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田中登先生の思い出

 田中登先生は、長く関西大学で教鞭を取っていらっしゃった、和歌文学と古筆の専門家でした。

 私なんかが語らなくても、お弟子さんもたくさんいらっしゃると思いますが、前の回でお名前を挙げたこともあるので、先生の思い出を書こうと思います。

 中古文学会関西部会などで、ある時期から、片桐洋一先生や山本登朗先生、田中登先生や他の先生方がいらっしゃって、特に研究発表した後など、片桐先生のいつもの講評を拝聴し(ワタシのことだからご質問に弁明なんぞしたかもしれませんが)、その後、研究会の運営やら次の発表者の手配やら、他の研究者の噂話やらに移行していきました。その辺は出る幕がなく、ただ拝聴していました。

 だから、いつから存じ上げていたのか全然覚えていないのですが、迷子の私が、中古文学会か和歌文学会の神戸女学院大学からの帰り道だったか、一緒に歩いていた田中先生に、「阪大での発表を中古文学に投稿するといい」と言われました。
 先生は背が高く、ゴツい方で、私も長身ではありますが、若干体を傾けてお話しして下さいました。あまりお話ししたことがなかったので少し驚きました。その時の記憶の背景に、駅前のコンビニやその前の白い柵、すぐ信号がありました。明るい時間帯だったので、阪大からの帰りではありません。口頭発表したら、発表者は晩の懇親会で挨拶したり、偉い先生方から講評を頂くのがきまりでした。
 推薦がないと、中古文学は載せてもらえない、と聞いていたので、大変心強かったと記憶しています。

 阪大での発表は、パワーポイントとカラーコピーを使った、「土佐日記ー和田の泊まりのあかれのところ」でした。

 その次に、お話ししたのが、立命館大学で発表した時の懇親会で、大変少人数で8人から10人ぐらいの和室で、発表者の私の右に田中登先生、向かいに当時阪大の加藤洋介先生と神戸女子大の北山円正先生が座っておられました。楽しく雑談していたのですが、主催校の先生が何か恩師に恨みでもあった(恩師への恨みを弟子で晴らす人が時々いたのですが、たぶんそれだった)のか、「今日の発表は大したことない、と言った通りだっただろう!」と嫌味をおっしゃいました。
 その後、田中登先生が、今となっては何をおっしゃったのか忘れましたが、最初は普通の声で、段々大きな声で、嫌味をどんどんおっしゃったので、私のことではなかったのですが(つまりは防護射撃だったのかも)、全然止まらないので一座は静まり返り、私はびっくりしてしまいました。

 その後、関西大学大学院に行こうか迷って、試しに聴講を申し込んだ時に、山本先生や田中先生の授業が取れなかったことを田中先生にお話しすると、「それは学部で申し込んだからで、大学院で申し込まないからですよ」と言われました。ちょうど大阪府が兼職や研究時間に管理職がうるさくなってきた時期で、ギリギリ一年聴講に行くのが精一杯で、せっかく相談に乗って頂いたのに、関西大学大学院に行くのは諦めました。

 次にお話ししたのは、電話で、関根賞受賞式に来て頂けるか、お願いした時でした。即答で行きます、とおっしゃっていただけました。しかし、当日、大変体調が良くないご様子だったので、大変申し訳なく思いました。
 当時は片桐先生がすでに脚がお悪くて全く外に出歩くことがなかったので、関根賞受賞式には、本の出版にご尽力下さった大取一馬先生、片桐先生の次代を担う伊勢物語研究者の山本登朗先生、中古文学に投稿を勧めてくださって、人生の転機を作ってくださった田中登先生をお招きしたのでした。

 その後、お話しすることはありませんでしたが、ご病気でかなり辛そうだったのに発表をされました。今風に言えば"キレッキレの" 鋭い研究発表を拝聴しました。

 あまり口数の多い方ではないようでしたし、お話しする機会も少なかったのですが、親切で温厚な優しい先生でした。
 ごくたまに、嫌味を言い出したら、普段の温厚さはどこへやら、キレッキレのご発表と同じく、キレッキレの嫌味が飛んでいましたが、まあ、納得の範囲でした。

 田中登先生の学恩に感謝し、ご冥福をお祈りいたします。

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