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ある新聞記者の歩み 5 右翼フィクサーから財界大物までとの出会い

経済部時代 (3) エネルギー問題が大きな柱に

◆三島事件の現場の近くにいながら  松下二重価格問題余話

 元毎日新聞記者佐々木宏人さんの聞き書き5回目です。
 Q.前回、松下電器の二重価格問題で大スクープを放ったというお話をお聞きしたのですが、そのテーマの取材が続く中で、印象深く残っているできごとがあるそうですね。

「松下と地婦連の対決が続いている時期、確か当時の家電商品安売りで名をはせていた城南電気に取材に行って、その帰りに取材用のハイヤーの中で、カーラジオで三島由紀夫の自決事件が起きたことを聞いたんです。昭和45(1975)年の11月25日ですね。あれから50年たつんですね。ビックリです。三島は昭和元年生まれですから当時45才。」

「ぼくは高校生、大学生の頃、三島はかなりたくさん読んでいてわりと好きでした。初版本も結構集めていました。10年位前かな、阿佐ヶ谷の自宅を整理した時、段ボールに入った当時の本が出てきて、文学書の初版本などを扱っている荻窪の古本屋に持ってい行ったら、5万円くらいで売れて驚きました。
 高校時代から三島の作品を読んでいました。麻布高校時代、数人しかいない「文芸部」に所属していた“文弱の徒”でしたから。三島の作品では『鏡子の家』(昭和34年刊)という、評論家からは失敗作というのが定評の長編作品が好きでした。その都会的ロマンチシズムにあこがれていました。
 ただ終戦時の天皇の人間宣言を呪詛する『英霊の聲』(昭和41年刊)くらいからは熱心に読まなくなっていましたけどね。とてもその天皇への憧憬にはついていけなくなりました。でも新刊が出れば大体目を通していましたよ。最後の事件直前に完結した『豊穣の海』四部作は現実感が乏しくついていけなかったなー。その最終巻発刊直後の事件だっただけに驚きました。」

「いまだに後悔しているんですが、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の現場に寄ればよかったなと。野次馬だけど、現代史の現場ですし、社旗を立てたハイヤーで回っているわけだから、ある程度近くまで行けたと思うんですよ。
もちろん社会部とか学芸部の記者が行っているはずだし、記事も彼らが書くわけで、経済部のぼくが行ったからといって記事を書くわけではありません。今でもそうだけど、とにかく現場に行きたかったということでしょう。そういう意味では社会部の方が向いていたかも(笑)・・・。でも下手に現場に行って「経済部が何しに来た!」と言われて編集局で問題になったかもしれないですね(笑い)。」

「考えてみると水戸支局を経て新聞記者になって5年目、三島のロマンチシズムとは距離感が出てきたんでしょうね。物見遊山で現場に行くものではないという、職業意識が確立してきていたのかもしれませんね。そういうわけで、自分の中ではカラーテレビの二重価格問題と三島事件とはオーバーラップしていますね。両者は直接関係ないんですが、カラーテレビの普及というのは、三島が危惧していた「空虚で空っぽな」大衆消費社会への入口でもあって、つながっている面もあったかなという気がしています。」

◆「ソニー」と「リコー」 大?誤報事件!

Q.経済部の方から聞いたのですが「佐々木さんといえば“ソニー”と、“リコー”問題だよ」と聞いたんですが、どういう事ですが?家電担当の頃のことでしょう?

「まいったな。そんなことまで知っているの?今だに当時の仲間と飲んだりすると冷やかされる“わが記者人生最大?の失敗”です。
 当時、各企業が出す新製品のプリント二、三枚、写真付きのニュースリリースが経団連記者クラブの各社ボックスに投げ込まれていました。その中で面白そうな新商品をピックアップして、活字も小ぶりで10行位の原稿にする「ビジネス情報」というコーナーがありました。一日10本程度は載せていたでしょうか。各社の広報にしてみれば、正式な記事として経済面に無料で掲載されるんですから「『ビジ情』でいいから載せてください」と頼まれたもんです。」

「ある時、ソニーが確かトリニトロンテレビの16インチテレビの新製品のニュースリーリスを持て来たんです。それまでにも何回か型の違う製品の発表があったので、「これはビジネス情報でいいですね」とキャップの図師さんに伝えて10行位のビジ情にまとめました。「ソニーは新しい高精細のトリニトロンテレビの16インチの新製品を出した」という感じですね。
 ところが降版が過ぎて、もう訂正の効かない夜中の12時過ぎに赤い顔をして編集局に上がって紙面を見るとなんと!「ソニー」が事務機メーカーの「リコー」になっているではありませんか。ビックリ仰天!担当の当番デスクのYさんに「これ違いますよ!ソニーですよ!」。「もう輪転機回っているよ」
 デスクの手元に残された原稿を見ると「ソニー」と書いたところが、「リコー」と赤ペンで補正されているではありませんか。デスク「君がそう書いたんだよ」。下手な字で書きなぐった当方の原稿は、確かに見方によっては「リコー」と読めないことはない。当時から「経済部三悪筆?」と言われ、原稿を読んで写植する活版部には「佐々木の原稿が来ると、原稿が読める担当者が打つことになっている」というウワサが出るほどでした。」

「当時、三島と並ぶ花形作家の石原慎太郎も悪筆で有名で、その原稿を読める専門家が新潮社や文藝春秋社などにはいるという話を聞いて、「おれも慎太郎並なみだ!」とえばっていたんですからどうしようもないですね(笑)」

「でもおかしいのは翌日、紙面化された記事を見て「ソニー」、からも「リコー」からもクレームはなし。そのためか訂正記事もなし。今から考えれば信じられませんね。今だったら炎上騒ぎでしょうね。残ったのは「リコーにテレビを出させたササキ」という伝説、いや実話。」

「「リコーがテレビなんて出すはずないじゃないの」という批判があるかと思います。担当デスクだったYさんのために弁明しておくと、Yさんは当時、経済企画庁担当の長老記者だったと思います。正式な役職上のデスク(副部長職)ではなく、キャリアの長い記者が経験を買われて臨時に民間経済面のデスクに入っていました。アップツーデートな民間経済情報には疎かったと思います。
 Yさんは某製紙会社の社長の御曹司で慶大卒。戦時中、海軍の短現(短期現役主計士官)に行かれてすぐ終戦になり、実戦経験はゼロ。それだけに海軍への思い入れは強く、酔うと必ず〽さらばラバウル、また来る日まで―という「ラバウル小唄」を腕を振りまして、歌われました。我々もそれに合わせて大声で歌ったものです。本当に憎めない面白い人でした。
 でも同じ職場の身近に戦争帰りの人がいたんです。そういう時代だったんです。」

◆エネルギー問題にどっぷりの始まり

「経済部に入って1年くらいで家電担当を卒業して、電力記者会(現エネルギー記者会)に移りました。同じ経団連ビルの5階にありました。1972(昭和47)年冬、群馬県の榛名山中で12人の仲間を“総括”という名のもとに殺害した連合赤軍が立てこもり、機動隊と銃撃戦を繰り広げた、長野県軽井沢の山荘に機動隊が巨大な鉄の玉をぶつけているシーンを、確か電力記者会のテレビで見ていたような気がします。」

「ぼくの記者生活において、エネルギー問題がメインテーマになるきっかけがこの時期でした。このあと、昭和48年に通産省のクラブに移って石油危機に遭遇するわけですが、この46、47、48年という3年間、エネルギー問題に釘付けになったと言えます。そういう意味で、経済記者としての方向性がついた時期と言っていいでしょう。」

「電力記者会は、9電力と石油会社、ガス会社を主たる取材対象にする記者クラブでした。東電以外の8電力は、東京には支社しかないので、ほとんど行くことはありませんでした。5階が電事連(電気事業連合会)のオフィス。その一角に記者クラブがあり、電事連の広報部はその隣でした。9電力(北海道、東北、東京、中部、関西、北陸、中国、四国、九州電力)各社から広報担当の人が来ていました。東京電力の方が広報部長でした。取材のメインターゲットは、東京電力、東京ガス、日本石油の3社で、それぞれの会社のオフィスに取材に行きました。」

「地方の電力会社には二月に一度くらいでしたか、見学会があり北は北海道から南は九州電力まで行きました。旅費は電力会社持ち。朝日新聞は参加しなかった記憶があります。そういう意味で“業者との癒着”を警戒していたんでしょうね。その点毎日新聞はわきが甘いというか、むしろ普段いけない地方電力の実情を見て、記者としての見聞を広める機会としてとらえていたように思います。出張旅費の節約の意味もあったんでしょうね。
 2011年の東日本大震災での東電の福島原子力発電所事故の際、マスコミと電力会社の癒着が批判されました。まだ僕の電力記者時代は、原発は本格稼働していませんでしたが、当時のことを思い返すと、率直に言って忸怩たるものがあります。」

◆電力会社などの広報担当と銀座を飲み歩く

「東電に対しては、財界担当と電力担当の両方で担当していました。当時、東京電力は経団連会長もおやりになった木川田一隆さんが会長で、この方が財界の中心人物。でも本当に学識豊かで立派な方でしたね。千葉の市川のご自宅に夜回りで伺うと、私のようなチンピラ記者にも丁寧に対応され、恐縮しました。こういう人格者が日本経済の中心にいるんだという安心感を持てました。日本経済全体の話、財界人事などのことは財界担当記者がやるのですが、われわれは料金値上げとか、公害対策問題などについての電力業界全体の問題をそのリーダー役の東電と細かい話をやるわけです。」

「どうして地方の電力会社から広報担当者が来ているかというと、万一自分の会社に新聞ネタになるような事件が起きた時に、中央のマスコミの窓口である電力記者会の連中とつながりを持っているかが使命だったと思います。そのために「親交」を深めるかということです。「親交」を深めるとはどういうことかというと、要するに銀座に行って酒を飲むことなんです。向こうからの激しい攻勢もあって、銀座を飲み歩いてました。各社の記者も同様でした。もちろん全部先方持ちです。今考えるとありえないですけどね。だから編集局の中では、社会部などからは「経済部はいいご身分だな!」なんて嫌味を言われたこともありましたね。
 私の電力記者会担当の前任者の山田尚宏さん(後年経済部長)に「業者と酒を飲むな、半年くらいたってからならいいが、それまではキチンと業界情勢を把握しろ」と言われたのですが、気が付いたら一週間で銀座に“拉致”されていましたね。Yさんからは未だに「佐々木はあれだけ注意したのに・・・」と酒の肴にされます。」

「1964(昭和39)年の東京オリンピック後の翌年の戦後最大の「四十年不況」の経験もあり、当時の毎日新聞社の体質とも言えますが、「困ったときの東電」とか、「困ったときの新日鉄」とかいう言い方がありました。公害防止の企画広告とかに協賛してもらうために、顔の効く経済部の担当記者に広告局や、出版局の広告部などがそういう企業への口利きを頼むのです。
 例えば今のJパワー。9電力に水力発電を中心とする電力供給をしている、公社体制の電源開発会社です。一般の人はあまり知らないわけです。要するに電力会社のおかげで生きているようなものだから、公社体制の「電源開発会社不要論」なんて書かれたら大変なわけです。ぼくもそんな事情もよく知らずに「高まる電発不要論」などという記事を書いたことがあります。「当社のことを良く知ってほしい。ご説明をしたい」と、必死になってこっちに寄ってきて押さえ込もうとするわけで、銀座に誘い込むわけです。ぼくは、そのあげくに肝臓ガン(2020年三回手術)になっているんだから世話無いですね。お医者さんから「あなた若い時から相当飲みましたね」と言われました。(笑)」

(注:電源開発株式会社とは、発電のために必要な大規模な施設(水力発電所や火力発電所,原子力発電所)を建設、9電力に売電する組織、発足当時は公営、現在は民営、上場企業。愛称はJ-POWER(ジェイパワー))。

「東京ガスというのがこれまたすごかった。東電とは違う意味で、東京ガスのガス事業っていうのは、東京と近県だけでしょ。公益事業だし、不都合なことがあると通産省からギャンギャン言われるから、われわれをすごく大切にするわけです。でも東京ガスの当時の村上武雄社長にはものすごく可愛がられて、結婚の時の仲人までやってもらいました。本当にお世話になりました。当時会長の安西浩さんと村上社長の確執はものすごいものがあり、私も巻き込まれましたが村上さんは61才で現役社長で1981(昭和86)年亡くなりました。」

「亡くなる間際まで安西会長色を払拭しようと地下工作をして、当方もその相談を受けたこともあります。でも村上社長が亡くなったその晩、ご自宅に弔問に行き涙を流し、翌日朝、安西会長のご自宅に「次期社長はどうするんですか?」と聞くんですから因果な商売ですね。安西さんから聞いた後継社長人事は夕刊に叩き込み特ダネになりましたけれども---。」

「考えてみれば、エネルギーを担当していて、あと1年か1年半後くらいにオイルショックでとんでもないことになるんですが、恐らく新聞記者と取材先が、癒着していたと批判される最後の時代だったのではないかと思います。いずれにせよ、この時代にエネルギー関連の人脈がかなりできました。これが次に担当した通産省記者クラブ(虎ノ門記者クラブ)時代の石油ショック取材に大いに生きました。電力業界やガス業界からぼくに、特に値上げの問題など「どうなんですか」などと逆取材に来るんです。短い期間でしたが貴重な体験のお陰でした。」

◆ガレージの門に松葉をはさんでおくと

「当時、石油関連で言うと、財界の中で資源派財界人と言われるような人、たとえば興銀の中山素平、新日鉄の永野重雄とか日本精工の今里広記とかにも会いました。右翼の巨頭とも言われた田中清玄とも会いました。今里広記、田中清玄といった人たちとぼくはものすごく仲良くなりました。この人達のところに夜回りなんか行くんだけど、中山素平なんかお妾のところにしかいないから、最初の頃、知らないで自宅の方に行くと奥さんにどなられたりして(笑)。
 今里広記なんか渋谷の松濤のとんでもない広い家に住んでて、なかなか帰ってこない。財界担当の社会部警視庁担当の経験のある先輩の新実慎八(後経済部長、常務)と、夜回りに行くんですが、待つ間、近くに一緒に飲みに行くんです。その際、クルマが入る門のところに、松葉をはさんで置いておくんです。そうすると戻って来たときに、それがなければ帰ってきてるっていうのがわかるわけです。なるほど社会部記者はそういうノウハウを持っているんだと感心しました。そもそも今里が帰ってくるのは1時か2時くらいだったかなあ。朝日だったか、政治部の記者も来て、5時くらいまでやってたことありましたよ。」

◆右翼の巨頭・田中清玄にかわいがられる

「中でもおもしろかったのは田中清玄です。清玄は東大在学中、左翼運動に走り、戦前の非合法時代の日本共産党の委員長までやった人で、清玄が特高につかまったというので、函館のお母さんが腹切って自殺するんです。それがきっかけで獄中転向して天皇中心主義となり、戦後は右翼の巨頭と言われましたが。世界を股に活動し、ノーベル賞学者のフリードリッヒ・ハイエクと親交があり、国際的な人脈も広く、一筋縄ではいかない人物でした。清玄の息子が今の早稲田の総長の田中愛治さんですよ。」

「青山の有名なマンションに事務所があって、そこにしょっちゅう行きました。そこで飲んだドイツワインは、彼も加入していたようですがヨーロッパのハイソサエティーの「モンぺルラン・ソサエティ」の会合で飲まれているものだという事でしたが、今まで飲んだワインの中で一番おいしかった思い出があります。とにかく彼と話していると、オーストリアの国王になったはずのオットー大公だの、ノーベル賞を受賞した経済学者のハイエクたちとの個人的な付き合いの話などポンポン出てきて面喰いましたね。」

「田中清玄は当時、アジア連盟という大構想を持っておりインドネシアのスハルト将軍(後大統領)と組んで、日本に石油を輸入する計画を進めていたようです。そのつながりでアブダビにも石油人脈があり、資源派財界人の有力な情報ルートでした。その裏付けにはヨーロッパ人脈もあって、その情報で中山素平さんなんかは動いていたように思います。他社も含め経済部記者で、田中清玄とつき合った人はあまりいなかったような気がするけど、ぼくはわりとかわいがられました。」

「ただ後に政治部で一緒になった大須賀端夫記者は後年聞き書きで「田中清玄自伝」(1993年、文藝春秋社刊)を出します。「やられた!こういう本にするという手があったんだ」と思いました。なるほど激しい時代の歴史の体験者を取材対象とするんであれば、そのノンフィクションを書き残すのも新聞記者、ジャーナリストにとって大切なんだ―と思いました。この本は2008年にちくま文庫から復刊されています。それだけ歴史資料的に価値があるということなんでしょうね。僕が後年、ノンフィクションの「封印された殉教」(2018年、フリープレス社刊)を出したのもその影響があるかもしれません。」

「あの当時(1973年頃)、旧ソ連の西シベリアにチュメニ油田というのが発見され日ソ共同開発しようという話がありました。当時の首相田中角栄も乗り気でした。今里広記、中山素平、永野重雄など資源派財界人が熱に浮かされたように取り組んでいました。新聞もそれを追っかけて「赤いパイプライン」(シベリアからサハリン経由北海道へ)というような話が飛び交いました。それから中東のアブダビに石油利権を、アラビア石油を今後どうするか―資源関係の話がどんどん出ていました。財界マターの話なんですが政治家、通産省とつるんでやってるわけです。本当に財界人というのは相当な力を持ってました。“政官財”トライアングルを目の前に見るという感じでしたね。その裏には田中清玄のような人物がいたわけです。」

◆フィクサー児玉誉士夫の影

「当時、そういう人たちの背後に児玉誉士夫がいました。財界主流派の黒幕といわれた児玉誉士夫は手下を使って田中清玄を東京会館のところで射撃したといわれています。田中清玄が目の上のたんこぶだったんでしょうね。田中清玄は三発の銃弾を受けるのですが一命をとりとめます。田中に会った際、児玉誉士夫のことを何回か聞いたのですが、他のことには冗舌な田中が絶対その評価を言いませんでしたね。再度の銃撃を恐れていたのかもしれません。
 当時、八幡製鉄、富士製鉄、東京ガス、東京電力といった有力企業のトップ交代については、絶対表面に出てきませんが、児玉誉士夫に挨拶しなきゃいけなかったんです。トップ人事がもめるとき仲裁に入るのが児玉でした。政治の世界でもそうでした。そういう意味で、児玉は本当の意味で日本のフィクサーでした。だからロッキード事件なんかにもかかわっていたわけです。」

「児玉誉士夫には会いたいと思って、東京ガスの村上武雄社長を通じて何度かアプローチをかけたのですが会えませんでした。ただ彼の秘書の太刀川恒夫氏とは、付き合いがありました。この人もロッキード事件で逮捕されましたが、今、夕刊紙で有名な東京スポーツの社長です。今でも右翼の世界には隠然たる影響力を持っているといわれています。大手広告代理店などはクライアントの大手企業に右翼の街宣車が押しかけて来た時、立川さんにその抑え込みを頼むという“伝説”があるほどです。
 彼は山梨県の日川高校出身です。私が書いた本『封印された殉教』、終戦後3日目に横浜のカトリック保土ヶ谷教会で射殺死体で発見される戸田帯刀神父神父と同郷なんです。その縁で取材にも行きました。「どうですか児玉誉士夫の秘書としての回想録を書かせてもらえませんか」ともちかけたことがあるんです。「あちこちからそういう話はあるが断っている」と言われました。現存の人物で戦後の政治経済の裏面史を、一番よく知っている人と思うのですがね。
 今から50年前の日本は、世界を股に掛けたエネルギー問題とか資源問題の裏を知るのであれば、彼らのルートがなければどろどろした本当のところがわからなかったと言えます。」

◆ブルネイへの視察旅行-初のLNG輸入

「電力記者会時代いちばん記憶に残っているのは、東京ガスが三菱商事といっしょになって、日本で初めてLNG(液化天然ガス)の輸入を1972(昭和47)年に始め、ブルネイに行ったことです。ブルネイで三菱商事がシェルと組んで開発しました。ブルネイというのは、インドネシアのボルネオ半島の付け根の王国です。人口40万人、面積は三重県と同じという小国です。LNGが出るので、豊かな無税国家です。その開発したガスをLNG船で東京ガスに渡すわけです。そのプロジェクトは現在も継続しています。長い間、三菱商事の最大の収益源と言われて来ました。]

「その竣工式があって、電力記者会の連中と行きました。半分招待ですけどね。そのときに東京ガスの会長・安西浩さんと親しくなったりしました。それ以来、いっしょに行った記者とブルネイ会というのを作って、東京ガスの亡くなった常務もいっしょに15年くらい前まで続きました。」

「ブルネイは厳格な回教(イスラム教)の王国です。訪問中、開発を手掛けた英国のロイヤルダッチシェルの幹部や、一緒に行った三菱商事、東京ガスの連中と安西さんも含めて会食をやっていました。禁酒国のはずですがお目こぼしなんでしょう大分酒も進んできて若い記者から、ブルネイは回教国だから女性はいないだろうと言ったところ、もしあれだったらおまえらのホテルに差し向けると・・・シェルの現地幹部がいいました。実際、誰かのところに来たと言ってたなあ。M君だったか、夜中の1時頃に来たけど怖いからお帰り願ったと言ってましたね。」

「一番びっくりしたのは到着したその夜の国王招待の晩餐会です。広い大広間で数百人はいたと思います。「今日は晩餐会で御馳走が出るぞ、昼飯はほどほどに」といっていたのです。なにせ暑い日差しの中での開所式のセレモニーを終えて、ご馳走を楽しみにしていたのです。LNG収入で国民は無税、国の財政はとんでもなく豊かと聞いていたのですが------。ところが前菜とカレーライスの一品だけで終了。もちろんアルコールはなし。唖然としましたが、二次会の会食で「あれが普通」といわれ、がっくりきました。」

◆シンガポールで石油公団総裁から特ダネ

「その帰りにシンガポールに寄りました。シンガポールのホテルに石油公団の島田喜仁総裁(元通産省(企業局長))が泊まっているというのがわかって、視察団の記者の中で一番年長の親しくしていて気分の合った、サンケイ新聞系の日本工業新聞記者の林勉さんが「島田さんがホテルにいるぞ。アブダビ石油の利権延長の交渉で行ったはずだから、その結果を聞こうじゃないか」と。林さんは、のちに昭和シェル石油にひっぱられて副社長にまでなる人です。」

「ホテルの部屋に二人で押しかけ島田氏にインタビューをしたところ、アブダビの石油利権の延長に成功したということでした。それで、これはニュースだということになったのですが、今から原稿書くと夕刊なら間に合う時間だけど、日本工業は夕刊がないから「俺はいいから、おまえ原稿書け」と言われました。特ダネはゆずってやる―というわけです。
 その頃は電話代なんかもったいないから、テレックスでした。僕が日本語の原稿を書いて、林さんがローマ字で書いて現地の電話局に持っていきました。それを打ってもらって本社に送るんです。ところが、林さん、新潟県人で「I、い」と「E、え」が区別できないんです(笑)。それで人の名前だとか、「I」と「E」がこんがらがっちゃってる。デスクから問い合わせがありましたが、とにかく無事送りました。
 そうしたら各社の記者が、夕刊を見た本社のデスクから「おまえ何やってるんだ。シンガポールでの石油公団総裁のインタビューで、アブダビの石油利権のことが毎日にのってるぞ」ってさんざん怒られたらしい。他社の記者からは「頼むから旅行中だけはお互いのんびりしようよ。抜け駆けはなしよ」と嫌味を言われましたね。
 林さんは、いま91か92才だったか、杖を突いているけど元気でときどき、ブルネイ会」の残党とこの話などを肴に人形町の天ぷら屋で酒飲んでます。」

※冒頭の写真は電源開発の田子倉ダムです。(南会津)

(続く)