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紡がれていくもの。

私は、長崎県の島原半島で生まれ、18歳までの時を過ごした。穏やかな凪の海に包まれた田舎町。

私の大好きな亡き祖父、勝正は10人〜13人?の兄弟姉妹であり、海辺の小さな集落に住む一族の跡取りだった。生業は漁業。

祖父は長男ではなかったのだが、長男さんが若くして太平洋戦争にて戦死したため、祖父が跡取りとなった次第である。祖父の家の玄関を入ってすぐ左側にある純和風の仏間には、七福神の一員である、漁業の神様えびすさんの木彫りが置いてある。えびすさんには、貝殻にちょこんとのせた炊き立てごはんを、祖母がお供えしており、幼い頃は、その貝殻ごはんを持っていくのを手伝ったりしていた。

海にまつわる神様にお供えするごはんを貝殻にのせるなんて、私の祖母も粋な人だと思う。何の貝殻なのか定かではないが、カラフルなヒオウギ貝の貝殻ではないかと密かに思っている。アサリとか蛤みたいな貝殻のフォルムではなくて、ホタテの様な貝殻の形をしている。ヒオウギ貝は、勝正の息子に当たる、漁師である叔父がよく採ってきて食べさせてくれる。紫色や黄色、オレンジに赤色をした貝は見ているだけでも楽しい。

えびすさんとご先祖様が仲良く混在している祖母の家の仏間は何とも言えない落ち着きを私に与えてくれる。仏間にはもちろん、長男さんの遺影も飾ってある。一度も会ったことはない人だけれど、物心つく時分から、私の中に確かに在る人になっている。

10人以上の兄妹がいるとは、令和の昨今であれば驚くほどの大人数だが、「産めよ増やせよ国のため」というスローガンが掲げられていた祖父の時代には、そう珍しいことではなかったと推測する。厳しい戦時中から敗戦後の日本を生き抜いてきた逞しい人たちが身近にいる中で、私は育った。

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母から、「突然だけど、キミエおばちゃんが亡くなったよ。」と連絡がきたのは、6月3日、午後3時頃のことだった。

”キミエおばちゃん”とは、祖父のすぐ下の妹に当たる人で、祖父の家から徒歩2分程のこじんまりした平家に住んでいたおばさんである。享年89歳。生涯独身を貫き、ショートカットのよく似合う、くっきりと大きな目を持つ美人。真っ赤な紅をさし、物言いがはっきりとした気の利いた人である。

ルージュの口紅が彼女のトレードマークだった。

私の脳裏に、去年の春の夕暮れ時が鮮明に蘇る。

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ムンムンとした肌にまとわりつくような湿気と暑さを感じた春のある日。私は祖母の家にお邪魔し、仏間を借りてパソコン仕事をしていた。実家だと父親が時代劇を大音量でテレビで流し、時折大声で歌い、とにかくその雑音が耳触りで仕事に集中できないと静かな祖母の家に避難していたのだ。仏間はひんやりとしていて、大好きだった祖父やおばさん達の数々の遺影が壁かけしてあり、見守られているようで心地よく、仕事も無事、捗っていた。

ボーンボーンと古い柱時計が鳴ったような気がした昼時。「おっとね〜。(誰か追いますか?)」と玄関から声が聞こえる。私が返事をするより早く、きみおばちゃんが腰を曲げてしゃかしゃかと居間に上がってきた。

誰かしらの命日だったのか、春彼岸の時期だったのか。きみばちゃんは、お花と手作りのおはぎを持って、お参りに来たのだ。

私に気づき、「あら、来とったんね〜。(遊びに来ていたの!)こっちにも出てこんね(私の家にも遊びにおいで。)」と、少しお茶を飲んでまたシャカシャカと帰って行った。

集中力が切れた私は外に出た。海辺を散歩し、5時のサイレンが鳴った。湿気は相変わらずだが、少し風が出てきて過ごしやすくなった頃、私は、ふらっときみおばちゃんの家を訪れた。海とおばちゃんの家は一本の道を挟んだだけ、潮風を背に波音のBGMを聴きながら、植物で覆われた玄関先をくぐり、「おばちゃん、来たよ〜」と扉を開けた。

食事時だったようで、「あら!あがらんね、ごっつぉにならんね(家に上がって、ご飯を食べていってね)、なんもなかばってん(なにもないけど)」と出迎えてくれた。

玄関のすぐ右側がダイニングキッチン、左側にベッドルーム、2つの部屋の間の廊下の先にバス・トイレがあり、機能的でコンパクトな家の造り。ダイニングキッチンの窓からは、オーシャンビューの絶景が見える。綺麗に整理整頓され、快適な空間だった。

生涯独身であったきみおばちゃんは、二人暮らしだった。ちえこばちゃんという、これまた祖父の妹がおり、ちえこばちゃんが83歳で亡くなるまで一緒に暮らしていたからだ。

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ちえこばちゃんは、先天的なのか後天的なのか知らないのだが、脳に障害を持っていて、言葉を発することが困難で、子どものままの人だった。祖母や周りのおばさん達からは、「ちえこちゃん、ちえこちゃん」と呼ばれていた。障がい者ではあるが、私の中では「ちえこばちゃん」という括りでカテゴライズされていたので、ちえこばちゃんが、改めて重い脳の障害があると実感することは少なかった。ちえこばちゃんは、そういう人という感じだった。

小さな子どもが好きだった、ちえこばちゃん。母が双子の私の姉を産んだ時は、しょっちゅう会いに来て、遊んでくれていたそうだ。双子に年子の私という3姉妹のカオスな母の子育てを、ちえこばちゃんは、きっと助けてくれていたに違いない。母は、「ちえこばちゃんがよくみてくれていた。」と言っていた。

きみおばちゃんは、「ちえこ、ちえこ」といつも、ちえこばちゃんの手を引いて歩いていた。親戚の集まりの時は、必ずそうで、二人はセットで現れる。そして名残なのか、「ゆきちゃんゆかちゃん(私の姉)が来とるよ」と、私たちが大きくなっても、きみおばちゃんは時々、ちえこばちゃんに声をかけていた。ちえこばちゃんが、喜ぶからだろう。

その時も、作ったお彼岸のおはぎを見ながら、「ちえこが好きだった」と言っていた。センチメンタルな感じはなく、淡々と。

ピンク色の魚肉ソーセージに、小魚の揚げ物、お漬物に炊き立てごはんをご馳走になりながら、話をした。思い出したように、家の裏にある納屋からアサヒスーパードライの6本セットを取り出し、私のグラスにビールを注いでくれた。「飲まんね、飲まんね。酒は肌ばツヤツヤにするとよ、あんたんとこのお母さんも肌の艶のよかもんね。」と、ビールがどんどん注がれる。

私の母は、大酒飲みである。

なぜ、きみおばちゃんがこんなにお酌が上手いのかと言えば、それは、40代?50代?60代?頃まで博多の中州で小料理屋をやっていたからだ。祖父やきみおばちゃんの姉に当たる静江さんという、これまた美人なおばさんと二人でお店を切り盛りしていた。私が仏間の遺影でしか知らないおばさん。

きみおばちゃんは、母が子どもの頃は、福岡からバリっと着物をきて、島原半島へ里帰りしていたそうで、都の人が醸し出す洗練された雰囲気を纏っていたと聞く。もちろん、トレードマークの真っ赤な口紅は忘れない。

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私にお酒を注ぎながら、愚痴ではあるが潔く小気味良く、「我が人生」について、きみおばちゃんが語り始めた。

「私はね、ずーっと介護ばっかりしよっと。昔は、母親は子ば、ぽんぽん産むけん、私が爺さんと婆さんのご飯ば作ったり介護したりしよってね、小学校4年生ばい。10歳の私が作ったもんに、塩辛かて言われてさ、ほんとんほんとん腹たった。それで、博多で店ばしよったら、今度はしーちゃんが倒れて、癌で闘病になって、また私が死ぬまで面倒見てさ、しーちゃんがおらんごてなって店ば畳むことになって島原に帰ったら、ちえこがおるじゃろ。まぁちえこは、しーちゃんとゆくゆくは、こっちに引き取ろうって話ばしとったとけどね。ちえこはよう食べるけん、ご飯もたくさん作ってね。年取ってきて、お正月の御節ばさ、簡単にしたら、もっと豪華にしてくれて言うとじゃんば。面白か、あがんしとっても分かるとばい。そがんとこはしっかりしとるとやけんね。」

「あんたんとこの爺さん(勝正)は、みっともなかった。酒ば飲んで暴れてからさ、私が帰って来た時、お荷物扱いしたけんね。そいば見かねてさ、父ちゃんがここに土地のあるけんて、家ば建てて、私が住んどると。としちゃんは、優しかとよ〜。時々、おかずば持って来てくれてね。あん子はよか子ね。」

としちゃんとは、祖父の10人兄弟の末っ子で、高身長のイケメン。船乗りコックさんで、世界の七つの海を航海したおじさん。としおじちゃんの家には、世界中の不思議で奇妙な置物が所狭しと並んでいる。スライム型のハーシーのキスチョコは航海終わりのとしおじちゃんの副産物。

兄妹あるあるで、年の近い兄妹程、張り合いが出るのか、私の大好きな祖父への評価はすこぶる低かった。だからといって、私の祖父への評価は1ミリも変化はしない。私にとっての祖父はまた真実であり、多面的で変容するのが人間の性だから。

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「兄しゃんは、よか人やったんよ。兄しゃんが戦死して、急に跡取りになって、甘やかされてさ、あんたんとこの爺さんは。としちゃんが船に乗るじゃろ、シンガポールかフィリンピンやったか、その辺ば通る時に、サイダーば海に撒くように頼みよった。その辺で船で燃えて死んだて聞いたけんさ。熱かったろうて、喉も乾くじゃろと思って。」

「ちえこが死んでから、ちえこに言いよっとよ。はよ、迎えに来んねて。もう、面倒ばっかみる人生はよか。せいせいする。あんたんとこの姉は、外国におっとじゃろ。日本はセコセコしとるもんね、もう戻ってこんさ。」

利発な、きみおばちゃんらしく、悲壮感は何も感じられなかった。私はただただ、違う時代を生き抜いた人の話に耳を傾けていた。気がつけばアサヒスーパードライの空き缶が6本になっていて、中州で店を構えていた手腕は健在だったのだと痛感した。

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軽快に語られる内容は、興味深く、力強さを感じた。

「博多で店ばしよった時は、楽しかったよ。お酒もよう飲みよった。可愛いか洋服ばお土産にしてから、ちえこやら、照代ちゃんやらかよ子ちゃんに買って着せよったんよ。人形さんのごてして、ほんてこやらしかった。」照代ちゃん、かよ子ちゃんとは、きみおばちゃんと仲良しの姪っ子。

「川棚で兵隊さんば見送る時はね、、、、、、、。」

川棚とは、長崎県中央部にある町で、戦時中には海軍の重要軍事基地となった。きみおばちゃんはそこで、魚雷の部品を作っていた経験もあるらしい。空の特攻隊だけでなく、川棚では海の特攻艇として人間魚雷「震洋」や「魚雷」、「回天」などの特攻隊員を訓練していたという歴史がある。3000人余りの若き命が亡くなった。

もしかすると、きみおばちゃんにも、内に秘めた語られぬ悲恋の物語があったのかもしれない。

私を紡ぐものは、数知れず。編まれていく大きな網の一部に私もきみおばちゃんもいて、繋がっている。ぎゅしぎゅしっと私の中に結ばれて、一体化するような、それは心強く思える感覚だった。きみおばちゃんの生きた歴史が、刻まれていく。。

きみおばちゃんの家のビールを飲み干した私は、「今度ビール返しにくるけん。」とおばちゃんの家を後にした。

その日、夜の海は、美しかった。

結局、ビールを返しに行かないまま、軽井沢へひょっこり移り住んでしまったので、7月実家に帰省した際、ビールを持って墓参りに行こうと思う。

きみおばちゃんの生き抜いた人生に祝杯をあげよう。

Smiycle








Smiycleとは、smileとcycle​をかけ合わせた造語。笑顔は幸せの連鎖を作る。笑顔のサイクルを作りたいという思いから、浮かんだ言葉です。笑顔をプロデュースする活動や記事を続けていきます。サポート頂けたら、幸いです。https://twitter.com/smiycle