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在りし日の祖父を求めて。

ついつい、語りたくなってきたので少し長い文章を書こうと思う。
まず自己紹介をすると、私は東京で暮らす32歳。独身で、性格は内向的な暗い奴だ。
そのほかには何の変哲もない、ごく平均的な人生を送っている。
しかし、今私には大きな目標がある。その目標について語りたい。

私は長崎県の佐世保市で生まれ、佐賀県で育った。佐賀県は陶器の名産地である。私も、窯元の一家に生まれ育った。

家族経営の小さな窯元だった。
祖母が土をこね、祖父がろくろを回して、父が絵付けをする。
私は祖父のことが好きだった。

在りし日の祖父

祖父は、無口であるが、働き者で、80歳をすぎてもなお、ろくろを回していた。私は、そんな祖父の背中を見て育った。

祖父は大正時代に長崎県で生まれ、戦時中は徴兵され日本軍の兵士となった。出征したのはビルマ、現ミャンマー。言わずと知れた激戦地である。よく日本兵の間では「ジャワは天国、ビルマは地獄、生きて還れぬニューギニア」と言われていた。

さらに、ビルマのインパール作戦といえば、日本軍史上最悪の作戦とも言われる。(ただし、私の推測によれば祖父はインパール作戦には参加していない。)

祖父は戦争についてあまり語らなかった。ただ、好奇心旺盛だった私は、祖父や、親族から断片的なエピソードを聴いたことはある。

例えば、同郷の兵士が足を腫らして落伍しているのを見たこと。戦友が虎に食べられたこと。
これはよく話しているが、銃撃され、入射角の関係か、鉄兜の中を銃弾がぐるぐる回ったこと。
英軍の捕虜になったこと、ドリアンやビルマで食べた炒飯がおいしかったこと。路上に転がる戦友の遺骸、におい、群がる蠅、ウジ。復員後マラリアに罹患していたこと。祖母曰く、復員後すぐはギラついた目をしていたこと。シッタン川渡河作戦の悲惨さ。

まだまだ聞きたいことはあったが、祖父は亡くなった。全部を知ることはできなかった。

私はかつて、日本人がこのようなすさまじい経験をしていたことにただ驚いた。

と同時に自分を含む現代人のあまりの無知さに眩暈がした。われわれが生きている環境は、誰かがコストを払った上に成り立っているのである。

そして、アジアの人たちに強いてきたあまりにも大きな犠牲。それが風化してしまうことに対する焦り、苛立ち。

私は祖父の足取りを辿ることにした。軍歴照会をとり、所属部隊を特定する。

そして、ミャンマーに行き、慰霊の旅をしたい。ミャンマー人、英軍、中国軍、日本軍、犠牲者に花をささげたい。

ささやかながらミャンマー語の勉強をはじめた。
たぶん、私は変わっている。
しかし、変わっているからできることがある。
私には目標ができた。

自分に出来ることをやっていく。

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