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ある新聞記者の歩み 21 牙を抜かれる前の誇り高き時代の大蔵省こぼれ話 地下に霊安室?!

元毎日新聞記者佐々木宏人さんの経済部大蔵省担当完結編(3回目)は、官庁の中の官庁と言われたエリート官庁大蔵省(現財務省)での見聞記です。どんな人がいて、他の官庁とはどんな関係で、銀行・証券・生損保などの関連業界とはどうだったのかなど具体的エピソードを伺っています。そのあと、大蔵省にとって大きな分岐点だったこの当時のことを振り返って、佐々木さんが今あらためて思うことを語っています。(聞き手=メディア研究者 校條諭)

◇官官接待の日々、たくみに誘う民間金融業界

 Q.佐々木さんが大蔵省担当となったのは1981(昭和56)年から83(58)年までの間の2年間ほどですね。今回はその間に見聞きしたエピソードを中心にまず伺います。
大蔵省の記者クラブでのお役人や記者仲間との付き合いについて関心があるのですが、麻雀はかなりやりましたか?

最初からすごいことを聞きますね(笑)。記者クラブの廊下を挟んだ向いの会見室の隣の小部屋に麻雀卓がありました。東南西北(とんなんしゃーぺー)がない、振り込んだ人が抜けて待っている記者が入るという新聞記者ルールの麻雀でしたね。通称“チャカラ”と言っていました。事件があればいつでも辞められる、飛び出せる、いつでも抜けられる。しかし4人しかいないといつまでも終わらない(笑)。一回ごとの現金払いというルール、一翻五十円か百円という感じかな、満貫積もれば300円、600円オール、900円、1800円入るというわけ。

 Q. 一緒にやるのは記者仲間ですか?大蔵省のお役人は入ってこないんですか?

記者仲間が主ですね。それも各社のキャップ連中でしたね。ペイペイの記者は「麻雀やるのはまだ早い、回って特ダネ取ってコイ!」という感じ。まあ役所の人は入ってきてませんでしたね。でも好きな人が入ったって聞いたこともありましたが・・・。

 Q.一緒に飲みに行くとか誘われるとかそういう関係はあったのですか?

 あまりなかった感じですね。大蔵省と(以前担当した)通産省(現経済産業省)を比べると、大蔵の方は外部からの接待の方が多かったんじゃないかな。

 Q.接待を受けるという意味ですね?証券会社とか銀行とかのMOF担(モフたん=大蔵省担当者)の人からですか?そういえば、だいぶあとのことでしょうが、前回も触れましたが“ノーパンしゃぶしゃぶ”っていうのが問題なりましたね。

 例えば主計官なんかは、むしろ担当する各省のお誘いというか、事前の打ち合わせがすごかったんじゃないかなあ。細かい作業は部下にまかせて夜はなかなか部屋では会えませんでしたね。 でもその飲み会の後、役所に戻って来て仕事をするというのが普通でしたね。まあ、よく仕事していたなあ。彼らが退官したあと、その人を囲んで各社の記者が集まって、慰労会をすることはありました。

 Q.銀行とか証券会社のMOF担(大蔵省担当)の人に、取材に行くような事はあったのですか?

 それはむしろ逆で、彼らがこちらに情報を取りに来ましたね。「〇〇はどうなんですか」とかね。僕は日銀担当をやったことないから、あんまりないんだけど日銀担当経験者は、MOF担の人たちとけっこうつきあったのじゃないかな。そういう連中と我々とで酒飲んだりということはけっこうありました。でも基本的には銀行・生命保険、損害保険会社は銀行局、証券会社は証券局の管轄、こちらは予算担当の主計局・主税局が取材の中心ですから関心のずれがありますよね。

 Q.ノーパンしゃぶしゃぶ事件はだいぶ後のことですが、当時はそういう雰囲気はなかったのですか?

 それはなかったと思います。あの事件はバブル経済最盛期の1998(平成10)年頃の話で、僕の担当当時(81~82年)は派手な話は聞かなかったです。だけど僕もデスクや、部長時代、銀行の役員クラスと付き合ったけど、銀行側にはワルがいたからね。海千山千の中小企業のオヤジ相手に商売をしていた人たちだから、あの人たちの方が一枚も二枚も上手。真面目で世間知らずの大蔵省の役人なんぞ、篭絡するのはチョロイもんだったと思いますよ。

  (参考)ノーパンしゃぶしゃぶ事件
  https://www.dailyshincho.jp/article/2018/05030615/?all=1 

(デイリー新潮)

◇がんばる田舎出身者が消えた・・・

Q.佐々木さんから見て大蔵省の人材というのは、それまでつきあっていた通産省の人などと違いますか?

 やっぱりプライドがありましたね、各官庁がみんなひれ伏してたから。それと政治家もひれ伏してたでしょ。地元の橋だとか道路だとかいうのは建設省や自治体の担当といったって、金の配分の大元を押さえているのは大蔵省ですから。それにみんなひれ伏すわけですよ。大蔵省がトップだということでみんな認めていたし、大蔵省の役人自身そこをわきまえて、ふんぞり返ったりしないということはあったんでしょうね。中にはいたでしょうけど。自戒してたんじゃないかな。よく、昔は官僚支配だったと言いますが、もっと言えば大蔵省支配だったわけです。

 前回お話しした主税局長だった福田幸弘さんの「連合艦隊-サイパン・レイテ海戦記」とか、主税局長、国税庁長官を歴任して僕が経済部長の時の次官・尾崎護さんなんていう人は、明治の時代の誰だったかな何冊か伝記を書いてますね。そういう意味ではきちっとした人が多かったように思います。偉ぶらず、知性があったような気がします。自分の世界を持って、MOF担のちやほやに溺れる暇はなかったんじゃないかな。

尾崎護氏の著書

Q.今と比べるとほとんど東大法学部だったでしょうか?

 まあそうでしたね。今の財務省の次官の矢野康治さんが“初の一橋大出”と言われるほどだかから「東大、それも法学部でなければ人にあらず」という感じはあったな―。でもその頃以降からだんだんと官僚気質も変化していったように思います。

 第一次石油危機の時の各社の取材仲間と、当時のエネ庁長官など通産省関係者との“石油戦争戦友会”というのがありました。取材当時の思い出話をするんです、大分長く続きました。バブル後の集まりだったかな、出席していた当時の通産省の秘書課長、人事・採用担当でもあるんですが、彼がボヤいていったことを記憶しています。

 「昔の役所には名前も知らない地方の高校の“田舎の秀才”が、その高校の創立以来初めて東大に入って、卒業後役所に入ってきた人物が一人や二人はいたんですよね。田舎の期待を一身に背負って泥臭く頑張るんだよね。それが役所のパワーになっている面もあったんですよ。ところが最近はそういう田舎の高校から人が来なくなった」というわけです。というのは偏差値っていうのができちゃったでしょ。その高校の偏差値が決まっていて、その高校からは東大は無理-と決めつけられるわけ。田舎の高校始まって以来の秀才も、俺は無理だとあきらめちゃう。それで東京・大阪など大都市の有名校出身者が幅を効かすことになっているんというんですよ。

 僕は麻布高校だったけれども、霞が関界隈では「麻布を出たやつに次官はいない」って言われてたんですよ(笑)、というのはそういう田舎から出てきた連中と次官競争で競り合うと「そんな出世競争?カッコ悪いよ」、といって都会人だから降りちゃうんです。ところが東北や九州、四国などの田舎の高校の出身の人たちは、郷土の名誉にかけて、絶対負けられないと言ってがんばるんですよ。じゃがいもみたいな顔してるんだけど(笑)頭はいいんです。でもこういう人たちが、国土としての日本という全体を見渡せる目を持っていたんでしょうね。今みたいに東京の進学校の開成高校出身者ばかりが、幅を効かせる官僚社会というのはどうなんだろう。

 大蔵省にも本当のド田舎出身の優秀な人っていうのがいましたよ。新聞社もそうでしたね。開闢(かいびゃく)以来初めて東大に入ったという九州の高校からの人が政治部にもいましたね。ガッツありましたね。

◇地下の“霊安室”と“大蔵温泉”

 Q.「開闢会」ってのが東大にあるって昔聞いたことがあります。おっしゃったようなめったに東大に入らないような高校の出身者の会です。

 そうなんですか。そういう人たちはものすごくガッツがありましたね。ちょうど、親父さんが戦争で亡くなって母一人で苦労して育てて、郷土の期待を一身に背負って頑張らなくてはいけないという世代ですよね。役所に入って夜の夜中まで時には徹夜してまで、主計官なんかそうやって仕事やってました。今でいうブラック企業どころじゃないです(笑)。

 地下には「霊安室」っていうのがありましたよ。霊安室っていうのはね、疲れて寝る場所なんですよ(笑)。いわば仮眠室。風呂場もあって、通称「大蔵温泉」と言ってました。予算編成のピーク時の年末には主計局の約360人中、200人は泊まり込みという状態になります。霊安室には30人も泊まれない。仕事部屋のソファー、机の上でのうたた寝、ごろ寝。超勤時間200時間から300時間はざらの“最強のブラック職場”。とにかく「坂の上の雲」を目指して何が何でも、日本を一流国にしようという時代だったから我慢できたのかもしれない。

 新聞記者もそうでした。この連載の14回目の政治部時代の中で触れましたが、40日抗争の時なんかひどかったね。最初は一週間で済むと思ってるから、一週間の夜中の二時帰宅、朝6時迎えのハイヤーという夜討ち朝駆けでもうヒーヒー言うわけです。そうしたらまだやってて、あと3日ぐらいで終わるだろうと言っているうちに40日も続いちゃったんですから。そうなると、自民党本部にある平河クラブで頭を使う麻雀なんかやってられないんですよ。とにかくもう頭が回らないから、出前の丼を洗ってサイコロ賭博のチンチロリンかなんかやってましたよ。

 民放の記者連中は、そういう時は基準外賃金が青天井なんですよ。毎日なんかは基準外打ち切りで、ほとんどを基準外なんかつかないです。ついてもちょこっとだけです。民放の政治記者は、その当時で給料が基準外を入れて70万とか80万とか100万とか出たって聞きました。でも国民にこの政治の動きを伝えなきゃって、かっこつけて言えば新聞記者としての使命感があったよね。まあ面白がってやってたことも確かだけど(笑)。

 今うちの娘なんか大手広告代理店に入ってて、独身の頃は12時、1時に帰宅がザラだったけど、うちの奥さんが、カンカンになって怒ってました。昔の亭主のこと忘れて「なんでそんなに働いてるの。会社がおかしい」なんて(笑)。僕はニヤニヤしているんだけど(笑)。
 

◇キャリアの謙虚さはどこから来る?

Q.大蔵省の問題ではよく東大でのキャリア官僚と、ノンキャリア職員のことが格差社会の典型のように言われますよね。

 当時、大蔵省全体として職員は1万5千人くらい、その中でキャリアの人(公務員試験1種合格者)たちは900人くらいしかいないんです。キャリアとノンキャリア(公務員一般職試験合格者)の差は天と地、ノンキャリの人は各局の主要課長にも、主要局長にもなれない。僕が担当の頃、初めてノンキャリの人が印刷局長や地方の財務局長になったというので話題になりました。

 ただ主計局でもそうですが、細かい数字の実務はノンキャリの人がやるので、彼らは膨大な何千ページにも及ぶ政府予算書の数字を常に間違えず作成する、縁の下の力持ちなんですよね。この前、国会でデジタル庁の設置法案などで誤字脱字が何十ヶ所もあり、国会で大問題になりましたよね。彼らを掌握しないで、意地悪されたらキャリアの首は飛ぶでしょうね。われわれはノンキャリの上に乗ってるんだ、キャリアの人たちの謙虚さは意識としてかなりあったんじゃないかな。

 ただ今でも忘れられないのは、この大蔵省の連載で寺村キャップの下で「主計官物語」という十数回の連載をやったと話しましたね。連載終了時、赤坂の小料理屋で20人近い主計官全員を呼んで、打ち上げの宴会をやりました。その時、数字の管理や庶務担当のノンキャリアの主計官が3人いたんです。年齢がみな50過ぎ、若い30過ぎの出世欲でギラギラしたキャリアの主計官たちと我々の話の輪に入らず、三人で隅の席で固まっていた姿が記憶に残っています。なんか申し訳ないような複雑な感じを持ったことを思い出します。こういいう人が大蔵省を支えているんだと、日本の官僚制の格差構造を身を持って体験しましたね。 

◇女性キャリア片山さつきさん

Q.当時の大蔵省には女性のキャリアはいなかったんですか?

 いましたよ現在参院議員で大臣経験もある1982年入省の片山さつきさん(旧姓朝長)。「すごい美人が入省した」というので、配属された主税局総務課に用もないのに行きましたよ。片山さつきさんは宇都宮大学の農学部の教授の娘さんと記憶しています。 キャリアは窓を背にして前の方に座るんです。ノンキャリの人は廊下に近い方にいるわけです。主税局の仲良くなったノンキャリの人が、僕のところに来て、「佐々木さん、今日は片山さんの下着は〇色でしたよ」って(笑)。一挙手一投足注目の的でしたね。今の時代考えられないよね(笑)。

女性の入省は、後に東大教授に転身しラトビア大使にもなった1977年入省の藤井真理子さん、そして、81年副財務官を最後に退官した石井菜穂子さんに次いで、片山さんという感じだったのかな。その前は65年入省の国会議員になった中山恭子さん。ご主人も元大蔵官僚で衆院議員で大臣経験もある中山成淋さん。

中山さんとは思い出があって、彼女がワシントンのIMF(国際通貨基金)にいた時、特派員だった寺村キャップと面識があり、その縁で大蔵省の新宿区内の寮でマージャンを囲んだことがあります。僕はコテンパンに負けて払えず、彼女は官房調査課にいたと思いますが、翌日、封筒に金を入れて返しに行ったことがあったなあ。

Q.その霊安室生活にも片山さんは付き合ってたわけですよね?

 それは聞いたことないなあ(笑)。片山さんは最後は防衛担当の主計官でした。

 Q.舛添要一さんと結婚・離婚したんですよね?

 舛添要一さんって確か福岡の出身で、親は事業で失敗して大変だったようですね。それを跳ね返して、東大の助教授、国会議員、都知事に上り詰めました。ガッツがスゴイね。そういう意味では麻布、開成、灘みたいな、裕福なバックを持つ人たちの雰囲気とはやっぱり違いますね。その辺が片山さんと合わなかったのかな。

 Q.大蔵省にはほかに幹部付の女性秘書もいるわけですよね。

 そうです。だいたい30代から40代。次官、局長に会うには、この女性秘書の“関所”を通らなくてはなりません。そのため秘書さんと顔つなぎをするため、次官や主計局長の秘書2、3人つれて、僕がたまたま知った六本木のマンションの中にあった、ゲイバーかなんかに行ってどんちゃんさわぎ。帰りはハイヤーでイケメンの若手の某記者に送らせて(笑)・・・。 

Q.秘書は必ずついているんですか?年齢はどのくらいの人ですか?

 局長と次官はかならず秘書がついてます。みんなお局(おつぼね)さんですね。独身だったと思います。若い人だったら、麻布のマンションの一室のゲイバーなんか連れていけませんよ(笑)。各社ともそういうことやってたんじゃないかな。彼女らにしてみれば、会社の“ダンナ”である次官などが夜な夜な政治家、財界人との会合に行ってるから、時には私たちも―という感じかな。

 ◇大蔵省裏の裏

Q.寺村壮治さん(第19回参照)が博報堂にスカウトされ、ワシントンに行かれた後のキャップはだれがなられたんですか。

 キャップになったのが経済部の森田明彦さん、確か日銀担当から来たんじゃなかったかな。一昨年亡くなりました。面白い人だったな。森田さんが中心になって紙面に連載した「大蔵省裏の裏」(同友館、1983年(昭和58)年6月刊)という本があります。

森田明彦さん

Q.Amazonで見ると、新本はなくて古本をなんと3万円で売ってます!

 エッ、ホント!僕も持っているからメルカリに売りに出すかな(笑)。あまり部数が出ていないので、高値が付いているのかな。200㌻に満たない本だけど、内容は国債発行の危険性、消費税の必要性などを、取材で裏付けのあるキチンとした話を分かりやすく書いてあり、中身の濃い本だと思います。今読んでも考えさせられますね。

森田明彦著『大蔵省裏の裏』(同友館、1983年)

 Q.企画の発想はどういうイメージですか、なんか「裏の裏」なんてキワもの風に見えますが。

 いや、当時大蔵省と言えば官僚中の官僚、日本の経済を動かす司令塔、天下の秀才の集まるところ―なんてイメージがありました。そこに目をつけて実際の大蔵省の役人がどういうことをやっているのか、本当に大蔵省に日本の経済・財政をまかせていいのか、そこをキチンと描こうという意図だったと思います。世間に流布している大蔵省のイメージと、実際の大蔵省の役人とのギャップを描こうという気持ちがあった思います。それが上手く書けているので、今なおアマゾンで3万円の値が付いている理由なんじゃないかな(笑)。少し図々しいですかね?(笑)

 Q.いえいえ(笑)。佐々木さんも書かれているのですか。

 僕もこの本に「情報管理の裏の裏」というコラムを書いてます。

当時、仲良くしていた「週刊宝石」の記者から聞いた話を書きました。証券局の課長が証券会社のツケで、銀座で飲み歩いていたというのを「週刊宝石」が書くことを大蔵省がキャッチするんです。すると、大手広告代理店に手を回して、新聞広告の見出しを「大蔵官僚」という大見出しが「経済官僚」に変えられたというのです。森田さんは面白がって「それが本当の“裏の裏”だ」と言って書かされました。

 Q.調べると、森田さんというのは後に論説委員長、監査役などをやられている方ですね。どういう方だったんですか?

 それが不思議な人なんですよね。ほとんど自分のことをしゃべらなかったんです。ただ子供時代、中国にいて両親を亡くし日本に引き揚げてきた時、小学校6年生だったというんですね。ですから僕より二つ上になります。昭和30年頃引き上げてきたんじゃないかな。父上の仕事、毛沢東時代の中国のこと、酒飲んだ時も一言もこぼさなかったな。かなり大変な人生だったんじゃないかなあ。中国語はペラペラでした。

一度毎日新聞の本社のあるパレスサイドビルの中華料理店で、中国人ウエイトレスを中国語でやり取りしていったのを聞いたことがあります。中国では恐らく侵略者・日本人の子供としてひどい目に遭ったと思うんだけど⋯⋯。

ところが日本に帰ってきて、そのハンデをものともせず東大経済学部に現役で入り、毎日新聞に入社したんですね。僕なんかから見ると、どういう頭してたんだろうと思いますね。若ハゲで度の強いメガネをかけ、太っていて愛嬌がありました。でも理解力は抜群で、僕がネタを取って来て説明すると、原稿の位置付けをキチンと示してくれました。その意味で寺村さんといい、森田さんといい、良きキャップに恵まれましたね。

 会社を辞めた後、毎日新聞関係者とのパイプは切れた感じで、ネットで調べたら中国の天津で「天津日中大学院」というのを設立して、その理事長になられたようです。その後日本に戻られたようですが、色々うわさは聞きましたけど毎日新聞関係者との付き合いはなく、亡くなられた時、社報の追悼録の書き手に苦労したと聞きました。探したら初任地の宇都宮支局の同僚だった人が書いています。今もこの大学院はあるようですが、森田さんの戦中・戦後史を聞きたかったなあという思いがあります。

これを読んだ人で森田さんのことを知っている人がいたら聞きたいですね。 

◇官僚主導の方がよかったのか?

 Q.これまでの佐々木さんのお話を聞いていると、<官邸主導>の現在よりも、<官僚主導>の時代の方がよかったという感じで受け止めますが?

 そう聞こえましたか。年寄りの「昔はよかったな―」という懐旧談になっているのかな(笑)。岸田内閣になって少しは変わってきたのかもしれないが、安倍、菅政権の8年間を見ていて、官邸にいる人がもうちょっときちんとした信念と知性を持ってやればできるんだろうけど、公文書は平気で隠すは、知らんぷりはするは、責任は取らないはという形だとやっぱり国としてまずいですね。

 ウクライナへのロシアの侵略を見ていると、安倍首相があれだけプーチンと27回も会談して、友情を誇らしげにしていたのに、この事態に及んで何の動きもせずに平気でいるのにはびっくりしますね。少なくとも外務省も、アベ・カードを使った外交展開が出来ないかと思いますね。本当の信頼関係がなかったという事なんでしょうね。

 官僚主導の時代というのは、官僚が自分たちの役人としての倫理感というものを持っていたと思いますけどね。そこを踏み外さなかった気がします。そこに関する信頼感があったから、ぼくは官僚が国を動かすより、民主主義の世の中なんだから、基本的には国民の信任を得た政治家が動かしていくというのが基本だと思っていました。しかし官僚が人事権を内閣官房に握られて、結局、官邸の言いなりになっているのを見ると、ホント残念ですね。彼らの倫理感はそんなヤワなものだったのかと思えてなりません。

 やっぱり政治家も政治家です。国を動かすという方向性、基軸というものをきちんとしておかないと・・・。たとえばドイツのメルケル前首相みたいに、筋を通した仕事をして、国際的にも尊敬を集めていましたよね。そういう人材が出てきてもらわないと。

 ぼくは金権政治の弊害の打破、二大政党制の確立を目標に1996年に導入された小選挙区制というのがすごく問題だと思っています。マスコミなんかも政権交代ができるなんて言ってのですが、やってみたらほとんど二世三世の人ばかりになっちゃって、その結果、自民党一強支配が強化された。

◇牙を抜かれた大蔵省

Q.そういう意味では、大蔵省にとっては一種の挫折感にとらわれたと思っていいのでしょうか?

 僕はいまの財務省というのはよく知らないけど、やっぱり牙を抜かれたよね。野放図に国債をジャブジャブ出して、日銀が引き受けて輪転機回してお金を刷ってやってるということについて、財務省の心ある人たちは相当悩んでいるとは思うけどねえ。ただ、この前、矢野康治財務省事務次官が雑誌「文藝春秋11月号」に、このまま国債発行してバラマキ財政を続けていけば「国家財政は破綻する」という論文を発表しましたよね。これを読んで「大蔵官僚健在なり」と痛快でしたね。まだまだ気骨ある大蔵官僚はいるんだと思いました。

財務省事務次官の矢野康治氏が、「文藝春秋」2021年11月号に「財務次官、モノ申す『このままでは国家財政は破綻する』」と題した論文を発表しました。

 第2次石油危機が1979(昭和54)年にありました。この辺が大蔵省の政治への屈伏の分岐点だったような気がします。この年イランの革命があって、親米のパーレビ国王が追放されてイスラム原理主義のホメイニが出てきました。それで石油が大ピンチになって値段が上がりました。それがきっかけとなって日本は年5~7%のような高度成長は夢みたいな話になってしまいました。これに合わせて、福田さんと大平さんの対立だとかあって、日本の政治自体がガタガタして、選挙をやって福田内閣から大平内閣、そして鈴木善幸なんていう知名度の低い人が首相になったりしました。与野党伯仲時代となっていきます。

 そういう中で、政権を安定させてもらわないと困るということで、大蔵省は政治の言うことを聞くようになっていきました。予算的には大盤振る舞いをするような方向に行くのですが、大蔵省の主流としてはやっぱり、このまま行ったら財政が破綻するから、大型間接税問題というのが出てきます。グリーンカードもそうですが、特に僕がいた1981(昭和56)年頃の予算編成は、84年までに赤字国債をゼロにする。これで3K、つまり米、国鉄、健保の赤字を解消する。というのがひとつの大きなテーマになってくるのです。

 それと特に大蔵官僚の危機感としては、僕が担当していた81(昭和56)年、82(昭和57)年というのは、第二次石油ショックの影響で景気があまりよくなくて、81年3兆円、82年6兆円の税収不足が出てきて、その補填のために国債発行がどんどん膨らんでいきました。それで、このまま行ったらえらいことになるぞという大蔵省の役人の意識はすごく強かった。それらの年の記事原稿には、前回お話ししたように“日本財政冬景色”と書いていたことを覚えています。

 Q.資料を見ると、81年の国債の依存率がすでに27.5%なんですね。82年が29.7%。その後、景気がよくなって、1989(平成元)年に10.1%、90年(平成2)年9.2%、91(平成3)年9.5%まで減っていますね。その頃以降は政治主導の方に行ってしまうわけですね。当時の予算に関しては、ゼロシーリングとか行政改革というのが目玉になっていくという感じですか?

 その行政改革の目玉になったのが三公社五現業ですね。日本国有鉄道(現JR東日本など各社)、日本専売公社(現日本たばこ)、日本電信電話公社(現NTT東日本、西日本)の三公社と郵政、造幣局、印刷局、国有林野、アルコールの五現業を民営化するという方向を出してやるわけです。ただ、大蔵省としては、それだけでは足りないだろうと、大型間接税、消費税の導入をしようという根回しを始めました。そのときの鈴木善幸首相が「増税無き財政再建」というのを、当時のミッチー(渡辺美智雄蔵相)なんかに断りなく打ち上げてしまいました。そうすると大蔵省にとっても動けなくなってしまったわけです。当時から大蔵省というのは日本の官僚機構のトップに立っていたんだけど、だんだん政治に浸食されてきたということじゃないかな。

 ただ、僕は政治部の取材をやってから大蔵省の担当になったわけです。今、言っているのは今だから言える後講釈で、政治部の4年間は人間関係の取材が中心。どの程度、政治家に食い込むかっていう・・・。派閥記者っていう言葉に表れるような食い込みに一生懸命だったわけです。政策論にはあまり関心がなかったですね。本当は政策論をキチンと政治の現場から見ておかないといけなかったんでしょうが⋯⋯。この辺が当方の新聞記者として出来の悪いところかな(笑)。

Q.えっ、それはどうでしょう(笑)。いずれにしても政治部と経済部はかなり違う文化ですね。

 第2次石油ショックのときは政治部で走り回っていたので、日本経済にとってそれが大変なことだったということを体感的に感じていないわけです。今から考えるとそれだけ経済部と政治部というのは、対象が違うと見る目が違ってくるんですね。そういう視点が身について経済部にもどってきて大蔵省では、人間関係を作ろうというようなことになりがちで、日本経済の中での財政の重さの位置づけという考え方が薄かったと言えます。

前に取り上げた『大蔵省の裏の裏』という森田明彦さんがまとめた本は、コラムの連載をまとめたものですが、その中で僕が書いているのを見ると、なんかちょっと王道ではない文章を書いてますね。たとえば、紹介した週刊誌に圧力かけるとか・・・。経済に対する基本的な見方がなってないという批判があったと思いますね。

 結局、政治が国債発行の主導権を握るわけです。この本の最後に大蔵省のドンと言われた元日銀総裁森永貞一郎さん(1957 年大蔵省事務次官、74年~79年日銀総裁、86年76才で死去)が、後輩にはなむけとしてのコトバを述べています。「国債を日銀に売るのは、日銀の国債引き受けと同じ効果になるので絶対にやるべきではない。大蔵省は安易な道を歩こうとはしないと私は信じている」、日銀の引き受けだけは絶対にやっちゃだめだといわれています。つまり国債発行の歯止めが無くなる、破滅の道だと警鐘を鳴らしています。

森永貞一郎(1910-1986)

ところが、今それが野放図になって、政治にひれ伏してジャブジャブ国債発行をやってるわけです。

大蔵省としてはその当時から、予算編成でゼロシーリング(対前年の伸び率をゼロ)とか、最大5%だったかなマイナスシーリングなどの対策を打つんです。しかし行政改革で官庁が再編成されて、政治家がそれを官邸主導で、最終的には局長以上の人事を決める内閣人事局というのを作って、人事権を握られて、それが日本国の運営の形を変えた最大のことでした。

役人にとって人事は全てですから、それまでは各省庁の事務次官を頂点とするヒエラルキー(位階制)で次官の命令がすべて。それが内閣官房が人事権を持つんですから、どうしたって官邸の方に顔を向けますよね。各省の位階制のグリップが効かなくなってきているんではないかと思います。

 僕は、今から振り返ってみると、その当時の大蔵官僚というのはものすごくがんばったんだと思いますよ。位置づけとしてはアンシャンレジーム(旧体制)だったんだろうけど、本当はもうちょっと政治がきちんとした行財政改革というのをどんどん進めて経費節減などをやっていかなければいけなかったということなのでしょうけど、それがバブルを経てタガが外れちゃったということです。

 大蔵省担当時代というのは、今考えてみると、官邸主導のもとで起きた森友事件なんてのは、僕たちの頃だったらありえなかったと思います。もっとも新聞社も国有地の払い下げを受けているから大きなことを言えないんだけど・・・。

 Q.その点しばしばチクチク言われますね。

 でも、金で動いたというようなことはなかったと思いますよ。

 振り返ってみると僕の大蔵省担当当時は最後の黄金時代というか、敗戦後の日本国の運営の形が保たれていた最後の時代だったのでしょうね。だから、当時の国債発行額なんて前回見たように12兆とか14兆という程度で、かわいいものでした。それが今や二百数十兆円というんですから驚きですよね。後世につけを回すことは間違いないわけだけど、今MMT理論なんていうバカなことをいう論が出てきているけど、これはあとでホントひどい目に遭うと思いますよ。

 財政というのは国の基本だし、国民の税金でまかなうべきもんですよね、国債を野放図に出すというのは経済政策の失政のツケを全部後世に残すということでしょう。年寄りの繰り言だけど心配しています。

 吏道(りどう)という言葉がありますね、「国民のための官吏として行うべき道」という事だと思うんですが、当時、通産省、大蔵省の官僚からよく聞きました。オマエはつき合う役人の表の顔しか知らない、と言われてしまえばそれまでですけどね。現職のお役人には、この言葉を噛みしめて欲しいですね。
(以上)