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ツナギと釣竿に敬服

今日は、舞台演劇を鑑賞してきた。

人生、初舞台鑑賞である。

というのも、大学の友達がその劇団に舞台美術として参加しており、「よかったら見に来て」とお誘い頂けたので見にいくことにした。

演目は「Second Star on the Right」といって、ピーターパンの作者がピーターパンのモデルとなった少年と出会い、物語を完成させるまでのお話。

英語劇でミュージカル。

僕の頭には一抹の不安がよぎった。

僕はてんでミュージカルに疎い人間なのである。

どのくらい疎いのか。
それは、かの有名な「La La Land」の超有名シーン、「車を探している最中に、主人公の二人がタップダンスを踊る」というシーンを見て「いや、まず車は!?」とテレビに向かって叫ぶほどである。

僕はその当時中学生くらいで、ラブロマンスも登場人物の心情を素晴らしい音楽にのせて表現するという演出も、クソガキの僕には早かったのだ。

それ以来ミュージカルというものにはあまり触れていなかったし、そもそも舞台演劇というものを、中学生の頃の「劇団ひまわり」による出張演劇くらいしか嗜んでいないくらいの男である。

豊かな感性も舞台に関する教養もゼロの僕が、見に行っていいのだろうか。

今日を迎えるまで、そんな不安と舞台を楽しみに思う気持ちがせめぎ合っていた。


当日の舞台はというと、これはこれは素晴らしいというほかなかった。

999円という破格の安さ(僕はその時1万円札しか持っていなくて受付の人を困らせた)では釣り合わないほどの素晴らしさ。

世に「鳥肌税」というものがあったら、僕は進んで納めていたに違いない。

舞台の感想を書くのもそれはそれでいいのだけど、せっかく友達が舞台美術として活躍したのだから、舞台のセットや大道具に関して思ったことを書いてみたい。


舞台演劇はその名の通り、用意されたステージのみであらゆるシーンを展開しなければならない。

公園でのシーンも、家の中でのシーンも、全て一つのステージ上でやらなければならない。
ドラマや映像作品ならロケーションを変えて表現できるけど、舞台ではそうはいかない。

だから黒い打ちっぱなしの床は無機質な黒に変わりはないし、音響設備やその場で演奏する奏者の方々は観客から見えてしまうのである。


そんな困難を乗り越える魔法が、舞台上に置かれた緻密かつ精巧な大道具たちなのだ。

手作りの街灯とベンチで公園を表現し、ベッドとカーテンのついた窓枠で部屋の中を表現する。
いくつかの机とキッチンカウンターで酒場を表現することもあれば、肖像画と赤い壁紙を描いた木の板、それから長机で食事会の様子を再現する。

その空間をそっくりそのまま再現することができないから、必要最低限の要素だけを引っ張り出して見事に舞台となる空間を創り出し、観客を物語の世界へより引きずり込むのだ。

公園やベッドルームなど、「そのままでは見えることがなかったモノ」を見えるように。
そして音響設備や演奏者たちなど、「そのままでは見えてしまうモノ」がまるで消えてしまったかのように。

そんな風にして、物語のベースとなる世界観を土台から支えているのが舞台美術なんだと思う。


その友達はここ一ヶ月間、舞台制作で本当に忙しそうにしていた。
特にここ一週間は本当にハードワークだったらしく、LINEに送られてきた「もういや、やめたい」の文字を見たときは流石にヤバいんじゃないかと思った。


だけど大変そうな中にも時折見せる楽しそうな笑顔からは、劇団を支える一員としての誇らしさみたいなものが感じられた。

というか、あれだけの所業を成しておいて、誇らしく思っていないとしたら、こちらが腹立たしさを覚えてしまう。
嫉妬の炎で狂いそうになる。


ある日その友達は大学に、ツナギを着て釣竿をケースに入れることなくそのまま持ち歩くというトンデモスタイルでやってきた。
どうやら、授業の後そのまま制作に向かうためだったようだ。

本番の舞台上で、その釣竿の先端には紐とライトが括り付けられて「宙を舞うティンカー・ベル」を再現するための画期的な装置に変化していた。

そんなこともつゆ知らず、僕はその友達を見て「渓流釣りかよ、ウケる」みたいなことをぬかして笑った記憶がある。

あの時に戻って、ケラケラと笑う僕を、今の僕はボコボコにしてやりたいと思っている。

これからあの釣竿は素晴らしいカラクリ装着となり、そのツナギは舞台を彩る大道具を生み出す戦士たちが身に纏う「戦闘服」なんだぞ、と。

僕は今日、ツナギで釣竿を掲げるあの日の友達を思いっきり尊敬した。
心から憧れた。

いつか僕も、ツナギと釣竿で大学に行ってみようかと思う。


素敵な舞台をありがとう。
お疲れ様でした。

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