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RAINというお店
大好きだったお店だ。バーテンダーさんは、仕事ぶりが真面目で丁寧だった。カクテルを差し出す指先の美しさと、目の前に置かれたグラスの霜の様子を、今も、目の前に思い浮かべる事が出来る。
だけど、本当のところ、私はそのお店でカクテルを口にした事は無い。
私と同年代だったら、きっと、覚えている人も多いのではないだろうか。二十年くらい前に、RAINというお店の事を綴っていた、Rain Dropという個人サイトを。
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ようやく個人の家にパソコンが普及して、多くの人が、ネットに恐る恐る繋がり始めた頃。まだ、GoogleもYouTubeもSNSも無い時代。ブログというものだって無かった。
でも、恐る恐る繋がってみたら、こんなに楽しかったから、二十年やそこらで、ここまで圧倒的に、ネットが普及して発達したのだろうと思う。
その頃、ネットに散見されたのは、個人の「ホームページ」と呼ばれるものだった。
その多くはテキスト中心の、シンプルな構成のサイトだった。画像だって重くて表示に時間が掛かった頃だから、サイトの持ち主は、シンプルながら、それぞれに工夫を凝らしていた。
もともと私は活字中毒の気がある。広いネットの中をうろうろして、お気に入りのサイトを探すのも、見つけるのも、読みふけるのも楽しかった。
ただ、あちこちのサイトを手当たり次第に読んでいると、ブックマークがすぐに飽和状態になる。なので、しょっちゅう整理する羽目になる。うっかりブックマークを外してしまい、その後探しても、二度と訪れる事が出来ないサイトというのも、結構あった。
そして、個人があの形のサイトをずっと継続していくのは、大変な事だったのだろう。ある日を境に更新が止まり、そして消えてしまったサイトが沢山ある。SNSやブログに移行して、形を変えてしまったサイトもある。
あの頃のお気に入りで、今も同じ形で、同じURLで残っているサイトは、本当に数少ない(ので、ファンのわがままとしては、更新が止まっていてもいいから、無くさないで欲しい……)。
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Rain Drop という「ホームページ」の持ち主は、雨沢夕子さんという人だった。都内の何処かにある、RAINという小さなショットバーの、オーナーにして、バーテンダーである雨沢さんが、日々の事を日記として書き記す、という体裁を取っていた。
都内のビルの片隅に、ショットバーの扉がある。窓の無い、カウンターだけの小さなお店。暗くて洞窟の様だと形容されていた。
カウンターに立つ女性のバーテンダーさんは、背は高く、佇まいは凛としている。真面目で丁寧だし、軽口を叩くタイプではないから、一見、冗談を言いそうもない。でも、時々、お茶目な事を言ったり、したりする(けれど、多分、本人には自覚が無い)。
とても人気のあるサイトだった。私もとても好きだった。
RAINというお店が、都内に実在するのかどうかは分からない。雨沢さんは、実在するのかどうかという問い合わせには答えられない、というスタンスを貫いていた。
でも、実在しようとしまいと、お酒が好きな人だったら、一度は行ってみたい、と思うようなお店と、様々なカクテル(これが、美しい上に、美味しそうで美味しそうで!)、そして、お店を離れた雨沢さん個人の、日々の想いが、静かな筆致で語られていた。
古い海外のSF小説が好きで、甘いお菓子が好き。男物の古い腕時計と、ボンベイサファイヤのボトルを、大切にしている。お酒に少し依存気味の傾向がある事を、本人は自覚しているらしい。背景には、強い哀しみがある。はっきりとは書かれないけれど、大切な存在の喪失。
雨沢さんがサイトを更新していたのは、2年か3年くらいの間の事だったと思う。
その間に一度、日記の更新が停止されて、架空の世界の物語が描かれた時期もある。時間軸が様々な、同じ世界の同じ町を描いた短編が、いくつも紡がれた。それらの短編にも、喪失の哀しみが流れているのを感じた。
その時期を過ぎると、また、日記の更新が始まり、RAINというお店と、雨沢さんの日常がそこに描かれた。そしてやがて更新が止まり、サイトが見つからなくなった。
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今は、どうされているだろうか。お元気でいらっしゃるだろうか。
雨沢さんは、プロフィール通りであれば、私と同い年だ。当時、二十代後半だった。今は四十代後半の筈だ。
私だけではなく、ファンはみんな思っていると思う。どうしていらっしゃるかな、お元気でいて下さるといいな、って。
私だけではなく、それぞれに、この二十年くらいの間に、色々な事があり、色々な思いを抱える事になっただろう。きっと雨沢さんも。
お元気でいて下さるといいな。哀しみは哀しみのままに、今もその手に握りしめているのだとしても。それでも、お元気でいて下さるといいな。
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RAINというお店が、とても好きだった。行った事も無い、実在するかどうかも分からないお店なのに、描かれているお店の様子を、カクテルの色を、常連客の人達の姿を、くっきりと思い浮かべることが出来た。
綴られていたのは、強い哀しみだった。だけど、筆致は静かで穏やかだった。暗闇の中で静かに佇む様子に、どこか、光を感じた。
空想の中でだけ、あるいは、記憶の中でだけ、訪れる事が出来る場所。きっと誰もが、そんな大切な場所を持っている。
今もなお、あのお店がとても好きだ。雨沢さんの作るギムレットを、目の前に思い浮かべられるくらいに。
お目に掛かれて嬉しいです。またご縁がありますように。