ、興味あるものを持てることは幸せなこと。農園の運営は大変で、他のことに熱を入れる余裕なんてないのだけれども、すこし無理してでも進んで行きたいなと。

そんなことを思う今日この頃です。

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