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【エッセイ】夫の遺影を何とかしたい!

私にはずーっとずっと気になっていたことがあった。
かれこれ15年、最愛の夫がこの世を去ってから何とかしたい何とかしたいと思い続けて来た。
こればかりは誰かに相談する性質のことでもないし、世の中の人は気にすることではないかもしれないが、私の心の片隅でいつも燻っていた個人的な思いであった。
当時夫は45歳でバリバリ仕事をしていた。商社の営業マン、肩書は支店長代理いわゆる中堅管理職であった。
誰に対しても同じ態度で物腰が柔らかく、人柄は素晴らしく上司からは期待され部下からは信頼されていた。
明るいムードメーカーで夫を嫌う人はいなかった。
人と関わるのが好きで努力家、常に向上心を持ち続けていた。
趣味はゴルフと読書、本が好きで暇を見つけては本屋に通いあらゆるジャンルに詳しく、知識が豊富で、老若男女問わず誰とでも話しが出来る営業マンの鏡の様な人であった。
自宅から会社までは乗り継ぎながら、電車と徒歩で片道1時間半はかかる。
朝は通勤ラッシュでぎゅうぎゅう、残業はほぼ毎日、度々事故で電車が立ち往生し遅延は当たり前、それでも一度も愚痴を聞いたことがなかった。
休みの日もパソコンに向かい会議の資料を作成したり、出張に必要な書類を作っていた。
休みであろうが携帯電話にバンバン連絡が入って来る、とにかく毎日忙しい。数字に追われる日々を過ごしていた。
出張も度々あり、時には中国やオーストラリアに出張へ行くこともあった。
その時分は子供たちが大学生でお金もかかり、夫は家族のために頑張ってくれていた。

ある日珍しく夫が風邪を引いて熱を出して寝込んでしまった。
二日ばかり寝ていたら、昔したギックリ腰の影響で腰痛が出て歩行が辛そうだった。
出張があるから何とかして会社に行きたいというのを家族で引き留めたが、渋々2日だけ休みを取ってまだ本調子ではない体で出勤した。
数日してやっと土曜の休日が来た、体はまだ本調子ではなく腰痛もあり時折咳込んだりしていたが、少しは快復しているように見えた。
午前中は気分が良かったのか近所の本屋に出かけたり、体操をして体を動かしていた。
昼からは週明けに出張があるからと、いつものようにリビングでパソコンに向かい資料を作成していた。
会社の同僚から仕事の打ち合わせの電話が掛かって来て、端からは電話の2人の会話の声が弾んでいたように感じた。
急に痰がからんだと言って、パソコンから離れ洗面所へ向かった。その途端バタンという音と共に夫の姿が消えたと思った刹那、夫は洗面所で倒れてしまった。
陽が沈みかけた4時過ぎのことだった。
休日に家族とリビングで団欒を楽しみながら、今しがた笑っていた数秒後に夫に何が起こったのか、一瞬で世界が変わってしまった。
慌てふためく私は何とか119番を掛けた。

救急車が到着するまでの時間が何十分にも感じられて、その間夫の手を握りながら「神様、仏様」と祈っていた。
救急隊員の方々が来られてから、夫と私が救急車に乗りこみ病院へ到着するまでの数分の記憶がずっとない。遠い記憶の片隅に残っているのは、病院の救急搬送の小さな待合い室で肩を落として一人座っている私の姿である。
しばらくして医師が来られた。「8割がた死んでいる状態で運ばれて来ました、即死に近いですね」と、その言葉に絶句し声が出なかった。
私の頭はフリーズし医師の説明が入って来ない。これは現実なのか夢なのか、ドラマでも見ているのか、ドッキリなのか、この状況が理解出来ない。
夫の兄に電話し、子供に電話し、実家に電話し、それが精一杯だった。
結局、病院に運ばれて数時間で息を引き取った、死因はクモ膜下出血だった。あっという間であっけない最後だったが、家族がみんな揃ってからの臨終だったのがせめてもの救いだった。
もう日付が変わっていた真夜中、そこから一気にドタバタ劇場になった。
悲しむ暇も落ち込む暇もない。家族親族で必死の葬儀屋探しが始まった。
明け方近くにやっと見つけた葬儀屋での打ち合わせを皮切りに、我が家の怒涛の3日間の幕が開いた。
夫の会社から関係先に連絡するのが私の一番の仕事だった。
銀行へ行き当面必要なお金の引き出しが終わったら、葬儀屋での打ち合わせに兄弟家族と合流した。
会場の選択、祭壇の選択、棺桶の選択、お花の注文、会葬返礼品の注文、お寺への連絡、お布施の準備、喪服の着付けに頭のセット、受付の人の依頼、とにかく一つ一つ決めるのに時間を要した。
連日の降雪で部屋干ししたままの洗濯物がそのままで、流しには洗いかけの食器が散在した状態、家の中は夫が倒れた時間から止まっていた。
帰宅したらまずは部屋の片付け掃除をする必要があった。こんな状況下でも食料品を買い出しに行き、ご飯を作り、洗濯機を回し、ゴミを出す、日常生活をしないといけない。
夫がこの世の人でなくなった以外は何も変わらない、不思議な感覚のまま時間が流れていった。
食欲もなく落ち着かない気持ちのまま、遺影用の夫の写真を探さなければならなかった。

15年前はまだガラケーの時代で携帯で撮った写真は画像が荒く不鮮明だった。
写真といえばプリントされた紙媒体が主流で、我が家の膨大な数の写真の中から選ぶ必要があった。
ただ、夫が一人で写っている写真はほぼなく、いつも誰かと一緒の写真ばかり。
帽子を被っていたり、顔に影が映っていたり、目をつぶっていたりと夫らしい良い写真がない。
運転免許証の写真なぜか三面記事に載るような人相をしていて、とてもじゃないが遺影には使いたくない。虫眼鏡を片手に写真を探すこと三時間、深夜0時をとっくに過ぎて疲れてしまった。
ましかなと思う写真が一枚あった。それはお正月に私の実家で撮った家族写真だった。撮影者は母で上手に撮れたと自慢していた。
L判に10人が納まっているのだから、一人一人の顔はかなり小さい、それでもこの写真以外に選択肢はなかった。
通夜当日の朝、葬儀屋に写真を渡した『何とか引き伸ばして遺影を作ります』とのことでお任せした。
準備のある中、私には喪主の挨拶という大きな仕事が与えられていた。
参列して下さる親類縁者の方が次々に来られ一人一人に挨拶をしながら、頂いた喪主挨拶の例文をもとに言葉を考えるのにかなり時間がかかった。
考えている横で私の弟が一言『文面書いてもマイクの前に立ったら頭が真っ白になって言葉が飛ぶよ』と。真剣に言ってくれているのか、アドバイスなのか、冗談なのか、受け止める心の余裕が私には全くなかった。

刻々と時間が過ぎ、祭壇の準備が整いお花が次々に届き立派な葬儀会場が出来上がった。
最後に遺影を設置して頂いたその瞬間、私はその遺影から目が離せなくなった。
『ん?えーーーっ?夫って…こんな顔?』違和感を感じたが、2時間後には通夜が始まる。
お寺さんを迎える準備で誰かに話しかけてる暇は無い。とにかく無事に通夜を務める、それだけだった。喪主の挨拶がスラスラ上手に出来たようで、400人の参列者の涙を誘った。
母からの『喪主の挨拶が素晴らしく、感動して涙が出たわ』と褒めコトバを頂き、やれやれと胸を撫で下ろし無事に通夜は終わった。
その夜は家族で葬儀屋の控室で一夜を明かし、告別式当日早朝から打ち合わせに親族が顔を合わせた。
人の出入りが多く目まぐるしい時間が過ぎ、あっという間に告別式を迎えた。
葬儀屋での一連の式が終わり、火葬場へと場所を移した。夫と最後のお別れをして数時間後にお骨拾い、やっと怒涛の日の幕が閉まりつつあった。
家に到着すると手際よく、葬儀屋が仮の祭壇を拵えてくれた。
我が家には仏壇がなく仏壇を購入するまでの間、仮の祭壇を使うという説明だった。
夫の両親も、私の両親も健在だったため、家から葬式を出す事は今回が初めてだった。
人の話から『お葬式は大変』と聞いていたが、本当に大変だった。
幸いだったのは、香典を受け取らない方法を選択したことだった。最近は受け取った香典を自治体に寄付をして香典返しをしないらしいが、当時はまだ香典を受け取ったら香典返しをするのが主流だった。
想像以上に参列者も多く、海外からの弔電もお花もたくさん頂いた。ありがたいことと感謝すると共に夫の功績に敬意を抱いた。

全てが終わった翌日、仮祭壇を見て再び違和感が出て来た。理由はやはり夫の遺影だった。
今はスマホで写真を撮り、修正も思いのまま。何より画質が綺麗で引き伸ばしてもボケたりしない。
けれど、その技術は15年前には無かった。
L判の写真の小さな小さな顔を上に伸ばし、下に伸ばし、横に斜めにと伸ばした結果画像は更に荒くなりピンボケな感じ、そして『どなた?』と言う顔で仕上がっていた。
どこかで見たことのあるその顔は…一方的によく知ったいた。
数日してお寺さんがお参りにやって来た。遺影を見るなり『ご主人は軽部さんにそっくりですね』と言った。軽部さんとは、お馴染みのフジTVアナウンサーの軽部真一さん。
そうそう夫は軽部さん似と言いたいが、実物は全く似ていない。あっちにこっちに引き伸ばした結果、軽部さんのそっくりさん顔になったその遺影を天国の夫はどう感じてるだろうか。
法事の度にお寺さんから軽部さんにそっくりと言われ、いちいち事情を説明することも出来ず、親類縁者からは『軽部さんみたいな顔してたかな?』と不思議がられた。
子供に至っては『別人みたい』率直な感想。
自然と遺影は部屋の目立たない場所へと移動した。
『あーもー何とかしたい』年々思いが募るばかりだった。
還暦を機に『何とか』する日がようやく訪れた。
節目の年に家のリフォームを決めた、その為にはまずは断捨離をしなければと最初に手を付けたのが、大量にある家族写真とアルバムと、撮り貯めたビデオテープだった。
ビデオテープはDVDにダビングをすることにした。残す写真と処分する写真、一枚一枚思い出が詰まっていて確認しながらの作業は何日もかかった。
とっておきの写真だけを残して、大量の写真が処分対象となった。
写真を焼却ゴミとして処分する気が起こらず、ダンボールに入れて梱包し島根県のお寺へ送り、お焚き上げをして貰おうと考えた。
いわゆる写真供養である。
これで気持ちも晴れやかになった。
大量のアルバムの中から、立派な表紙の家族写真が出て来た。
20年前に写真屋さんで家族写真を撮ったことをすっかり忘れていたのである。
アルバムの写真のほとんどは色が褪せていたが、その家族写真は最近撮ったのかと思うほど高画質で大変綺麗な状態だった。

私は『ピン!』と来た。
遺影を変えよう!
この家族写真の夫の顔を遺影にしようと考えた。
写真供養を頼むのだから、ついでにこの軽部さんのそっくりさん顔の遺影も一緒にダンボールに入れたらいいんじゃないかな、『ナイスアイデア!』と声を発した。
それから、この家族写真から夫の顔を遺影の大きさに引き伸ばすにはどうすれば良いかネットで調べたが、これだというのが見当たらない。
近所にあるカメラのキタムラに聞いてみたが、万はする。
あまりお金をかけたくない、そこで色々考えた挙句私が思い付いた安易な方法は、家族写真を自分のiPhoneで撮影し、編集し、プリントアウトするというものだった。
A4のインクジェット紙を買って来て、ダメ元でやってみたら、驚くなかれ!
写真屋で仕立てたかのようなクオリティの高いA4の写真が出来上がった。
少し若めの素敵な夫の顔写真である。嬉しさのあまり小躍りした。
その一方で、ちょっと気になる事が出て来た。
『遺影を変更して大丈夫なの?』
『遺影を差し替えする家があるの?』と言う子供の声だった。
確かに遺影を変えたと聞いた事は今まで一度もない。喜んだのも束の間、急に心がざわざわし出した。
遺影を変更して不味いってことがあるのだろうか?
私は遺影の事について調べてみた。
その結果、面白いことが分かった。写真が一般的に普及しだした時代に、葬儀屋が故人の生前の写真を額縁に入れて祭壇の上に飾るようになった、いわゆる葬儀屋の考えた葬儀アイテムだというのである。
写真のない時代には遺影は存在しなかったのだから、遺影の変更は何の問題もない。これで堂々と本来のありのままの夫の顔で遺影を作ることが出来る。
心の落ち着きを取り戻し私は、この際額縁も素敵なモノに変更しよう、故人を忍ぶアイテムなのだからと考えた。
今、夫の写真がリビングで家族を見下ろしている。強い思いは必ず叶うと実感し、写真を見上げながら満面な笑がこぼれる。
『お父さんだ』と子供が言う。
夫の遺影を何とかしたい!
長年の思いが私の心の中からスーッと消えたその日は、夫の祥月命日であった。

#創作大賞2024
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