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雪の中の彼女

どこかに行きたい。
ずっとどこかに行きたかった。
それが、どこかに行って消えてしまいたいという気持ちだと気がついた時には、私の希死念慮は古びたぼろ切れのようにズタズタだった。

春の日差しが暖かくなった頃、心機一転ショートカットに切りそろえた毛先が慣れないせいか顎に当たって鬱陶しかった。

大学に入り、何気ない授業で退屈していた時同郷の先輩と懇意になった。

先輩には1回生の頃から付き合っている、お淑やかそうな彼女がいて、こういう女が好きな男はきっと私を好きにならないだろうという安心感があった。

私には好きな人がいた。
彼はいろいろな趣味があって、話すことのほとんどが魅力的だった。
たくさんの本を読み、本に囲まれた家に住んでいる所も、キャンプに行ってコーヒーを入れて飲むところも、時々バイクに乗って遠出するところも新鮮で好きだったけど、
何より、考え事をする時に、少し目を伏せて眉間に皺を寄せて腕組みをして、ほとんど聞こえないくらい小さな声で唸るのが好きだった。
彼にすら聞こえてないであろう唸り声を、私が聞いて居られることに優越感を覚えた。

何となく、彼も私を好きなのではないかと思ったのは、彼と共通の友人である男の話で、私が秘密を持った時に、ほんの少し顔を歪めたからだ。

それは本当に取るに足りない会話で、彼がその場にいなかったから知らないような話だったけれど、私は話の内容に夢中になって、彼が小さな声で何?と言ったのを無意識に聴き逃していた。

いえ、今更取り繕うのも違うか。

少し意地悪をしてしまうのが私の悪癖で、最近疎遠になりかけていた彼にその話をしないでおこうという考えがあったことを認めよう。

それで、予想通り嫌な顔をしたこと、それが単に話に入れないことに対する嫌な顔をではなくて、嫉妬の混じる表情であったのを私は見逃さなかった。
それは、正直な彼が必死に何かを隠すような顔だったからすぐ分かったのだ。

それから何度かデートをした。

映画、カフェ、美術館、水族館とありがちなデートをした後、ついに恋人になれるかと思った時彼は私に言った。

『僕はアセクシャルだ』と。

これは私にとって死刑宣告だった。
女としての私への死刑宣告だったのだ。

次の日、私は確かな怒りを抱えていた。
どうしてこんなに思いが募る前に、彼が私にとってかけがえのないものになる前に言ってくれなかったのか。

私はそういうことへの欲求が強い方では無かったから、一旦は問題ないのではないかと思った。

子供は試験官でも作れる時代だ。
彼は私のことは好きだと言った。だけど自分のセクシャリティによって振り回したくないと言った。

彼は酷くずるくて、弱い人だったのだ。
私を押しのけることも出来なければ、私を受け入れる勇気もない。だから私に選べという。

それに私は怒っていた。
怒っていたけど、振り上げた拳を下ろしてしまう程度には私は彼に甘かった。

交際はそれほど困難ではなかった。
手を繋ぐことは出来なくても、花を買ってきてくれたし、私が奨めた映画は必ず見てくれた。
彼はラブストーリーが苦手だったのに、それを奨めても必ず見て、感想をくれた。
彼なりの愛情表現だと思った。

そして感謝もしていた。こんな自分を理解してくれてありがたいと何度も言っていた。

でも、私はすり減って行った。
彼がどうした訳では無い。
彼に触れたいと思う度、自分が汚い人間のような気持ちになった。思春期に捨て去ったはずの女性としての欲求に対する嫌悪感を、思い出していた。

徐々に、自分を汚い人のように思うようになった。彼はこんなに綺麗なのに、私は汚い。

付き合いが長くなるにつれて、話す回数が減った。それはあまりにも暑い夏に堪えきれず、足元のコンクリートが柔らかく歪んで地中に落ちていくような感覚を伴って私の息を止めた。
上手く息が出来なかった。
そして、私がすこしでも女性らしく振る舞うと、彼はそれを嫌悪しているように思った。

それは、あまりにも考えすぎだったのかもしれないけど、買ってプレゼントしたシャツがクシャクシャに丸まってベッドの横に落ちているのをみて、自分みたいだと思ったらもう、頭の中の疑念の声は止まってくれない。

先輩には、彼が浮気をしていると言った。
彼の秘密をばらす訳にはいかない。
けれど、自分の抱える問題についてその一欠片も誰にも言わなければ自分が壊れてしまうと思ったからだ。

その日は、先輩が初めて夜に居酒屋で話をしようと言ってきて、私は奥に仕舞いこんでいた背中が大きく空いたニットを取り出した。

先輩と話しながら、やっぱりこの人は私のことが好きじゃない。好きになることなんてない。だからこれは裏切りじゃない。
今日のために強くはね上げたアイラインは、彼には嫌がられる女らしさを保っていて、これを崩さない為に私は涙を堪えていられる。

先輩は言った。計画があると。
私はそれに乗った。女としての私が死んでも、私として彼が愛してくれるなら一生それを殺しても良いと思った。

瞬く間にキャンパス内な広がったウワサは、煙程度のもので、確実性はなかった。当たり前だ。火がないのだから。

私は彼の反応を伺った。
まだ、彼が私の交友関係に嫉妬を覚えるのか知りたかった。それが彼が私に好意を抱いているか確かめる唯一の方法だと思った。

彼は目を伏せて、眉間に皺を寄せて、腕を組んで、微かに唸った。

私の一番好きな彼に向かって言った。 

『何か文句があるなら、キスしてみてよ。』

その言葉に彼はうんざりしたような顔をして、君も他の女と同じだったのかと残念そうにしていた。

私は精一杯悪女になった。
ありもしない、想像でしかない夜の話を軽い女を装って話して聞かせた。
そのほとんどの相手が、想像の中では彼だったのが我ながら虚しかった。

彼の家を締め出され、歩いていたヒールが折れて裸足で電車に乗った。終電間近の電車の中は空いていて私が目の周りを真っ黒にしても何も言う人はいなかった。

先輩の計画は上手くいったのだろうか。

私の計画は上手くいかなかった。
彼は、私への愛をもう持っていない。それは確かなことなのだ。彼にとって私はその他大勢になる。彼の抱える問題について、理解しなかった1人として彼の歴史に残るのだ。

それでいいと思った。きっと彼の歴史の中で1番悪い女だったことには違いない。キズだとしても残っていたいと思った。

夜間に泣いたら迷惑になると思い、落ち着くまで近所の公園で、待った。1時間くらい経って疲れきってから家に帰った。

だから、家に着いて、彼のバイクがと停まっていた時は目の前の光景に理解が追いつかなかった。

家の前で子供のようにうずくまった彼は、誠心誠意謝った。この期に及んで自分の見た目を取り繕おうとする自分にガッカリしながら、とりあえず部屋に上がるように言って、立たせる。

『僕はずるくて弱いけど、そんなに馬鹿では無いよ』

彼はそう言って、私達は別れた。
もう好きじゃないと言って別れるなんて自分にはないと思っていたという彼が、少し喜んでいるように思って腹が立ったけど、微笑ましいと思ってしまう自分が嫌だった。

とにかく疲れていたからその日は眠って、次の日帰る彼を見送ることはしなかった。

眠っている間にどうか帰っていてくれるようにと祈りながら、私はオムライスの夢を見ていた。

泣きながらオムライスを食べれば、私はもっと素敵になれると思って胸の奥がワクワクした。

目が覚めたらとびきり美味しい卵を買いに行こう。

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