見出し画像

留学思い出話〜初めての愛車

'95年の9月にコロラド州デュランゴという町で大学生活がスタートした。

最初の1年は学校の寮に入っていたのだが、修了後すぐ、仲良くしていた同期の日本人で数学専攻のTちゃんと町でアパートを借り、一緒に住む事になった。そして、2年目からはしばらくバスで学校まで通うことにした。

学校は山の上、町は麓にある。町の標高は1,988メートル(Wikipediaより)。アスリートが高地トレーニングするような場所で、町から大学への道のりは、近いけど急勾配の坂を登るか、長い緩やかな坂の登るかの2択。
急勾配の坂のスタート地点は、(暗黙の了解的な)学生専用のヒッチハイクスポットになっていて、バスに乗り遅れた時はそこから何度かヒッチハイクしたりもした。

だが、その生活にすぐ不便を感じ始めた。
バスの運行時間は夕方まで、しかも1時間に2本程度しか無かった。一旦アパートに帰ってしまうと、そこから再び学校に戻るのは大変だ。
図書館で調べものや勉強しなきゃならない時もあるし、それより何より私は学校の練習室にピアノを練習しに行かなくてはならなかった。
先生から「あなたは教育学科じゃなくて演奏科なんだから、彼らよりずっとたくさん練習する必要がある。1日4時間は練習しなさい。」と言われていた。総合大学なので、もちろん一般教養も他の学部生と同様に取らなければならず、それだけでも結構ボリューミーなのだが、さらにピアノ4時間となると、どうしても夜に練習に行かなくてはならなかった。
それを電話で親と相談し、なんとか車を買うことを許してもらった。うちは両親とも運転しない人だったので、家族では私が初めて。しかもいきなりアメリカで免許を取り、車を購入するという…それは心配だったろうと思う。

免許はすぐ取れると聞いていたので、穏やかで面倒見の良い先輩に頼み込んで、何日か先輩の車で夜中に運転の練習をさせてもらった。慣れてきたところで、早速試験を受けに行った。
筆記試験は選択式で、辞書を見てもOKだったと記憶している。30問くらいだろうか…7問まで間違えて大丈夫とかそんな感じだったと思う。確か2回めで受かった。
その後すぐ実技試験。その先輩の車で、助手席に試験官を乗せ、踏み切り1箇所を含め町をぐるりと1周。
あっけなく終わり、無事合格。
すぐに免許証を発行されて、20ドルくらいだった。(田舎の小さな町だし、20年以上前の話なので、現在の参考にはならない。)

免許が取れたら、次は車だ。地元新聞のクラシファイドで「車売ります」の欄をチェックする。日本では値段がつかないと言われそうな中古車が、アメリカでは車検が無いからとかで結構な値がする。
初心者なので、小型の日本車で10万程度で探していた。見つけたのは、'88年製のトヨタカローラ ハッチバック…確か1,200ドルくらい。'95年当時1ドル約100円で計算していたので、まあまあ予算にも合っていた。
車の知識が全くないのに、いきなり売主のところに行くのも怖かったので、実年齢より上に見えるナバホ(ネイティブ・アメリカン)の学生をアドバイザーに紹介してもらい、付き添ってもらうことにした。私は足が無いので、その人が車で売主さんのところへ連れて行ってくれて、一緒に現物を見て、エンジン動作なども確認してもらい、「大丈夫!」とのことで、購入を決めた。
そして数日後、ついに私の相棒がアパートに納車された。
(ナンバープレートをもらいに警察署に行った時、周辺の駐車場が空いておらず、見つけた!と思って停めたところがパトカー専用で、車で出かけた初日にいきなり駐禁を取られたのはご愛嬌。笑)

写真が無くて借り物だが、こちらと同じ車↓

トヨタ・カローラFX
(https://gazoo.com/info/attribute/ より)

そのまんまだが、"カローラくん"と呼び、彼とは約3年半共にし、色んな思い出がある。

学校の行き帰りはもちろんだが、隣のニューメキシコ州へは良く行った。最初は片道1時間くらいのファーミントンという町へ練習がてらよく行っていたし、その町には地元のオーケストラのお手伝いに行く時もあった。
ルームメイトのTちゃんが夏休み中に免許と車をGETすると、どちらかの車でニューメキシコの州都アルバカーキ(たまにサンタ・フェ)までよく遊びに行っていた。そこまで行かないと大きなショッピングモールや日本食レストランがなかった。片道約4時間だから結構きつい日帰りだったが、全然平気だった。

初めての冬、アパートから出ようとするとバッテリーが上がっていたことがあった。それも初めての経験だったのでブースターケーブルなるものの存在を知らなかった。駐車スペースであたふたしていたら、通りがかりのピックアップトラックの男性が、ケーブルを繋いでエンジンをかけてくれた。「このまましばらく走っておいで」と言われ、小一時間周辺を走り、事なきを得た。
だが、その後も度々バッテリー上がる問題は起こったので、バッテリー自体がダメになってるのかもしれないと思い、ウォルマート(ホームセンター)でバッテリーを買ってきて自分で交換してみた。元々入ってたバッテリーは明らかにサイズが小さくて、どうやら車用のバッテリーではなかったかもしれなかった。笑

また別の年の冬休み、私はいつものように学校の練習室に向かうため急な方の坂を登っていたのだが、雪が降り始めており、急カーブでスリップして山側に頭から突っ込んでしまった。カーブ外側に滑ってたらガードレールがないのでそのまま落ちていたと思うが、ゆっくりゆっくりと(←その時の体感)内側に突っ込んで、溝にタイヤがハマり立ち往生した。
休み中だったためなかなか車が通らず、当時は携帯も無い。しばらく「どうしよう…」と途方に暮れていた。最初に通りがかった車は「学校のセキュリティに連絡してあげる!!」って言って去って行ったが、セキュリティの人は来る気配がなかった。次に偶然通りかかった四駆の大きな車が神だった。手際良く私のカローラくんのお尻にロープをつけて引っ張り上げてくれた。車社会で生きてるってこういうことなんだな…と、その親切極まりない見知らぬ四駆の運転手さんにとにかく感謝しかなかった。

ニューメキシコへ向かう真夏のハイウェイでタイヤが派手にバーストしたこともあった。スペアタイヤに交換するのだってやってたことがない。手間取っていたところ、通りがかったパトロール中のポリスがスペアタイヤに交換してくれた。「ネジが溶けてダメになってるからちゃんと交換してもらって」と言われ、最寄りの町のガススタンドで修理してもらった。
度々見知らぬ人々の親切に助けられてアメリカ生活を過ごしていた。本当に感謝しかない。

古い車なので定期的に点検に行き、アラインメントしてもらったりしても、信号で止まる度にエンストするようになったし、いつからかガスメーターの目盛りも壊れて、ガソリンを満タンに入れても半分までしか目盛りが上がらなくなったりした。なので1度ガソリンを入れるタイミングを完全に見失い、ガス欠で学校帰りの坂の途中で乗り捨てたこともある。度重なるエンストはさすがに迷惑になるので、何度も説明してきちんと直してもらった。

その後、私のカローラくんと同期の仲間の車と2台で、ラスベガスまで行ったこともあった。
同じ留学機関からアイダホの大学に行った友人がラスベガスの大学に転入したというので、観光を兼ねてみんなで会いに行ったのだ。
片道約9時間。それぞれの車に3人ずつで運転をローテーションした。途中大雨にあったり、長すぎる直線で我々2台で追い越し合戦になったり(←危険すぎるのでマネしないように!)しながら、無事ラスベガスに着く。
久しぶりの友人との再会でひとしきり盛り上がった後、男の子たちはそのままカジノへ、私たちはその友人とレストランで延々とおしゃべりが尽きない。結局誰も一睡もしてないまま、またデュランゴへ帰る事になった。
3時間ずつ3人で運転を交代しながら仮眠を挟みつつ限界ギリギリで無事帰り着いた。
誰に言っても怒られそうな若さゆえの無謀な旅だったが、めちゃくちゃ楽しかった。
そしてカローラくんがその無謀な旅を無事走り切ってくれて、さらに愛おしくなった。(そこから私はトヨタの車に全幅の信頼を寄せている。)


デュランゴでの生活の終盤、私は卒業後ボストンの学校に移るまでの半年間デュランゴに留まっていたのだが、その期間中、とある週末のよく晴れた昼下がり、学校の練習室に向かう途中で酒気帯び運転の車に追突された。
右折するウインカーを出して曲がろうとしていたのに、右側から私を追い抜こうとしてぶつかってきた。相手は私が左折のウインカーを出していたと言ってきたが、その人からはお酒の臭いがしていた。近くにピザ屋とコインランドリーがあったので目撃者もいたかもしれないのだが、とにかく初めてのもらい事故に気が動転していた。警察を呼べば、相手は酒気帯び運転で捕まってたかもしれないのに、、相手に言われるがまま、互いの連絡先を交換し、後は保険会社に任せることになった。
後日、相手の保険会社から書類が届いた。ヘッドライトが壊れたとかあれこれの見積もりで結構な額を請求してきた。だが、私のカローラくんはもっと重症で、助手席側のドアが開かないくらい潰されてしまった。相手の酒の臭いも黙って置けなかったので、私も車修理会社に行ってドア修理諸々の見積もりと酒の臭いがした旨を懇懇と保険会社の書類に書き綴り提出、示談に持ち込んだ。
それでも少し消化不良ではあったが、私もまもなくデュランゴを離れるし、車も手放さなければならなかったのでそれで良しとした。


助手席のドアが開かなくなってしまったが、走る方は問題無い。最後に大怪我させてしまってとても不憫だったのだが、私のやんちゃすぎる運転に最後まで付き合ってくれて、そして私を無事に守り続けてくれたカローラくんに心から感謝して、新1年生の日本人の男の子に格安で譲った。続けて乗ってくれたその彼にも感謝だ。



日本に帰国後、私は外国免許切り替えで国内の免許を取り、同じタイミングで母が猛烈に頑張って60才近くで初めて免許を取った。実家にはカローラのセダンがやってきた。
だが、私はセダンの大きさ、日本の混んだ狭い道、狭い車庫、立体駐車場、複雑な高速道路、全てが怖くて、ごくごく近所しか運転できなかった。
数年前、両親が他界し実家を処分したタイミングでその車も手放し、現在は完全なペーパードライバーである。。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?