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僕の写真の現在地

- 生命の本質 -

生命とは何か。その問いに対する答えは意図する文脈によって様々です。 科学という枠組みの中でも、その答えは変わってくるでしょう。 そう踏まえた上で物理学の観点から紐解けば、生命とは『永続性能を有した自律システム』と言い表せます。 つまり、生命とは生物の一個体ではなく、生物圏を創ることで維持されているセントラルドグマそのものと考えられます。 そのセントラルドグマの永続性は、徹底したリスクヘッジにより担保されています。 世界中のあらゆる場所まで生物個体が入り込んでいるのはこのため。多種多様な個体が存在することも然り。 そのため生命の存続を脅かす厄災が訪れても、生物個体の誰かが生き残り、生命は永続的に存在し続けるということです。 進化論では淘汰説に見られる適者生存に注目が集まりますが、淘汰の起こる前の多種多様な生物個体が同時代に存在している状態こそが生命の戦略的な本質と言えます。

種の進化が進むにつれて、生命のリスクヘッジ戦略もより多角的になりました。 人は脳が発達したため深い思慮を手に入れましたが、そこでも価値観の多様性と呼ばれるリスクヘッジを生命から担わされることになりました。 個々がお互いに共感することでヘッジが崩壊する可能性もありますが、淘汰により「すべては分かり合えない」と考える個体が残ることで維持されてることからも、 多様な価値観が生命の戦略的なリスクヘッジとして機能している可能性は高いです。 人と人との争いが無くならない理由もここにあると考えられます。

一方で、恐怖や歓喜といった普遍的な感情をもたらす価値観は、 生命のリスクヘッジ戦略のため100%ではないにしろ、人が持つ普遍的な価値観と言えるでしょう。 美しいと感じる美意識もそのひとつ。これは生命の存続以前に、生物個体の存続に必要な価値観だと考えられます。 この普遍的な価値観は多様な価値観とは違い、共感しやすく分かり合える部分も多い。 普遍的な価値観をテーマにした作品を創造する欲求も、そこから生まれていると考えられます。 背後に在るのは生命から担わされたものに対するアンチテーゼ。 つまり、生命に対する一生物個体のささやかな抵抗なのかも知れません。 そのことに自覚的な視点で眺める景色は、客観視の分だけ表現の可能性を広げてくれるものと考えています。

- 写真の本質 -

写真とは何にか。この問いに対しても人は古くから様々な角度で考えてきました。 その答えのひとつは美術史の中にあると考えられます。 すなわち、人は被写体となった現物と同じように、それが映し出された写真に対しても様々な想いを抱きます。 それは被写体と写真に同一性を感じていることになりますが、そもそも写真が発明されてから約200年。絵画が生まれてからはおよそ4.4万年。 そこへいくと人の歴史は約30万年と言われ、人属としては200万年の歴史があります。察するに人は実物と写真の区別できるほどの進化はしていないのではないでしょうか。 たしかに理性的には区別を付けられてはいるのですが、脳機能的には写真と認識しつつも、実物と同じ経路で記憶および反応していると考えられます。

脳は映像を解体した状態で記憶していると言われています。 一方で写真は撮ることを「切り取る」と表現されることが多く、それは景色の解体とも言い表せます。 すなわち脳が行う映像の解体を、写真ではすでに部分的に行われていると考えられます。 そして記憶した映像が必要になったとき、脳はその映像を再構築するのですが、 そのときに必要な断片化された映像には実物か写真か否かのデータは紐ついていない可能性が高い。 そう考えれば写真由来の記憶の入出は不可逆的であり、故に実物と写真の区別は出来ないと推測します。

そう踏まえると、写真とは眼から摂取する薬という意味で「経眼薬」とも言い表せます。 実際の景色を見ることなく、疑似的にその景色を見たときと同じ反応を得られるからです。 また、写真を経眼薬と考えたとき、その製造方法にも共通項を見出すことができます。 絵画はゼロから作り出すという意味で、合成薬と言えるでしょう。 一方で写真は自然素材から精製された「生薬」と言えます。 その精製方法は、不要なものを取り除き、必要なものを際立たせる。 そして吸収および残りやすいように調整する。 それらが「良いとされる写真」の作成方法と類似することも、写真を経眼薬と言い換えられる由縁のひとつです。

- 理(ことわり)の創痕 -

上記で述べた生命と写真の本質。 これらの仮説を検証するには、ひとつの普遍的な価値観で評価されている被写体が必要です。 その被写体を使って、別の普遍的な価値観で評価されることを狙った作品を創造します。 ここでは別の普遍的な価値観に「美しさ」を選びました。

美しいと感じることの意味を考えたとき、生物学的観点から見れば、そこには生命や種、生物個体の存続に有利に働く要因があるはずです。 ただ、それを美しいと感じるか否かは個体によって異なるので、普遍的な感覚と言えどもきわめて主観的な感覚とも言えます。

故に美しいと感じるものも、限りなく客観的に観測すれば、感覚が欠如した無機質なものと認識できるはず。 それが美しいものの本質とすれば、万物のすべてが美しいと感じられる可能性を持っていることにもなります。 そして万物は物理法則に即した現象の結果であり、それぞれが本質的な美しさの可能性を有していると。 つまり無機質な理の創痕こそが美しさの本質と考えられます。

美しさとは異なるベクトルでありつつ普遍的な価値観で評価されている被写体の「理の創痕」が強く現れている部分を訴求ポイントとして写真作品を創ります。 そして、それらに対する個々の主観的な評価と共感性を以て、美しさの本質を含めた3つの仮説の検証しつつ、それらを利用した作品を創造します。

皆様にとってここで生まれた作品群に触れることが、生命の本質を、科学、哲学、美術の観点から弁証法的に問うてみる契機にでもなれば幸いです。


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