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1人で生きて気づいたこと、コンクリートの海にて(2)

私は自分に常に重しを乗せていく
だってそうしないと
ヘリウムの詰まった風船みたいにふわふわとどこまでも飛んでいってしまう

そんな自由な生き方は悪いことだ、と思っていたんだよね

「あんたは自分が思っているほど可愛くないから、
調子に乗らないほうがいいよ」by母

高校生の私に投げられた豪速球の言葉
たぶん母からしたらポーンと放っただけの言葉

この言葉は私の中で深くて濁った重たい沼みたいに広がった
私はかわいい方だよね、と自惚れていたことが恥ずかしくて堪らなかった
同時に、
今まで私のことをかわいいかわいいと褒めそやしてきた両親に
裏切られたような気がして、「褒め言葉」を信じられなくなってしまった

それからというもの、何をしていても、私の足は心の沼にはまったまま、ふわふわと飛び立つことなんてできなくなってしまった
己の立ち位置をしっかりと把握し、調子に乗ってはならないという教えが、私をきつくきつく縛っていた


奥ゆかしき日本の精神

調和を求められる国、ここ日本で
自身の秀でていることをひけらかすことは悪とされている

勉強ができても、顔が可愛くても、運動ができても、それを自慢げに語れば疎まれ、謙遜のための自己を否定する言葉ばかりを身に纏う日々

でもそれが普通だったし
普通に生きるためには必要なことだったし
調子にのると、ほら、仲間外れになっちゃうし
そうやって自分を押さえつけて、沼に沈めて
時には反動で、正しく自己を認識できてない友人を非難したりもした
私にとって「地に足をつける」ことは義務だった


結果、どうなったのかというと
私は自死しか考えられないほど追い詰められた

もっと正確に言うと、
誰か私を殺してくれ、誘拐してくれ、事故に合わせてくれ、私以外の手で私の人生を止めてくれ、と願わずにはいられなくなった

大学生になった私は、自身の考え方がおかしいこと、間違っていることに気づいていた
それでもやめられない、沼から這い出ることができない
ふわふわと飛べる人たちがうらやましくてたまらない
こんな歪んだ認知を抱えたまま生きていたくない

暴走する列車は、ぶつかるまで止まれない
自身ではどうにもできなかった
重しを無くしてふわふわと飛ぶ勇気がなかった

だって打ち落とされてしまう
他者は常に私の足元を掬おうと待ち構えていると疑っていなかった

だから私は私の足に重たい枷をはめ
一歩一歩慎重に、着実に歩むことしか考えていなかった


「生きるのは自分なんだから、自分で決めていいんだよ」by元彼

インターン生活を送る中で、懐かしい人々と話をした
彼もその一人
「私は何事からも逃げた結果、ここにいるだけなんだよね」と自嘲気味に話す私に、ガムシロップみたいにさらさらと甘い言葉を注ぐ彼
この言葉をもらうまで、
私は自分の人生を「自分で決めて良い」ということを知らなかった

人から非難されないように人生を歩もうとしてきた私にとって
「自分で決める」ということは、「他人の意思を無視する」ことであり
それはダーツの的として、自ら大衆の前に躍り出るような
それはそれは恐ろしいことだった

でも、他人を軸に生きたところで、誰がその責任を負ってくれるのだろう
結局、すべての行動は私に返ってくる
他人を理由に逃した機会、送り損ねた言葉、通わない心、薄っぺらい関係
全部全部、少し遅れて私に帰ってくる
やまびこより遅く、季節が巡るより早く、その事実に気づく

この重し、もしかして外してもいいんじゃない?

彼の言葉と一冊の本をきっかけに、
今まで目を向けていなかった事実に対峙した

そうすると、景色が鮮やかになった
自身を可愛く飾ることにまどろっこしい理由なんていらないんだとわかった
他人に揶揄されようと、私の価値基準で判断をしてもいいんだという事実

それに気づいてから、私は足枷をはめたり外したり、ふわっと浮いたり地面にくっついたり、少しずつ「自由」を手にしている


自身を客観視すること自体はとても大切なことだと思う
でも、客観視をした後
こねくりまわして型にはめて蓋をして焼いた真四角な食パンみたいに
押さえつけて、どうにか形になるような生き方は
たぶん間違っている




続きは書けそうににないので、ひとまず完結
心の準備が出来たら、また書きます


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