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ギャラリーオーナーの本棚 #12 『植物の生の哲学』 今この場所で生きる

人が植物の "生き方" に学ぼうとする異色の哲学書。著者のエマヌエーレ・コッチャは農学を学んだ後に哲学に転向した人なので、なるほどという感じなのですが、これを読むと「植物って本当にすごいよな」という畏怖の念が改めて沸いてきます。

本書でのコッチャさんの主張をものすごく簡単に要約すると、「植物ほど世界と密接に関わり、世界に溶け込む能力を持っている生命体はない」ということなのです。しかし、たいていの哲学書がそうであるように、もって回った言い方は少々難があります。たとえば・・・

植物は、生命が世界と結びうる最も密接な関係、最も基本的な関係を体現している。
逆もまた真なりである。すなわち植物は、世界をその全体として眺める最も純粋な観察者でもある。植物の生命は太陽の光や雲のもとで、水や風に溶け込み、飽くことなく宇宙を眺めている。諸々の対象や物質を区別することもない。別の言い方をするなら、世界と溶け込むにいたるまで、あるいは世界の実体と合致するにいたるまで、あらゆるニュアンスを受け入れているのだ。

意味がよく分からないと思うのですが(私もどこまで分かっているのか怪しい)、要するに植物は、適応能力がすごいということなのです。それはもう、その場の環境と一体になって、境界がなくなってしまうくらいに。
動物だって適応はしますが、移動できる動物はある程度、不都合な環境を回避することができます。でも植物は移動できない。移動できない以上、徹底的にその場の環境に馴染む能力を発達させました。コッチャ氏はこれに「浸る」という独特の表現を使っています。
そしてそうあるために、周囲の環境についてあらゆる情報をキャッチしようとし、表面積を極端に大きくして、体全体を感覚器官としています。

だから、植物は何も言わないし意思表示もしないけれど(少なくとも人間にはそう見える)、体全体で外部の変化を感じ取り、それに合わせて自身の能力や形態すら変えることもあるのです。長い目で見れば。いや、そう長い期間ではなくても、一個体の存命中に変わることだってあります。たとえば私の実家の梅の木は、樹上にベランダがあってまっすぐに伸びることができず、その上何度も枝を切られて成長を阻害されるうち、つる性植物のように周囲のものに(ベランダに)絡みつくように発達しています。

そんな植物から、私たちは何を学べるでしょうか?

これはコッチャ氏ではなく私の捉え方ですが、「移動できないから、徹底して周囲の環境に溶け込む作戦」は、けっこう覚悟の要る、肝の据わった生き方です。
今の私たちに照らして考えてみると、人類は気候変動や資源の枯渇といった問題を作り出しておいて、地球を捨てて他の惑星に移住することを考え始めていますが、植物的な生き方ではそういう発想にはならないでしょう。
今この場所で生き残るために、体全体で情報収集し、環境の変化を感じ取り、自らの性質・生き方を変えてでも環境に溶け込もうとするはずです。自分と世界の境界がなくなるくらいに。

植物は、人間から見て哀れな下等生物などでは決してなく、ある意味で人間よりもよっぽど達観しているのではないでしょうか。自分は世界に含まれていて、世界を作り出してもいると知っている。自己と環境を分け隔てないことによって満ち足りた生を送ることができるのだから。


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