あの少年と比べて、俺は向き合ってないんだよな。

なんとなく早起きしてしまって、意識が朦朧である。だが本能がタバコをポケットに突っ込む。喫煙台が置いてあるコンビニへ向かう。

就職活動からも大学の授業からも逃げる決心をした自分だったが、6月の良く晴れた青空だけは励ましてくれる。妄想の後押しも手伝って、今日一日はどうやって逃げようか、と算段を立てながら一本目に火をつける。

朝のコンビニの喫煙所、外に喫煙台が置いてあるだけだ。それだけで自分の存在が認められている場所のように感じる。

近辺の工場に素材を運ぶたくさんのトラックが、モールス信号のように流れる。解読は出来ないし、なんの着想も得られないことは承知なのに眺めている。その頃で覚えているのは、そんな日々の自分を俯瞰した光景だけなのだが、唯一この日はそうでなかった。

向こう側の歩道で、工場のシャッターの前で小学生が座り込んでいた。正確に言うと、座り込んだ瞬間を見た。暑さにうなだれたのか、また別の理由からか分からないけれど、「行きたくない」というオーラを全身に出していた。
後から保護者らしき女性が後ろからやってきて少年に駆け寄っていく。

もう朝9時を超えていたから、すぐに普通には登校するのが大変な子なんだ、と勝手に解釈した。

女性が少年に寄り添って座り、シャッター前で何も言わずに少年を待つようにしていた。
多分こういった状況は何回もあって、その中で見つけた現状での最適解がそれなんだろう。
その光景が頭からどうも離れなかった。

義務教育の環境は、大昔の人が残したお節介で舗装されすぎて通る道が狭くなっている。だからどこかで順番を決めて、列を為してその道を通らなきゃならない。でもえらくそれが狭いもんだから、はじかれる奴が当然出る。通り道が広くても勝手に飛び降りる奴は一定数いるが、それを除いても、今は溢れる人が増えたように思える。

賢い人は、ある意味でこちらのことを考えてその補正をやるんだろうけど、足すばっかりで引いちゃくれない。その塩梅の調整に使われる子供はたまったもんじゃない。
今のところは、時代が進むほど道を狭める傾向が続いているから、その最先端を走ろうとする彼は相当大変なんだろう。

彼も女性も悪くない。作りに合わないというだけだ。だが彼はちゃんと悩んで、部屋から出るところまで来た。十分過ぎる。
たまたま取捨選択し難い環境だから、道の上に一瞬いないことがおかしいように見えるのだ。たまたま道の上にいる奴が石を投げることに悩んでしまう。そのことにいつか気づいて欲しいと願う。


そんな雑な思考が巡り巡ったから、煙草に三本も火をつけたのに、ろくに吸えていなかった。少し経って気づいた。道の上でなんとかいられて、進んだ先で広くなった道にいるはずの自分は、何もできずに全てを放置していた。道のせいにできない自分は、本当にろくな人間でない。


彼は悩んでいる。女性も悩んでいる。
自分は悩んだふりをしている。
どうせ道の上にいれたとしてもこんなザマだよ。だからせめて、ゆっくり、青空が青いことを一日かけて理解していたって、何の罰も下されない。
それがわかっていて欲しいと、願うしかできない自分を嫌いになりながら、煙草をポッケに入れてその場を離れた。

彼より向き合っていない自分は、どこで自分を肯定すべきだろうか。

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