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『枠組み外し』の一年

竹端寛『枠組み外しの旅』(青灯社、2012)を読んだ。

 昨日書いたnoteがほぼこの枠組み外しの経験だったのでびっくり。なんてタイムリーなんだ。

「枠組み外し」とは何か、私達が「当たり前の前提」としている「変えられない」と思い込んでいる「常識」「暗黙の前提」そのものを疑うことである。──『枠組み外しの旅』はじめに

 去年の同僚への気持ちの変化はまさに「枠組み外し」だった。相手が100%悪者か、それとも自分のとらえ方が間違っているのか。どちらかに違いないと思い込んだことからの脱却だった。
 そして昨日書いた時点では忘れていたけど、私が自力で「枠組み外し」をしたわけではなくて、同じ時期に『中動態の世界』を読んだことがきっかけだった。これこそ、私に自分の世界が一変する体験をもたらした本だ。

 能動か受動か、この世界にはその2択しかないと思っていた。ただ、自分で自分のことをコントロールできないものだとも感じていて、その状態を説明してくれるのではと期待して『中動態の世界』を読み始めた。
 結果は、読み終わってすぐに読書メーターにも書いたけど、まさに「する/される」の世界にとらわれていた自分に気づかされた。昔はもっとそう明確に分かれるものではないとわかったうえで言葉は作られていたのに、気が付いたら「する/される」にとらわれるようになっていたことにとても驚いた。ある意味、自分で自分をコントロールできない部分があることは当然だともわかって安心したし、つまり悪者に仕立て上げたい元同僚も、自身をコントロールできなかったのか、とも思い至った。
 私が昔悩んでいたことは、私と元同僚の関係性から生まれた問題だった。私にも相手にもそうなった要因はあれど、どちらが悪いとは言えない。もし問題が発生していた当時、そのことに気づけていれば結果は違ったんだろうけど、私も相手も気づかなかったのだから、そういう意味では同じアナのムジナだろう。

 元同僚との問題だけではなく、「中動態」の存在は私を、自分のすべてをちゃんとコントロールしなければならない幻想から解き放った。前から少しずつ、自分だってままならないわとわかってはいたんだけど、めちゃくちゃ安心した。だって、近代以前?の世界ではそれが普通だと思われてたってことでしょう? だから言葉で使われてたんでしょう? なーんて。
 今思えば、コントロールしなければならない幻想、が、それこそ「常識」として気づいたら枠にはめられてた結果だったんだなと思えたのが大きかった。去年の時点ではわかった感じそのものの意味までは考えてなかったんだけど、まさか、今年になってわかった感じ自体の説明に出会うとは思わなかった。本当にびっくりした。

 気が付いたんだけど、この1年は「枠組み外し」の1年だった。
 続かないと思い込んでいた運動が細々と続くようになったり、頼っちゃいけないと思い込んでいた点で人に頼れるようになったり……。noteに書いたはまれることを避けていたこともそうだし。
 コロナ禍になって友達とすごく話すようになって、返っていろいろ気づいたなぁとは思っていたけど、その事象に呼び名を付けるなら、確かにピッタリだ。最近、これ今ならめっちゃわかる!!みたいに、タイミングよく本を読むパターンが多いのでそういう意味でも面白い。前だったら頭ではわかっても体感ではピンと来てなさそうだもんなぁ…。

 あと自分が面白いなと思う物語もわりと「枠組み外し」がポイントな感じだなー!! 「常識」を常識と捉えないこと、「常識」ではないと気づく過程、もうめっっっっっっちゃ! 大好物です……。

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