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2023年上半期の国内文芸を振り返る! 第169回直木賞候補作予想〜!

 ごきげんよう、あわいゆきです。

 いよいよ芥川賞・直木賞の候補作発表が近づいてまいりました!
 半期に一度の候補作発表を人生の楽しみにしながら生きている私にとって、芥川賞と同様、直木賞の候補作発表はお祭りのようなものです。ドキドキしながら朝5時にTwitterを更新しまくって待機しています。

 あまりにドキドキしすぎて待ちきれないので、今回は2023年上半期に刊行された国内の小説を振り返っていきます!
 ……といってもそれだと範囲が広すぎるので、「直木賞未受賞作家の単行本小説」に絞ります! とどのつまり、直木賞路線で候補に上がるかもしれない作品を紹介していく、って感じですね。
記事の最後には個人的な直木賞の候補作予想も記しています。今回もあまり数を読めていないのですが、直木賞を心待ちにする一助になればと思います!


 なお、予想には私の主観と個人的な趣味嗜好が多分に混ざっています。あくまでも一個人の考えということで、なにとぞご理解いただけると幸いです。

 はじめに下半期の注目作品を振り返り、最後に予想を書いていきます。予想だけ読みたい方は目次からジャンプしていただけると幸いです!

振り返り

豊作だった時代小説の数々

 上半期は比較的、時代小説に注目作が集まっていました。

 なかでも最注目は、山本周五郎賞を受賞した永井紗耶子さんの『木挽町のあだ討ち』(新潮社)でしょう。 かつて木挽町で起きた「あだ討ち」の動機を追っていくオーソドックスな連作ミステリながら、江戸に暮らすあらゆる身分の人々が軽妙な語り口で背景を語り、それがひとつの大きな「騙り」となっていく点に物語の面白さがありました。
 同時に、世の中の不条理や矛盾をしなやかに受け止める人々のすがたを通じて、当時特権を有していた「武士」のあるべき生きざまの再問いかけもされていきます。 その象徴に「あだ討ち」の対象を見定める視線があり、マジョリティ/マイノリティがどう社会と対峙していくかを描いた物語にも読めるようになっていました。
 うまく現代と接続させながら時代性も感じさせる、手慣れた時代ミステリです。


 そして並び立つ注目作がもう一作、砂原浩太朗さんの『藩邸左配役日日控』(文藝春秋)。神宮寺藩の江戸藩邸にて「なんでも屋」と揶揄される五郎兵衛が数々の事件を解決していく連作短編です。
 時代の匂いを醸し出す、熟達した文章は相変わらず読ませます。終盤の伏線回収も手慣れていて、登場人物の言動に抱いていた違和感もきれいに払拭されるようになっていました。「わけあり」な人間たちが居場所を探す物語としてもきれいです。
 すでに熟した作家が上梓している作品のような貫禄があり、安定しているな〜〜となるばかりで新鮮味に欠けるのはある(特に連作短編の形式だと短編一つひとつである程度まとまっているので全体の起伏が小さくなり、静謐さがより前面に出る)のですが、すでに直木賞をとっていてもおかしくない貫禄を感じさせるだけに、まず候補には選ばれそうです。


 また、同じく静謐さを感じさせたのは松下隆一さんの『侠』(講談社)です。 義理人情に厚い蕎麦屋の男が「命」を張って博奕に臨もうとする物語は、登場人物の情報と展開が巧みに整理されており、多くないページ数ながら読み応えがあります。
 博奕という「命」を俎上にのせる場所と、飢饉などであっさり「命」を切り捨てていく社会の無情さを重ねて、「命」の重量を決めるのはいったい誰なのか? と生き残ってしまっている者たちに(あるいはいま生きている読者に) 問いかけていきます。複雑な言葉を使わずストレートに投げかけてくるので、〈侠〉的な粋を感じ、物語とも噛み合っていました。 希死念慮を抱えている人物たちも多く登場するなか、その「命」を自暴自棄に扱うのではなく、「生きておくれ」と希うようになるまでの流れもきれいです。
 砂原浩太朗さんの作品からエンタメ要素(ミステリやチャンバラ)を削って人情ドラマを強調したらこうなりそう、といった趣で、構成や文章の丁寧さ、物語全体に漂う潔癖さは一致しています。

 そして上半期最大の労作とも言えるのが垣根涼介さんの『極楽征夷大将軍』(文藝春秋)。540ページ二段組の特大ボリュームで、足利尊氏・直義兄弟の一生を描いていきます。
 おそらく『太平記』をベースにしながら最新研究に基づいて再解釈や脚色が施されており、特に面白いのが、足利尊氏の内面を〈虚無〉として捉えて周囲人物の視点から彼の異様さを書き記していく点です。尊氏の内面をひた隠しにすることで、現代においても評価の分かれる彼をいっそう底の見えない存在に昇華させていました。
 足利兄弟の無欲さと対比して置かれる後醍醐天皇・護良親王の強欲さ、あるいは直義と高師直の志をともにしながらすれ違っていく関係性の機微も丁寧に描かれていて、鎌倉末期から南北朝時代の流れを丁寧に追うことができる佳品です。


 そして佐藤雫さんの『白蕾記』(KADOKAWA)にも注目。 緒方洪庵の妻・八重を中心に洪庵の周辺人物の視点から、「疱瘡」を予防しようとする者たちの闘いの姿を描いきていきます。
 疱瘡を予防するべく「牛痘種痘」の予防接種に尽力するさまは、言うまでもなく現代におけるコロナウイルスとワクチンの関係に言い換えられるものですが、「死」と隣接したテーマを損なうことなく、青春小説のような爽やかさを醸しているのが魅力です。未知の牛痘に対して蔓延る事実無根の噂に苦しめられつつも、「医師」としてなにができるかを追求していく姿勢は現代でも通用するものでしょう。着眼点には目を見張るものがあります。
 そして「医師」としての姿勢だけではなく、妻としてなにができるか、町医者としてどうするべきか、医師自体に関心がなくてもできることはあるか、と「牛痘種痘」に対するさまざまな感情が描かれるのも医療小説として味を出していました。
 語り手を務める登場人物が情に厚い人間ばかりで(基本的に善く描かれる)、適塾を営む緒方夫妻や女中である小夏のアットホームな雰囲気も相まって、読んでいて気持ちのいい作品です。


 また、上の作品群から幾分か時代を経たものとしては上田早夕里さんの『上海灯蛾』(双葉社)があります。 日中戦争〜終戦前後の上海を舞台に、史実に存在する秘密結社「青幇」とかかわる人間たちを描く本作は、以前に直木賞候補にもなった『破滅の王』から続く〈戦時上海・三部作〉の最終章。 灯に群がる蛾のように惑わされて人生を踏み外していく人間たちと、不自由な社会で「自由」を追い求める姿勢には読ませるものがありました。
 物語のメインを張る主人公・次郎が日本人青年であるため、中国組織である「青幇」のそばで金を稼ごうとすると、〈日本人〉という立場が偏見および差別を招きます。 それを回避するために次郎は中国人名を偽名で用いるのですが、当然そうした背景下に安息はありません。次郎は誰も深く信用しようとせず慎重に振る舞いながらマフィアや軍の狭間を生き延びていく……にもかかわらず、次第に人間の道を外れていく。そこに人間味を感じ取れます。
 ヒロイン的立場のユキヱや相棒の楊直もキャラが立っており、人物造型が特に魅力的な作品でした。

ほかにも、武内涼さんの『厳島』(新潮社)は、とても真面目な歴史小説。 毛利家が後の300年にわたる礎を築くきっかけとなった「厳島の戦い」の顛末を、歴史書を引用しながら忠実になぞっていきます。
「負ける側(陶晴賢軍)」の軍師でもある弘中隆兼を共感しやすい語り手に据えることで、毛利元就のダークヒーロー的な側面を際立たせているのが印象的でした。 心のつながりの脆さを知っているからこそ、家臣には結束を説いて敵の脆さを突っつく、その生きかたには恐ろしいものがあります。
 

現代を描いたドラマ

 もちろん歴史を辿るのではなく、現代を描いている作品も多くありました。

 なかでも世相を的確に切り取っていたのは、柚木麻子さんの『オール・ノット』(講談社)でしょう。詳しい紹介は以前『小説現代』さんに書評を寄せているのでそちらに譲りますが、作者の柚木さんがこれまで描いてきた「シスターフッド」を改めて見つめ直す内容となっています。
 苦学生の真央がアルバイト先でおばさんの四葉と出会い、二人で共闘して社会に立ち向かっていく過程と、その先にある「人生を好転させられなかった」挫折。もし連帯していてもどうしようもならないような無力さを突きつけられたとき、私たちはどうすればいいのか?
 その問いかけを投じて改めて見えてくるのは、連帯することの本質が何を分かち合うのかではなく、誰と分かち合うか、である事実です。連帯していくことの意味を初心に戻って考えていく姿勢は、「シスターフッド」という言葉が多くの場所で目に留まるようになったいまだからこそ必要なものでしょう。


 また、社会的に恵まれた側の人間が何かを施すときに発生する歪な優位性と、「見返りを求める」感情の拗れを描いた作品には、寺地はるなさんの『白ゆき紅ばら』(光文社)もありました。 養護施設とも異なる、歪なかたちをした「のばらのいえ」で育った祐希が、かつて一緒に暮らしていた紘果を「のばらのいえ」から自立させようとします。
 本作ではケアをめぐる歪な構造が「のばらのいえ」に詰め込まれており、“施されている”人々のあいだにもヒエラルキーを形成させている設定が面白いです。実の子どもとして育てられている祐希たちと、身寄りがなくやってきた人間のあいだには『育ち』で括れない断絶があります。
 また、これまで寺地さんが多く描いてきた「先天的な障がいを抱えた人物が社会から受ける迫害と寄り添い方」は今回は主題にあがらず、該当する人物はあくまでも「のばらのいえ」に暮らすひとりの人間として描かれていました。これまで描いてきたテーマに寄せていかないのは、ヤングケアラーを強制されている祐希に保をケアするほどの余裕がないからでしょう。
 社会的弱者の内側でもヒエラルキーが形成されている「のばらのいえ」で適切なカウンセリングを受けられないまま育っていく事実は、意思疎通の難しい障がいを抱えた人間が自助することの難しさ、ケアにおいても後回しにされてしまう残酷な現実を示してもいました(事実、祐希が家を出ようとするときも紘加を引き連れようとしながら、立場的に同じはずの保を救おうとする発想はない。むしろケアをする煩わしさに殺意を抱く)。
著者の新たな代表作となるのではないでしょうか。

女性の連帯を描いている作品だと、砂村かいりさんの『黒蝶貝のピアス』(東京創元社)も良い作品でした。 アイドルになりたかった女性とアイドルをやめた女性が社員/社長の関係で出会い、各々が「視野の狭さ」を自覚しながらも、社会を生きていこうとするシスターフッドです。
 社会のすべてを見通そうとしても、そもそも人間には限界があります。本作では自らの言動の矛盾だったり他者への無理解だったり、どうしたって突きつけられる「視野の狭さ」をあらゆるエピソードを通じて、多角的に掘り下げていくのです。
 一方で、狭い視界から光るものを見つけ出す、「気づき」のようなものが小物であるピアス(をはじめとする)モチーフに託されてもいました。コロナ禍に備えてマスクを買う、というエピローグも、物語を重ねたすえに「視野の広さ」を獲得した、その象徴としても読めます。
 それぞれの人生に絡んでくる男性は二人とも癖がつよく、最後まで匿名のまま異物感を与える「猿丸」のような存在もアクセントを効かせていて、細部のエピソードや人物像の作り込みが光る小説でした。


 また、山本周五郎賞の候補作にも選ばれた吉川トリコさんの『あわのまにまに』(KADOKAWA)にも注目です。 とある家族を軸に半世紀を辿っていく連作短編集ですが、短編の章が進むごとに時間を“遡って”いくところが特徴的でしょう。
 時代を遡っていくと当然、世相を覆っている価値観は古いものとなっていきます。物語的には家系図が展開されていってスケールの「広がり」を見せていくのに、次第に露わになっていく価値観の「窮屈さ」はむしろ物語に狭苦しさを与えていて、そのアンビバレントな感覚は面白く読めます。 また、その窮屈さは、描いている年代が1970~80年代だとしても現代に通ずるものとして読めるようになっていました。
「子どもをつくったあとに性的なカミングアウトを行うことに対する責任」は現代でも似た内容が議論を呼んでいるし、「弱さによる支配」はケアの文脈を多分に有しています。そうした価値観の「受け入れられなさ」は、時代を遡行することでより効果的に写し取られるようになっており、非常に意欲的な作品です。
 世間に多くはない交際関係の機微を描きながら、大きい物語の断片が少しずつ結ばれていってひとつの像をつくる、ミステリー的な作品としても読めるでしょう。


 そして、「コロナ禍」における情勢を的確に掬い取った作品には染井為人さんの『滅茶苦茶』(講談社)がありました。コロナウイルスが流行するなか、感染していないにもかかわらず道を踏み外してしまう3人の男女が主役です。全国的に仕事がリモートになり、お店に閑古鳥がなき、学校がなくなるなかで精神のバランスが崩れ、取り返しのいかない方向に引っ張られていくさまには思わず共感してしまうものがあります。
 タイトル通り「滅茶苦茶」になっていく展開は先が読めず、どう着地するのか最後まで読めないエンタメミステリです。

 コロナ禍を逃れられないもの、として描いている点では、清水裕貴さんの『海は地下室に眠る』(KADOKAWA)も同様でしょう。 洋館の地下室から見つかった「作者不明の絵画」。過去の記録を探していくうちに絵画に秘められた過去が明らかになり、そこに込められた意味の再解釈を試みていきます。記録/記憶を通じた過去の分解と再構築がテーマ。
 芸術をする人間に襲いかかる回避不能な困難を第二次世界大戦/新型コロナウイルスにそれぞれ重ねつつ、反復しながら語っていくことで乗り越えようとする、その物語構成が興味深いです。
 文章がやはり上手で、現実からふと乖離しているような感覚をもたらす筆致もさすが。そのためどこか幻想めいた小説を読んでいる気分にさせられる一方、明らかにリアリズムから離れている描写は今回見られません。
 それでも非現実めいたものを(現実に起きた災厄を描いているのに)感じさせるのは筆力の高さに違いないでしょう。

 そして芸能人の方が書かれた小説には橘ケンチさんの『パーマネント・ブルー』(文藝春秋)があります。 ダンスと出会った男の子が彼なりにダンスと真剣に向き合い、将来を見つめていく青春小説。クラブカルチャーの秘めている熱量と、それに向き合う人間の熱量が織り混ざって描かれていました。
 地方の小さなクラブハウスから徐々に東京に進出し知名度を上げていく流れは特に面白いです。 ダンスをする理由が「自分のため」から「他人のため」に転換するのもよく、なぜ“表現”をするのか、という根源的問いかけにも繋がってくるでしょう。表現に対して真摯に向き合った小説です。


 ほかにも、町田そのこさんの『あなたはここにいなくとも』(新潮社)は、 「ここにいないもの」(それは物だったり人だったり形のない思い出だったりする)に思いを馳せ、それぞれ影響を受けていく独立した短編集。いずれも女性が語り手になっています。 ほとんどの短編で年老いた女性が出てきて、その泰然自若とした生きざまが語り手や周囲に好影響を及ぼす流れは、柚木麻子さんのテイストにも近いです。

 同じく新潮社から、宮島未奈さんの『成瀬は天下を取りにいく』(新潮社)は直木賞というには軽めな作風ですが、上半期最大の話題作。成瀬あかりを主役に据えた連作短編集となっており、成瀬あかりのパーソナリティが作品全体の空気をエンパワーしていました。その奔放な振る舞いはとてもキャラクター的にもかかわらず、郷土/時代を強く意識させる固有名詞の多様も相まって、まるで現代に生きているような予感を与えていました。

 直木賞候補に二度選ばれている一穂ミチさんの『うたかたモザイク』(講談社)は短編集というよりも、250ページのなかに13編がおさまっているのでショートショートとしての趣が強い印象。
 個人的には「レモンの目」が頭ひとつ抜けて好みで、黒猫を媒介者とした交流によるモラハラ男性からの脱出、という定型的な物語像を軽やかに裏切る筆致は、一穂さんの作品を読んでいるほど騙されやすいものになっていました。


現代と幻想の結びつき


また、「現代」を描こうとしながら、幻想的な要素と結びつけることで独自の魅力を打ち出そうとしている作品も多く存在します。


 たとえば、高野和明さんの『踏切の幽霊』(文藝春秋)は顕著な例でしょう。 踏切に現れる幽霊の謎を追っていくうちに社会の暗部に辿り着く社会派ミステリです。
 舞台が20世紀末に設定されており、どこかノスタルジーを漂わせながら、 幽霊と陰謀論、空想同士を掛け合わせることで一種の現実感を生もうとする試みが面白いです。「幽霊」という抽象的概念とその匿名性を結びつけて、幽霊の「名前」を知ろうとする捜査過程を、いなくなった人間の存在を肯定する行為だとする流れも、ミステリにおける「捜査」自体を再定義しており興味深いものとなっています。妻との死別をそこに重ね合わせるのもドラマの作り方として妥当で、物語の運びが丁寧な佳品でした。

 そして冲方丁さんの『骨灰』(KADOKAWA)は、工事現場の奥深く、祭祀場に繋がれていた男を解放することで災厄の〈骨灰〉が解き放たれてしまうストーリー。封印を解いた人間に〈厄〉が取り憑いてしまうタイプのホラーを三人称で描いていきます。
 東京の地下には死者が眠っており、解き放たれることで地上に建っている「家」を脅かす、という構造が家父長制と結びつけられ、精神を錯乱していく語り手が家父長制的思考に回帰していくさまはアイロニカルそのものです。矛盾に対して自己正当化を図っていく語りも面白さがありました。
 そして厄災を防ぐためには「人柱」が必要とされるのですが、なかなか円満に解決させづらい「人柱」問題をこの作品は的確に捌いていきます。
 現実(2023年)への接続も手慣れており、著者初のホラーとは思えない完成度を誇っていました。

 また、彩瀬まるさんの『花に埋もれる』(新潮社)は、直木賞候補にも選ばれた『くちなし』を特に思わせる幻想的な短編集です。
 名残惜しさの滲む慕情をそっと手放すまでを描いた短編が多く、手放すきっかけとなるアイテムに、人間ではない物質(ソファや靴、石のような非生物からマグノリア、マイマイに至るまで)がかかわってきます。「人間ではないもの」と向き合う過程が結果的に「人間」と向き合うことになる、その距離が面白いです。幻想的な要素をふんだんに取り入れた、レベルの高い短編集でしょう。

 五十嵐律人さんの『魔女の原罪』(KADOKAWA)は、 犯罪防止を(法律の遵守を)徹底する不穏なニュータウンで生活している男子高校生が、「魔女の原罪」に触れることで真実を知っていくリーガルミステリー。廃れたニュータウンで形成される宗教的コミュニティ、という舞台自体は類例があるものの、そこに集ってくる人間を○○○○○(伏せます)のみに限定する発想には驚かされること間違いありません。
 街が抱えている異常性の仄めかせ方もよく、 加害者 / 被害者がともに理性と本能の不一致、「わかっていながらもしてしまう」ようなアンビバレントさを抱えており、それをミステリーのジャンルで理屈的に示していくのも面白いです。
 現実にはありえない設定とありえそうな設定をごっちゃ混ぜにしながら、独自の不気味さを演出している作品です。


予想

展望

 下世話ではありますが、芥川賞候補に何が入るのかの予想も立てていこうと思います。
 作品の面白さとは別のラインからも書いていくので、読みたくないかたはスルーしていただければ。


 まず、芥川賞を主宰しているのは日本文学振興会(実質的に文藝春秋)なので、例によって文藝春秋さんから刊行されている作品の検討。

 今回は非常に混戦模様ですが、山本周五郎賞を受賞した砂原浩太朗さん『藩邸左配役日日控』はまず選ばれそうな印象。時代小説界隈の主役を担うのではないかと言われ続けている方で、今作もすでに受賞しているかのような貫禄を感じさせます。

 もう一作は高野和明さん『踏切の幽霊』か垣根涼介さんの『極楽征夷大将軍』で悩むところ。前者は『ジェノサイド』で一世を風靡した高野さん10年ぶりの新作で、後者は吉川新人賞・山本賞をすでに受賞している垣根さんの労作。
 どちらもありえそうなところですが、今回は垣根涼介さん『極楽征夷大将軍』で予想します。これはもう単純に自分の好みと、こういった重厚な作品は好まれるだろうという見立てです。

 そして他出版社からは永井紗耶子さん『木挽町のあだ討ち』がやはり有力か昨年候補になった『女人入眼』は受賞作に次ぐ高評価でしたし、本作はそれ以上の高評価を現時点で集めています。山本周五郎賞に続いて直木賞まで一気に受賞する可能性も大いにありえそうです。

 歴史ものばかりになるわけにもいかないので現代を描いた作品もある程度は候補作に選ばれるはずです。そうなると、ありえそうなのは上半期に話題を集めていた柚木麻子さん『オール・ノット』と、吉川トリコさん『あわのまにまに』でしょうか。柚木さんは『らんたん』『ついでにジェントルメン』と良作を刊行しながら立て続けに候補入りを逃しており、もうすでに受賞していてもおかしくない作家さんだけに(勝手な)期待がかかります。
 吉川トリコさんも『余命一年、男をかう』ではずみをつけてから本作を刊行していて、その勢いのまま初の候補入りを果たしてもなんらおかしくなさそうです。


 というわけで、今回の予想はこの五作品です!ででん!

第169回直木賞 候補作予想

垣根 涼介『極楽征夷大将軍』(文藝春秋)
砂原 浩太朗「藩邸左配役日日控」(文藝春秋)
永井 紗耶子『木挽町のあだ討ち』(新潮社)
柚木 麻子『オール・ノット』(講談社)
吉川 トリコ『あわのまにまに』(KADOKAWA)
(五十音順・敬称略)

 次点でありえそうなのは、前述した高野和明さん『踏切の幽霊』のほか、彩瀬まるさん『花に埋もれる』、上田早夕里さん『上海灯蛾』あたりか。
もしくはまったく把握していない作品が候補に入っても、今回はまったく驚きません。

 ともあれ、あとは直木賞の候補発表を楽しみに待ちましょう。

 それでは、ごきげんよう。

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