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『創世記』④――定められた生と死――

第四章 神々の守護

 “人”と“動物”が“体”を持つものとなって、永劫にも近い時間が過ぎた。
 “人”と“動物”は常に重い“体”と、“体”の飢えを抱えて、世界樹の根の上の世界たるこの地上で暮らし、世界樹を昇ることもできなかった。

 神々と呼ばれたいと高き枝に生じた二十のものは、いと高き枝よりこの様子をみそなわした。
 寄る辺なく、自らの生を自らが支える過酷な生に悲嘆に暮れる“人”と“動物”に神々は哀れみを覚えた。
 ここに全ての神々は集い、二度目のパンデオスが開かれた。

 初めに自らの意を述べたのは、いと恵み深き中でも秀でて優しく恵み深き“生命の女神”であった。
 生命の女神は“人”と“動物”という総ての生命を愛しく思い、地上の“人”と“動物”の守護を申し出た。
 至高の三神の内、眠れる神を除いた神々はこれをよしとされた。
 ここに地上の“人”と“動物”は、生命の女神の守護の下、子孫に生命を繋ぐものとなった。
 次に自らの意を述べたのは、厳しき神の中でも秀でて厳しき“死の女神”であった。
 だが死の女神でさえ、地上の“人”と“動物”の有り様には哀れみを覚え、その苦を限りあるものとするべく申し出た。
 至高の三神の内、眠れる神を除いた神々はこれをよしとされた。
 ここに地上の“人”と“動物”は、死の女神の守護の下、限りある生を享けるものとなった。
 この際、大地より受けた体は大地に帰ることとなり、再び軽くなった体は世界樹の幹を見出し、再び元の枝に戻るものとなった。ここに地上の“人”と“動物”の生と死が定められた。

 パンデオスはなおも続いた。
 残りの十八の神々も順に意を述べた。
 白き力を持つ九の神々は、おのおの秘めたる力を顕わして、“人”と“動物”を導くことを申し出た。
 至高の神々の内、眠れる神を除いた神々はこれをよしとされた。
 ここに九の神々は、昼夜を照らす太陽と月、穏やかな優しい海、安らぎに満ちた森、命を育む助けとなる雨と湖水、総てが出で総てが戻る温かく豊かな大地、心地よく清らかな風、そしていと暖かく造り出す力に満ちた火をもって、“人”と“動物”を導くものとなった。

 これに対し、黒き力を持つ九の神々は、おのおの秘めたる力を顕わして、“人”と“動物”の増長を戒めることを申し出た。
 至高の神々の内、眠れる神を除いた神々はこれをよしとされた。
 ここに九の神々は、何も見えない闇を呼ぶ黒い太陽と赤い月、荒れ狂いすべてを破壊する海、不安と恐怖の支配する森、腐敗を生む嵐、生命を枯らせる日照り、総てを呑み込む冷たい大地、疫病を運ぶ汚れた乾いた風、そして猛々しく焼き尽くす力を秘めた炎をもって、“人”と“動物”に己の無力を知らしめるものとなった。

 ここにいと高き枝の二十の神々は地上に於いても神々となり、“人”も“動物”も神々に従った。
 神々は“人”に地上における神々の住まいの作り方を教え、神々に仕えるものを選び出した。
 白き力を司る十の神々は、自らの住まいを“寺院”と呼び、自らに仕える者を“僧侶”と呼びなした。
 黒き力を司る十の神々は、自らの住まいを“神殿”と呼び、自らに仕える者を“祭司”と呼びなした。

 こうして“人”は自ら神々に従い、“動物”もこれに従うものとなった。

……ここまでが、第四章の記述です。

人類も動物も、全ての生命は肉体を得て、地上の物理的な存在になりました。

仏教に「四苦」という言葉があります。人間というか、この地上世界には、四つの苦しみが付きまといます。すなわち「生・老・病・死」。ここでいう「生苦」とは、生きることではなく生まれてくることなのだとか。

ひとは生まれてくること自体が、すでに苦しみなのだと。裏を返せば、生まれる前の世界、そして死後に還っていく世界こそが、楽園なのだと。

御陵の”白銀時代”の『創世記』それに裏打ちされた死生観も、そんな観念にかなり依拠しています。

白銀時代の観念では、生命の女神に守護された生の時間は”昼”に当たる活動の時間、死の女神に護られた死後の時間は”夜”に当たる休息の時間。

活動に疲れた魂は、門番の死の女神に迎えられ、休息の時代を過ごします。そして休息に飽きて再び艱難辛苦に立ち向かう気力の湧いた魂は、門番の生命の女神に見送られ、この地上世界に戻ってきます。

実はアブラハムの宗教にも、同じような思想を述べた書があります。曰く、「私は、神を訴追します。人は、生まれてこないのが美しいのです」。

……旧約聖書偽典『エスドラの黙示録』。

次回は第五章。神々よりも後に生まれた人類ですが、その人類よりも遅れて生じた神々がいます。その由来を述べた章となりますが、また次もお付き合い頂けましたら嬉しいです。

よろしくお願い致します。





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