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ショートショート:鏡の中の男

男は出勤前の髭剃りをしていると、洗面台の鏡を見てふと『お前は誰だと鏡に問い続けると精神が崩壊する』という都市伝説を思い出した。昨日テレビで観てばかばかしいとは思ったが、話のネタにはなるかもしれない。ちょっと試してみるか、と思い鏡に話しかけてみた。

『おい、お前は誰だ?』

当然返事はない。確か言い続けるんだったなと男はもう一度鏡に問いかけた。

『お前は誰だ?』

『俺は俺だよ。』

『えっ?』

男は驚いた。なんと声が帰ってきたのだ。かすかだが確かに聞こえた。

『お前は誰だ?』と鏡の中の男が問い返してきた。

『俺が俺だよ。』と男は返す。

そこからは何も聞こえなくなった。気が動転した男だったが、ふと洗面台の時計を見て我に返った。遅刻寸前だ。慌てて準備をして部屋を飛び出す。

男は無事遅刻せずに職場に着いたが、鏡の件が気になりその日の仕事は上の空だった。あれはいったい何だったんだ?最近よく眠れていなかったからかな?今日はリラックスして早く寝るか。そう考えた男はきっちり定時で退社し、いつもより多くの酒を飲み早めに眠りについた。

翌朝、再び洗面台の前に立った。昨日一晩考えたが、やはり疲れているだけだったんじゃないだろうか。そう思いもう一度話しかけてみることにした。

『おい、お前は誰なんだ?』

『なんだよ、俺は俺だよ。』

男は再び驚いた。気のせいじゃない、鏡の中から返事が聞こえる。決心したように男は鏡に質問を続ける。

『お前は何者だ?』

すると鏡の中の男が質問に答えた。

『俺はただのサラリーマンだ。N社に勤めている。今27歳で独身だ。』

『なんだって、それは俺じゃないか!』

『何言ってるんだよ。俺のことだよ。』

『もういい!やめてくれ!』

『こっちこそやめてくれ!俺が俺なんだ!』

その言葉を最後に声は聞こえなくなった。

男はすっかり気が病んでしまった。自分は本当に自分なのか?鏡に映っているあいつが本当の自分なのか?男の頭の中は不安でいっぱいになり、その日を境に仕事を休むようになった。恐怖から洗面台の鏡に新聞紙を貼り、ガラスにも紙を貼り自分の姿が映らないよう徹底するほどに男の精神は崩れてしまったのだ。

心配した会社の同僚が男の家に会社付きの産業医を向かわせた。最初こそ断っていたが、何度も訪問されるたびに少しづつ話せるようになり、一度本格的なカウンセリングを行うことになった。

カウンセリング当日、まずは産業医が男に質問をはじめた。

『やぁようこそ。まず体を楽にして。さて、君に何が起きたかを教えてくれるかな?無理に全部話さなくてもいい、少しでもいいから教えてほしい。』

『鏡です…。』男は絞り出すように答えた。

『鏡って、あのものを映すアレかな?』

『そうです…。鏡の中の自分が俺に言うんです...。俺こそが俺だって。』

『君もか!』産業医は驚いたように答えた。

『え?』

『他の患者で全く同じことを言ってる人がいるんだよ。ほら、君の同期の、寮で隣に住んでる人だよ。』

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