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半分だけの花火と夏の終わり

 理由もなく調子の悪い時は、多分、誰にでもあると思う。正確には、理由にもならないような、小さな理由が積み重なって、何となく調子を崩す時。

 ここ数日、自分が少々不調である事にも、気が付きにくいくらい、些細な不調を感じていた。思い返せば、理由は幾つかあるけれど、どれもこれもが理由にならないくらいに些細な事だ。

 強いてひとつ理由を挙げるなら、このところの気温差の激しさや、気圧の変動で、体も心も、少々疲れているという事なのだろう。

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 自分の不調に気がつきにくい時、私の場合、テレビはひとつのサインだ。

 調子を崩し始めると、テレビが点いているのが辛くなる。人の笑い声や話し声が、室内に響いているのが落ち着かない。落ち着かない、が進むと、耐えられない、になってしまう。

 なのに、テレビが点いていると、どんなに興味が無い番組でも、注視してしまう癖がある。全く点けないか、注視するか、どちらかしか選べない自分を、少々厄介だなあと思うけれど、仕方が無い。

 夫は逆に、疲れている時はテレビが癒しだ。ストレスを抱えている時は、くだらないバラエティ番組を観て、笑ってから眠りたいと言う。その気持ちもすごく分かるので、その時その時に応じて、お互いに折り合いをつけながら暮らしている。

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 我々夫婦は、割と役割分担がはっきりしている方だ。

 家事については、夫が多く負担している。収入は私の方が多いので、世帯主は私が担当している。

 料理は夫の領域で、洗濯は私の領域だ。運転は夫の領域で、家計管理は私の領域だ。お互いの得意な事、苦手な事を突き詰めた結果、そうなった。

 私が料理を一切せず、職場へ持っていくお弁当まで、三食すべて夫に作ってもらっていると人に話すと、多くの人は目を丸くして、何て素晴らしい旦那さんなの! と言う。

 はい、実際、私もそう思っています。夫の料理は手早いし、美味しいし、自慢です。

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 我々夫婦の在り方が、今の日本では、多数派ではない事を、承知はしている。もちろん、多数派ではないからと言って、困る事は何も無い。

 ただ、たまに、多数派の人から、悪気無く、その在り方は多数派では無いね、と言われる事が、少し堪える時があるのも否定出来ない。堪えてしまう自分に、もどかしさを感じるし、いら立つけれど。

 いら立つのは、どこかで自分が、多数派の概念に、ある程度コントロールされて、コンプレックスを感じているからだろう。

 料理が下手な自分。家事が苦手な自分。下手で苦手な事を夫任せにしている自分。そんな自分に、どこかで後ろめたさを感じている。

 もっと言えば、コンプレックスを感じている事そのものに、更にコンプレックスを感じているのだ。

 実際のところ、誰から何を言われても、自分たちの在り方には疑問が無い。だから後ろめたさを感じる必要は何も無い。それなのに何故、うっすらとした後ろめたさが拭えないのか。

 だけど、元気な時は、何を言われても堪えないのだ。つまりは、このところの気温差の激しさと、気圧の変動が悪い。結局のところ、人間は天候には抗えない。

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「今夜はカレーでもいいか? 俺、ちょっと今日、遅くなると思うから、カレーだと楽なんだけど。冷凍してるやつ、外に出して解凍しておけば、夜には食べられるし。それでいい?」

「カレー、いいねえ!」

「本当にいいの? 君、お腹の調子悪くしてなかった?」

「うん。でも食べる量をセーブしてたら、治ってきたよ。昨日だったら、カレーはちょっと、って言ってたと思うけど。今日はもう大丈夫」

「本当に? 本当に大丈夫だったら、解凍しちゃうよ? 大丈夫?」

「大丈夫だよ」

「分かった。じゃあ今夜はカレーな」

「あ、今日、花火大会だって知ってた? 七時から。戻ってこれる?」

「今日だったか! 間に合うように戻るのは無理だなあ……」

「無理かあ。仕方ないね。でも、私は花火観るよ」

「そう。楽しんでね。俺、遅くなると思うわ」

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 夫が出掛けて行ったので、テレビを消して、パソコンを立ち上げた。

 週末の楽しみのひとつが、noteに文章を書き留める事だ。平日も思い立った時に、少しずつ書き進めたりはするけれど、書くためのまとまった時間は、なかなか取りにくい。

 noteを始めたばかりの頃は、何かを書いてみたい、という漠然とした思いはあったけれど、何かを書き留める事が、こんなに楽しくて、自分を解放する事だとは思わずにいた。

 僅かながら、反応がある事も、とても嬉しい。

 書きたい事を書きたいように書いている、かなりの長文を、どこかから見つけて、読んで下さる方がいるというのは、本当にありがたい事だ。

 そして、ほんの少しずつではあるけれど、読んで下さる人や、スキやフォローを下さる人の数が増えている事が、とても励みになっている。

 書きたい事はたくさんある。あれも書きたい、これも書きたい、想いだけは渦巻いて、収拾がつかないくらい。

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 なのに。

 何故か、手が進まない。画面を見つめたまま、ただ時間が過ぎていく。

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 気分転換に、音楽を掛けてみた。堀下さゆりさん、遊佐未森さん、種ともこさん、PSY'S……。気分は少し変わった。それでも手は進まない。

 他の人のnoteを読んでみた。色んな人が、色んな暮らしをしていて、色んな思いを抱えていて、共感したり、発見したり。気分は少し変わった。それでも手は進まない。

 SNSで、友人と会話した。他愛の無い会話が楽しい。気分は少し変わった。それでも手は進まない。

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 音楽が途切れた。

 次は何を掛けようかな、と、思ったところで、激しい雨音がした。

 天気予報のアプリを立ち上げると、三十分程度で止む予報にはなっている。予報が正しいなら、花火大会には特に影響がないだろう。

 音楽を掛けずに、ただ、雨音を聞いていた。

 気分は少し変わった。相変わらず手は進まないけれど。

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 雨音が通り過ぎた時には、だいぶ暗くなっていた。

 花火大会の会場まで出かけるつもりは、元々無かった。近所の高台に行けば、遠くちいさく、それでも十分きれいに花火を見る事が出来る。

 だけど、近所に散歩に出る気持ちにもなれなかった。

 冷蔵庫から缶ビールを一本出して、自宅のベランダに出た。自宅からだと、更に遠くちいさく、しかも半分隠れた形でしか、花火は見えない。それでも今日は構わない。

 エアコンの室外機の上に行儀悪く座り込んで、花火が上がるのを待った。

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 予告も無しに花火は上がった。遠くちいさく半分だけ。

 それでも、心が躍った。

 心が躍った事に嬉しくなった。

 きれいに映らないのは承知の上で、スマートフォンで、動画を撮った。ビールの写真と、肉眼で見えるものとは全く別物の花火の動画を、メッセージアプリで、夫に送ってみた。

「びーるのみながらベランダから花火」

「たのしんでー」

 それだけの応答で、何となく満足して、カメラを構えるのを止めた。

 遠くてちいさくて半分だけの花火の後を、遠くて軽い打ち上げの音が、ぽすん、ぽすん、と、追いかけていく。花火は予告も無しに上がり、予告も無しに途切れる。途切れている間は、煙が少しずつ風に流れる。そしてまた、予告も無しに上がり、予告も無しに途切れて。

 予告も無しに、花火が終わった。

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 花火が終わってからも、ビールを片手に、しばらくベランダでぼんやりしていた。この町も、一時期は夜中まで暑かったけれど、夜のベランダは暑くも寒くも無い。日が落ちるのも早くなった。

 もう少し涼しくなれば、色んな事が復調していくのだろう。

 花火が上がっていたのと反対方向に、月が出ていた。カメラを向けた。花火よりはましに取れた写真を、夫に送って、また、ビールを傾けた。

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 夫が帰宅した時には、既にだいぶ眠気が来ていた。半分寝ながらカレーを食べた。

「そこで寝ないで、ちゃんと布団で寝なさい」

 気が付いたら、床でうたた寝をしていた。noteを進めようと、スマートフォンでアプリを立ち上げていたはずなのに。

 考えてみたら、このところ、睡眠不足だった。平日にnoteを少しでも進めようとして、少々夜更かしすることが多かった。多分、不調を感じているのは、睡眠不足の影響もあるのだろう。

 だから今日は、おとなしく眠る事にした。目が覚めたら、今日の花火の事を、書き留めたいな、と思いながら。

お目に掛かれて嬉しいです。またご縁がありますように。