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徒歩3分のちいさな旅

 このところ、ずっと調子が良かったのに、何だか腰が痛い。

 痛いと言っても、たいして痛い訳ではない。ただ、左側の腸骨の辺りの髄が、ぎゅうっと締まるような感覚がある。体を前に倒すと、左腰の背骨に近い辺りに軽く痛みが走る。気が付くと、歩く時に腰に手を当てて歩いている。

 これはまずい兆候。

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 昨年、同程度の痛みを感じた時、週末に治療院に行こうと予定して、平日ずっと、普通に仕事をしていた。ら、週末が訪れるよりも先に、椎間板ヘルニアで入院騒ぎとなり、一ヶ月以上も仕事に穴を開けた。

 退院後は、ちょっと異変を感じたら、全く大した事が無くても、すぐに仕事を休んで治療に行くと決めている。

 職場ではフレックス制を導入しているので、残業した分は、遅出や早退が出来る。でも、今月はまだ残業をほとんどしていない。なので思い切って、急遽午後半休を申し出た。

 昨年の事があるので、即、上司の許可が下り、ばたばたと明日の段取りをして、職場を後にした。

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 かかりつけの病院はふたつある。ひとつは整形外科。もうひとつが整体と電気鍼がメインの治療院。通常通っているのは前者だけど、ピンチの時に駆け込むのは後者だ。今日も治療院へ向かう事にした。

 午後の診療までは少し時間を潰さないといけない。治療院は住宅街の中にあるので、昼休み時間に到着しても、診療の開始を座って待てるような場所が、周囲には何も無い。

 とは言え、午後一で診療を受けるのであれば、30分後のバスには乗らなくては。お昼ご飯を食べるような余裕は無い。バス停近くの商業施設に入り、椅子に座って待つ事にした。

 入口の木蓮が満開で見とれた。

 少しだけ足を延ばせば、この季節に花があふれる公園がある。普段だったら、30分もあれば、公園の花をゆっくり楽しんで、バス停まで戻ってこられる。でも、今日の調子ではそれは難しい。

 ああ、悲しいなあ。ほんのすぐそこなのに。きっと、とてもとても綺麗だろうに。

 おとなしく、椅子に座って時間を潰す。通り過ぎる人たちが、みんな楽しそうに見える。でも多分、椅子に座って、木蓮を眺めている私だって、誰かから見れば、楽しそうに見えるに違いない。

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 この町は、街路樹が本当に多い。治療院に向かうバスも、沢山の街路樹とすれ違う。木蓮、こぶし、そして桜。どれも満開。すれ違うたびに目を奪われる。

 この季節にどうせ半休を取るなら、治療の為に突発的に休みを取るのではなくて、本当なら、花見の為に計画的に休みを取りたいよ。花の下をゆっくり歩きたいよ。

 いや、もちろん、車窓から見える花も、みんなみんな綺麗で、見ると幸せにはなるけれど。

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 治療院は空いていた。午後の診療の一番で治療を受けることが出来た。

「ああ、お尻の骨が歪んでますね。矯正します。あと、ここが痛むのは、腸から来ています。留め鍼しておきますから」

 腸? いつもの事ながら、何故、腰の痛みに内臓が関係するのかは、私にはよくは分からない。よくは分からないけれど、この治療院で治療を受けると、いつも痛みが軽くなる。だからここの先生の事は、とても信頼している。

 ただ、痛みが軽くなったとは言え、無理は禁物。せっかく早く治療が終わったのだから、早く帰らないと。

 自宅へ向かってバスに乗る。車窓の花にまた目を奪われる。れんぎょう、水仙、そして桜。

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 自宅で遅い昼食を取った後、やはり、うずうずした。この季節の平日の昼間に、会社の事務所に籠らないでいられるなんて、本当に珍しい事。

 もちろん、遠くまでは行けない。でも、近所の公園になら。

 紙コップに濃いめの緑茶を入れて、更に沸騰寸前までレンジにかけた。乱暴な上に、ちっともエコじゃない。

 だけど、腰が痛い時に、重い物は持ちたくない、水筒でさえも。桜を見ながらお茶くらいは飲みたいけれど、自販機には既に冷たい飲み物しか無いし、近所のコンビニは公園よりも遠い。今日の花冷えは、沸騰寸前のお茶も、すぐに飲み頃に冷ましてしまうだろう。

 緑茶の入った紙コップと、鍵とスマートフォンだけを持って、家を出た。財布は持たない。徒歩3分の公園に行くのに、財布なんて必要ない。

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 近所には同じくらいの距離に、ちいさな公園がふたつある。

 どちらも桜があるけれど、坂を下りたところの公園の方が、桜の数も多いし、すぐ側に長い桜並木もある。どうせなら、沢山桜のある公園に行こう。

 そう思っていたけれど、坂の上の太陽の光に目を奪われた。

 雲の隙間から、光が下へ放射状にこぼれている。宗教画だったら、天使が必ず一緒に描かれているような、そんな光。

 写真に収めたくて、桜の数の少ない、坂の上の公園に向かった。

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 私は写真が下手だ。ピントは合わないし、構図もおかしいし、しょっちゅう自分の指が写っている。何枚も写真を撮るけれど、肉眼で見たようには決して写らない。

 雲の隙間からの光も、それに照らされた桜も、実際はこんなにきれいなのに、どうして写真に留められないんだろう。

 諦めて、ただ、眺めた。ベンチに座ってお茶を飲みながら。

 風が強く吹いた。花びらが枝を離れて舞った。諦め悪くカメラを向けてみた。やはりうまく写らない。スマートフォンをポケットに仕舞った。

 雲が速いスピードで流れていく。

 写真がうまく撮れたらいいのに。写真じゃなくてもいい。上手に絵が描けたらいいのに。今のこの瞬間を、どうにか留める事が出来たらいいのに。

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 ベンチに座ってから、お茶を飲み終わるまで、時間にして、10分程度の事だったと思う。

 自宅から徒歩3分。桜が数本だけ植わっている、近所のちいさな公園。ちいさな散歩。

 だけど、どんな桜の名所に行ったとしても、あの空とあの花は見られない。そして、今日の今じゃなければ、あの風とあの雲に出会えない。

 写真には写せない。絵にも残せない。私だけの大切で幸せな景色。

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 帰宅してすぐに、雨が降り、すぐに止んだ。天気をチェックしたら、寒冷前線が通過したらしい。

 ああ、腰が痛いのはそのせいもあったんだな。治療もしたし、前線も通り過ぎたのであれば、明日からは日常に戻れるだろう。

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 日常に戻る前にパソコンを立ち上げて、文章を書いてみた。

 写真には写せない。
 絵にも描けない。

 だけど、今日のちいさな旅をどうにか留めておきたくて。

お目に掛かれて嬉しいです。またご縁がありますように。