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思えば、誰かを妬んでばかりだった

どうも、一休誰絵です。今日も今日とて、ちょっとした鬱記事を書いていきます。

先日、「映画を早送りで観る人たち」という新書を読みました。その読書記録をつけるのはまたの機会にしたいと思います。

今回は、この書籍で出てきた内容から、少し自分ごととして話を落とし込んでいこうと思います。

この「映画を早送りで観る人たち」では、同世代の活躍をSNSでみて、自己嫌悪に陥るZ世代が多い、ということを言及されていました。
確かに、ちょっと可愛く撮れた自撮り写真を上げた同世代を見て「なぜ私はかわいくないのだろうか」とか、就活垢で「🧵😘内定なんかもらっていた」(ちなみに、絵文字の意味は伊藤忠商事)みたいなマウンティングを見て「どうして私はまだ内定をもらっていないのに…」のような感情を持ってしまいがちです。

はっきり言ってしまえば、なんらかの日本代表(あるいは自分がすむ都道府県でトップレベルの美貌または能力を備えた人たち?)と自分を、簡単に比べやすくなる環境圏(すなわちSNSが身近にあること)にいるのが私たちZ世代の現状ではあるのです。

思えば、誰かを妬んでばかりだった

タイトルそのままなのですが、小さい頃から、自分は誰かを妬んでばかりの生活を送っていました。
私と妹が幼い頃には、一緒の習い事をしていて、やけに妹の方が褒められたりしていました。自分なりに努力はしていましたが…

また、受験においても、「この勉強をしたから、〇〇大学の〇〇学部に入る!」と意気込んで結局浪人をしてもその目標には届かないどころか、全く違う学科に入ってしまったり。これも自分としてはかなり努力をしていたのですが…
そんな時に、うまく自分の目標を達成してうまいこと自分がやりたいと思う勉強をしている同窓生を見てしまいます。ああ羨ましいな、とかと単純に羨望の眼差しを向けると同時に、叶えられなかった自分に対する嫌悪感も強まっていきます。毒だと分かっているのに、まるで自分の傷を塩で塗るよう。どんどん擦り込んでしまうのです。

そうそう、最近は自分の母校の同窓生会報が届きまして、パラパラとめくってみたのですが、OBOGの方々は輝かしい経歴ばかり。これもその方本人の努力の結晶体となっているだけなのですが、まだ社会に出ていない私からしても、「羨ましいな」と思ってしまうのです。

いくらやりたいことをしよう!と思って努力したとしても、所詮才能のある人には敵わない。そう言ってしまうと、先代の成功者から「何言ってんだ馬鹿者!最近の若者はー」なんて後ろから頭を殴られそうです。

ですが、再び目標を立てたとして、「達成は難しい」というのが私の心の中でデフォルトになってしまっています。そして、私の代わりに夢や目標を叶えた人に対して、再び誰かを羨んでしまう。

昔の人たちって、妬みに対してはどのように向き合ってきたのだろうか。
そもそも、今の時代が新しすぎて、「誰かを妬む」という概念がこれまでなかったのだろうか。それとも、妬む回数が今ほど多くはなかったのだろうか。

今の若者には、大きな夢がないとは言うけれど

そうそう、話をあの新書に戻すと、今の若者には「やりたいことをやるリスクが取れなくなってきている。失敗したら生活が保障されない」といった記載があったようななかったような気がします。

実は、やりたいことがあって…だけどリスクを取ることが即ち命取りになってしまうから、というのがある気がします。一概に「最近の若者はー」と言ってはいけない事情を抱えているものです。物理的に。

そして、精神的にも、おそらく「失敗して別の道を行ってしまったら、多分自分の代わりに夢を叶えた誰かを妬んでしまう。そんな自分にはなりたくない」といった理由もある気がします。少なくとも、私はその1人。

だからこそ、もう少しだけ、考えてみて欲しかったりします。

たまには自分の成果に対して、誰かに報告したりするだけでなく、独り占めして「うっしっし」と充足感を覚える時間を持ってもいいのではないでしょうか。誰かに褒められたくて成果を出した、というわけではないのならなおさら。人よりちょっとお金を稼いだら、誰かにみせびらかすのも悪くはないのですが、ひとり通帳を見て、金額印字部分をなでなでする時間を持っていいと思います。
1人で喜ぶ時間も、大切だと思います。だれかのためにも。

そこまで考えてられねぇよ、と思われたら、まあこれも人の意見なのでね、仕方ありません。あまちゃんだと思われても仕方はありません。どう思われようが自由です。

ちょっと鬱記事をお送りしました、ちゃんちゃん。


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