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ギャラリーオーナーの本棚 #8 共同体の記憶 『忘れられた巨人』

私の前に存在していた誰かの声


私には20代の頃、何度も何度も読んだ文章があります。誰でもそういうものが––好きな小説、好きなエッセイ、好きな詩、あるいは好きな歌詞などが––あるものですよね。自分では言語化できない感情を、その文章が代弁してくれている、と感じることがその文章に感情移入するよくある理由、というか自分で認識しがちな理由だと思うのですが、そういう場合は大抵、似たような経験を重ねあわせることが多いと思います。
しかし、自分が体験していないことについて書かれた文章を読んで、あまりにも心がえぐられたことが今までに2回あります。

ひとつめは、堀田善衛の自伝的小説『若き日の詩人たちの肖像』、ふたつめは村上春樹の『猫を棄てる - 父親について語る時』です。
いずれも、個人が国家に、あるいはイデオロギーに翻弄されて苦しむ物語です。特に後者は、読んでいるうちに涙が滲み、身体が震えはじめました。体験していないことにそこまで感情移入する理由は、私という個人の中にはありません。

記憶と、そこから生まれる感情は個人のものか


その時に沸き起こった感情は、私という個人から生まれたものではなく、私の前に存在していた誰かのものなのではないか、と思っています(スピリチュアルの気はまったくありません。念のため)。
こういう体験に基づかない感情を理不尽なくらい強く感じた時、それが何に根ざしているのか、その源流を知らなければ、時に恐ろしいことが起こります。

戦争や紛争、悪政による弾圧などによって、あるグループに属する人々が受けた苦しみや悲しみが「共同体の記憶」として世代を超えて引き継がれ、それが個人に及ぼす影響を、カズオ・イシグロは『忘れられた巨人』で描きました。イシグロ氏はこの小説を書くきっかけになったのは1990年代のユーゴスラビア紛争だったと語っており、この紛争の発端は、共同体がもつ過去の記憶が呼び覚まされたことと無関係ではないことを指摘しています。

記憶は残ることもあれば、忘れることもあります。そのどちらも、個人の機能でありながら実は集団的に操作されうるものでもあります。それを操作できる代表的なものが、教育、メディア、そして芸術です。芸術がプロパガンダに使われてきたのは昔の話ではなく、現在でもエンターテイメントの仮面をかぶって存在しています。そして個人が匿名でも全世界に発信できるようになった現代、メディアに流れる情報は玉石混淆です。玉ではなく石ころの情報でも、センセーショナルな内容であるほど流布されます。

だから私たちは、自分が体験していない過去の記憶によって圧倒的な力を感じた時、感情が揺さぶられた時には、その記憶の源流を意識しなければならないし、その「力」や「揺さぶり」を受けて今現在の自分がどう行動すべきかを判断しなければならないと思うのです。

足元には自分の知らない強大な力を持った「巨人」が潜んでいるかもしれないのですから。

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