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夢も現実も、そこにあるのは誰かの汗だ / 松岡圭祐『ミッキーマウスの憂鬱』

松岡圭祐さんの『ミッキーマウスの憂鬱』を読みました。
昨夏、「新潮文庫の100冊」に入っていたので、読もうと思って買ったまま放置していましたが、ようやく手を付けることができました。


本書は、準社員としてディズニーランドのコスチューム担当に配属された後藤という男が、ゲストからは見えないバックヤードで「今まで見えていなかった裏側の現実」にぶつかりながらも、最終的には夢を与える側としての誇りを手に入れるという、一種のビルドゥングスロマンです。

いや、美化しすぎました。

この後藤という男、初日から「もっとやりがいのある仕事がしたい」とぶぅたれたり、指示もされてない仕事に勝手に首を突っ込んだりと、まぁ現実が見えてないんです。
ゲストだったら許されているであろうその態度も、裏方として働くキャストとしては問題ありあり。まぁ、そのあたりのちょっとはらはらしてしまう大胆さがまた、彼の魅力でもあるわけですが…。


さて、いきなり別の本の話で恐縮なのですが、先日読んだ高瀬敦也さんの『企画』という本に、こんな一節が出てきます。

 企画には「フリ」のある企画とない企画があります。「フリ」とは落語やお笑いの世界でよく使われる「フリ」と「オチ」のことで、「話のオチ」に向かって張られる伏線です。小説やドラマではすべての作品で、この「フリ」と「オチ」の構造が使われています。どの話も「オチ」に向かって進みますが、「オチ」以外のパートはほぼすべて「フリ」だとも言えます。
(中略)
 すでに知られている、いわばフリが効いているものというのは「人々の感情が既に結び付いているもの」だといえます。ですから、何がフリになっているかを意識すれば、そこに少しのギャップを与えることで人の感情を大きく揺さぶることができるのです。(pp.109-110)

高瀬敦也『企画』

誰もが知る人や場所を主題にすることで、それ自体が「コンテンツ」になる。
その人が普段どういうキャラクターなのか、その場所がどんな意味を持つ場所なのか、それがひろく認識されているからこそ、ただ普段とちがう側面が見えるだけで、「意外!」と新鮮に感じてもらえる、ということです。


そういう点で見ると、本書『ミッキーマウスの憂鬱』は、これ以上ないほど「フリが効いている」といえます。
あのディズニーランドを、あのミッキーマウスを、知らないという人はむしろ探すほうが難しいですから。

わたしは、ディズニーランドに詳しいわけではありません。
一応関東出身者として遠足だったり大学の懇親会だったりで足を運んだことはありますが、特段計画を立てて列に並んだり、キャラクターの背景知識を調べたりといったことはありませんでした。

そんなわたしでも耳にする、あの場所に関する様々な噂。
たとえば、「ミッキーマウスは決して同一時間帯に複数場所に現れることはない」だとか、「地下に限られたひとしか入れない高級クラブがある」とかの、真偽不明な情報たち。

それらの秘密を真っ向から作品に登場させつつも、最終的には、「やっぱりここは夢と魔法の王国だ」と思わせてくれる素敵なファンタジー小説でした。

そして、巻末に記された、

「この物語はフィクションです。
 実在の団体名、個人名、事件とは全く関係ありません」

松岡圭祐『ミッキーマウスの憂鬱』

の但し書き。

はたして「フィクション」とは作中の事件を指すのか、その舞台の裏側を指すのか、はたまたかの夢の国が作り出す幸せの時間そのものを指すのか。
それすらぷかぷかと浮かんで曖昧にされていくような読後感は、ぜひ味わってみてもらいたいところ。

最後に、ただ一ついえること。
どんな夢の世界も、きらきらと華やかな表舞台も、それを作り上げているのは「空気感」なんていう曖昧なものではなく、そこに携わるひとたちの思いと努力によるものなのだということ。

それを、「ダサい」「泥臭い」とバカにすることは簡単です。
でも、本当の大人なら、つまり現実の冷淡さを知るひとであるなら、その泥臭さも知ったうえで、夢の世界に魅せられるひとを演じるべきだと思うのです。
その演技という努力もまた、ほかのだれかにとっての夢をつくりだす、ひとつぶの汗になるんじゃないかな、なんて思ったりして。

おわり。


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