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「君は秋だ」

「秋になると、いろんな感情が渦巻く。」

深夜2時、閉店後のショッピングセンターの駐車場に停めた真っ赤なJeepの運転席で、美穂はそう口にした。

同じく違法駐車している車が遠くに2台、点々と散らばって停まっているが、大抵、深夜の駐車場は不倫をしているカップルしかいない。

だが、美穂と僕は不倫関係にあるわけでもなければ、そもそも恋人ではない。

かといって、友達だとかセフレだとか、一言で関係を形容できればいいのだが、そのどれもしっくりこない。

「君と話しているときも、わたしの中で色んな感情が渦巻くの。」

車内の暖房が、うなりをあげて轟いていた。

乾いた空気のせいでパサついてきた唇を舌で湿らせ、僕は黙って美穂の発する言葉の一言一句に耳を傾けていた。

美穂は何を言おうとしているのだろう、そんな期待感で胸が溢れるほど、彼女はいつも他の人には決して持ち得ない言葉をくれる。

そんな彼女の前で、僕は適当な相槌を打つこともなければ、まじか、とか、ヤバい、といった小手先の会話で済ませることなんてできやしないし、したくない。

それは美穂も同じで、感じていることをどんな言葉で伝えれば僕に届くのか、パズルのピースを組み合わせるみたいに、頭の中で言葉の欠片を丁寧に照らし合わせてから、ようやく声に乗せて言葉を発する。

だから、僕と美穂の会話には、いつも沈黙が隣り合わせだった。

外気との温度差で曇ったフロントガラスを見つめながら、美穂が言葉を紡ぎ出すのをじっと待った。

「君は秋だ。」

長い沈黙の後、美穂はそう言って、アハハ、と恥ずかしそうに笑った。

君は秋だ…その言葉を僕は頭の中で繰り返し唱えた。

「なんていうか、上手く言葉にできないわ。この感情がぽっと君に伝わればいいのに。」

「分かるよ。俺も他の人と話しているときは、その時々にぴったりの言葉がすぐに口をついて出るのに、美穂と話すときは、あまり正しい言葉が見つからないっていうか…」

美穂は、優しい瞳で僕を見つめて、言葉に詰まる僕を包み込むように待っている。

「俺ももっと、思いつきでポンポン口にできればいいんだけどな。」

美穂といるときは、小説を書く以上に真剣に言葉を選ぶ。

それがいつもじれったくて、もどかしい。

「ううん、自分が吐き出す言葉に責任を持ってるだろうから、それだと君じゃなくなる。」

「そっか、俺はこれでいいのか。」

美穂との出会いは、半年前に開かれた、7歳上の姉の結婚式で、その式に彼女も出席していた。

僕が、2年前、当時まだ大学に入りたてのころ応募した小説が史上2人目の若さで新人賞を授賞し、華々しく小説家デビューしたことで、世間に知られるようになったが、美穂は僕の小説のファンだった。

さらに、以前講演会を聞きにきたことなどを伝えてくれた。

そんな会話を交わす中で、美穂は28歳でまだ独身だと言ったが、それ以上のことについて語ろうとはせず、僕もあえて探る気はなかった。

その式の1週間後に、彼女が東京へ出てくる機会があり、その時初めて二人だけで会った。

普通、ファンとこのような形で親しくなることは決してなかったが、姉の知人であったことが、僕に安心感を抱かせた。

作家としてデビューしたとはいえ、まだ21歳の普通の大学生の僕とって、美穂は、とても大人びて映った。

会うのはいつもbarか、今晩のように美穂の車の中だけだった。

会う度に、普段人に話しても理解されないようなお互いの感性を赤裸々に語り合うだけで、一度も身体に触れることもなく半年が経った。

正直、僕は美穂とどうにかなりたいと思っていた。

そんな気持ちを察するかのように美穂が再び口を開いた。

「わたしはこの時間が心地良い。この時間に恋している気分。」

そう言われた僕は、咄嗟に、

「俺にってわけじゃないの。」

と聞き返した。

すると、美穂は迷うことなく、

「君とのこの時間ね。この時間に恋してるよ。」

と言うのであった。

彼女を前にすると、自分がとても子供じみて思えてしまうため、僕は彼女に対していつも何も言い返せずにいた。

本当は、この関係を一歩前に進めたかった。

だが、同時に、この穏やかな時間に終止符を打つ怖さもあった。

「俺は、美穂とどうにかなりたいと思ってる。」

これまで一度も言わなかった自分の本音が溢れて、不意に口をついて出た。

「もう抑えられないんだ、この気持ちが。」

美穂は、表情を崩さずに、また少し言葉を選んだあと、

「君は、なんでも手に入る力があるから、あえて私は手に入らないでおく。」

と言った。つづけて、

「私たちは感覚は通わせ合っているけど、気持ちは通ってないわ。」

と、意外な答えが返ってきたため、僕はたじろいでしまい、何も言葉を返せなかった。

確かに、これまでの人生を振り返ると、僕はいつも欲しいものは手に入ってきた。

目標を立てれば大体のことは叶えてきたし、好きになった女の子は皆僕のことを好きになった。

そんな僕にとって、決して手に入ることのない美穂は他の誰よりも魅力的に映った。

これまでの人生は彼女と出会うために存在したのだと、心底感じてしまうほどに。

「じゃあ、美穂はなんで俺と会ったりするの。」

「理由がないと、一緒にいちゃダメですか。」

真剣な目で美穂に見つめられ、僕はまたしても口ごもってしまった。

いつもこんなはずじゃないんだけどな...なのに、美穂を前にするとどうしてこんな歯痒い気持ちにさせられるのだろう。

ただ、美穂ともし恋人の関係になってしまえば、きっと嫉妬心や独占欲が湧いて、今のように純粋に会話を楽しむだけの間柄ではいられなくなると、僕も感じていた。

だから、こうして美穂が僕と今まで以上の関係も求めない理由も、分かってはいたのだ。

僕は、諦めたように、

「俺って、振り回されてんのかな。」

と言って、苦笑いした。

「振り回されてないよ。もしそれがいいって思うならね。」

「じゃあ、振り回されてないな。」

二人の笑い声が車内に響いた。

真っ暗闇の広い駐車場に佇む3台の車。

他の車では一体何が行われているのか、はたまた眠りについているのか、判然としないが、深夜3時を過ぎても真っ赤なJeepの車内では、男女が会話を楽しんでいる。

かつて幼い頃に、人を損得勘定で見なかった時や、異性を性的な目で見ることがなかった時のように、純粋に相手を尊重し、どう思われるかなんて気にせずに感じたことや考えていることを話す。

子供の時よりは、引き出せる言葉も豊富になったし、お互い性的な魅力も兼ね備えてはいるけれど、僕と美穂は性別や年齢の壁をなくして、お互いを言葉で満たしあっている。

小説家の僕にとって、彼女は紛れもなく新しい作品への刺激をくれるし、美穂も僕と話すことで、忘れていた感情や記憶が蘇ってくると言う。

「でも、一応男だし、たまには俺もカッコつけたくなるよ。」

「あはは、カッコつけたらそれ相応の言葉しか言わないよ。『なにそれ』って。」

誰にも邪魔されないこの時間が、ずっと続けばいいと思った。

美穂も同じことを考えてくれたらいいな、と願うけど、きっと彼女もそう感じているに違いない。

心地の良い静寂が、二人を包んだ。

その静寂を美穂が、唐突に切り裂いてこう言った。

「君は、綺麗だよ」

その瞬間、不思議な感覚に陥った。

女の人から綺麗と言われたのはこれが初めてだった。

いや、同性からも、誰からも言われたことがなかった。

泣き出しそうなほど心が震えた。

その言葉ほど存在を肯定する台詞はない。

長く短い生涯の中で、僕にそう言える人は、前にも後にも彼女しかないだろう。

21歳の秋。

「秋は言葉が溢れてくる。金木犀が雨に打たれて散った時、また君を思い出す。」

美穂は、その夜の別れ際にそう言った。

この関係はきっと、ずっとは続かない。

お互いそれを知りながら、会っている。

もしもこの先会えなくなったとしても、僕はその言葉をそのまま返す。

「君は、とても綺麗だよ。」




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