「コミュニティ」とはなにか?〜目的グラフを用いた再解釈〜


概要

この記事ではコミュニティの定義に関して、Ayuhaさんが用いている定義をベースとして、より厳密な再解釈を行います。
結果として「コミュニティとは同じ目的を持つ人の集まりである」という定義、より詳細には「人の繋がりのまとまりであること」かつ「効用目的グラフにおいて、共通の目的ノードが存在すること」がコミュニティである条件であるという考察を行いました。
この定義は「より統一的にコミュニティを解釈できるように」、「コミュニティの『強さ』や『構造』をより定性的に考察できるように」なるなどの利点があるかもしれません。

はじめに

私はスマブラコミュニティの一人として生きています。
私に限らず、多くの人はコミュニティの中で生きていると思います。
ここでいうコミュニティとは何でしょうか?
詳細な解説がAyuhaさんの記事に書かれています。

結論だけ抜粋すると、この記事ではコミュニティに対して以下の定義付けを行っています。

コミュニティとは『何が重要か』の価値観が地続きの人達である

さてこの考察は現実の「コミュニティ」を上手く説明する非常に素晴らしいものである一方で、個人的にはどこかぼかされているような、そんな印象を受けました。
そこでこの定義をベースに「コミュニティ」の定義について再解釈することを試みます。
なお、著者の専門はコンピュータサイエンスで社会学や心理学等は全くの素人なので、論文等は引用せず独断と偏見で考察をしています。ご了承ください。どこまで返事できるかはわかりませんが、あらゆるツッコミを歓迎します。

結論

先に結論から述べます。考察の結果、シンプルな言い回しとしてはコミュニティの定義を以下のようにします。
「コミュニティとは、同じ目的を持つ人の集まりである。」

この言葉はかなりぼかした言い方で、より詳細には以下の2つの定義を満たすものをコミュニティと呼びます。

  • 条件1:人の繋がりのまとまりであること

  • 条件2:効用目的グラフにおいて、共通の目的ノードが存在すること

「効用目的グラフ」も「目的ノード」もここで独自定義した用語なのでさっぱりだと思いますが、一つ一つ説明していきます。

解説

※グラフ理論と効用を除いて基本的に独自理論で構成されていることに注意してください。

前提1: 手段と目的の関係

(ほぼ)全ての目的は手段であり、手段は目的です。
目的Aがあるとき、そのための手段Bがある。というのが一般的な見方です。
しかし実際には、手段と目的は視点の違いでしかなく、手段と目的は同じものを指しています。

例えば目的Aがあり、それを達成するために手段Bがあり、手段Bを達成するために手段Cを用いるケースを考えます。
具体例をあげると、ハンバーグを作るため(A)に、ひき肉を用意するため(B)に、スーパーに行く(C)というようなものです。
このときAから見たらBは手段ですが、Cから見たらBは目的です。

これを一般化すると、目的と手段は等しいものと統一して考えることができます。
(余談ですが、「手段の目的化」は少しおかしな日本語で、「より上位の目的の達成に反する/無関係な下位の目的への過適合」が本来の意味の言語化と言えるでしょう。)

前提2: 目的グラフ

前提1より、ここでは手段と目的を統一して「目的」と呼ぶことにします。
また、数学からグラフ理論の概念を利用します。

グラフ理論について詳細な説明は省きますが、基本的には◯と←が繋がった図とでも思っておけばよいです。調べれば以下のような解説記事が色々出てきます。

目的の連鎖をグラフで表したものを目的グラフと呼ぶことにします。
例えば「目的Aのために目的Bがある」という構造をA←Bのようなグラフで表します。つまり目的がノードを表し、エッジは目的の上下関係を表します。以下では目的グラフにおけるノードを目的ノードと呼ぶことがあります。
エッジ(←)に重みをもたせることで、そのAに対するBの重要度を表現することも可能です。

(この目的の構造をグラフで捉えるという考え方は今回の記事の内容に限らず様々な思考の際に役立つので結構おすすめです)

前提3: 効用目的グラフ

効用とは、満足度、または幸福感のようなものです。詳しくないですが経済学等で出てくる言葉だと思います。「人間は効用を最大化するように行動する」とされています。雑に言い換えると「人間は無意識のうちに自己の幸福を求めて生きている」みたいな話です。ここに関して反論がある人もいるかも知れませんが、一旦受け入れてください。

さて、この効用最大化の話を目的グラフと合わせると、個人の行動に関する目的グラフの最上位(グラフ理論的にはルートノード的な位置)には、その個人の効用または幸福があると言えます。この、「効用が最上位にある個人の行動に関する目的グラフ」のことを効用目的グラフと呼ぶことにします。

(ちなみに、前提1で「ほぼ」といっていたのは、個人の効用グラフを考えたときに、効用を表す目的ノードのように、最上位の目的だけは手段になり得ないからです。同様に最下位のノードも目的にはなり得ないのですが、それはかなりミクロな化学や物理の世界の話になってくるのであまり考えても意味はなさそうです。)

考察: 目的グラフを用いたコミュニティの再解釈

コミュニティとはなにか?について考えたとき、「人間関係がある人の集まり」というのは考えられますが、それだけでは不十分なのはAyuhaさんの記事からもわかります。このことは最低条件ではあるので、「人の繋がりのまとまりであること」を条件1とします。
Ayuhaさんが採用した定義は「コミュニティとは『何が重要か』の価値観が地続きの人達である」ということなので、これは追加の条件として「何が重要かの価値観がある程度共通していること」としているも取れます。
これを先程定義した効用目的グラフの観点から再解釈してみましょう。すると、「効用目的グラフにおいて、共通の目的ノードが存在すること」と言えるでしょう。これを条件2とします。

例えば最も広いスマブラコミュニティの定義は、効用目的グラフにおいて「スマブラを利用(プレイ/観戦/大会運営/etc..)する」が存在すること(を満たしつつ繋がっている人の集まり)であると言えます。
実際にはその目的がプレイか観戦かだったり、地域的な理由などで人のつながりに分断されたりしてコミュニティとしては細かく分かれています。

この定義付けは雑にまとめると「コミュティとは同じ目的を持つ人のあつまりである」とも言えます。相手に簡潔に伝えたいならこの表現のほうがいいかもしれません。目的の定義を拡張しているので正確には伝わらないとは思いますが…

貢献: この考察により何が得られるか?

この考察は単なる趣味なので「こんな事考えて何になるの?」みたいな話は別にしなくてもよいのですが、活用方法が考えられなくもないので記しておきます。

貢献1: 定義の高解像度・抽象化

「『何が重要か』の価値観が地続きの人達」という表現を、目的グラフを用いることでより厳密に、構造的に解釈できるようになりました。また、従来の定義はゲーマーのコミュニティやAuthenticity論から出てきたものでしたが、こちらの定義はAuthenticityとは少し離れた会社のコミュニティや、一時的な協力関係のようなものもコミュニティとして統一的に、かつ正確性を損なわずに記述できているように思います(もともとの定義でも含められなくもないですが)。また、詳しくは語りませんが人間の幸福を感じる経路(内的幸福・外的幸福)などの話もこの定義により組み込むことができます。

貢献2: コミュニティの定性的観察の基準

直感として、コミュニティの構成員の効用目的グラフに共通ノード(またはパス)が多ければ多いほどコミュニティの結束は強くなるでしょう。
このことから、観察対象のコミュニティがどのような目的ノードの共通によって構成され、構成員のその目的ノードへ向かう重み(重要さ)を持つかを考えることで、コミュニティの結束の強さを測ることができるかもしれません。
他にもコミュニティ運営の視点では、既存のコミュニティにどのような目的ノードを持った人たちが存在するかを観察し、どのような目的ノードを共通させるか意識することは、新たなコミュニティを作成したりコミュニティを導いたりする際には役立つでしょう。

ただし、ここでの話はあくまで定性的な観察における話です。コミュニティの結束の強度を数値化して定量的に測るといったようなことはこの理論では不十分です。

まとめと今後の課題

この記事ではAyuhaさんのコミュニティの定義をベースに、「コミュニティとは同じ目的を持つ人の集まりである」という定義、より詳細には「人の繋がりのまとまりであること」かつ「効用目的グラフにおいて、共通の目的ノードが存在すること」がコミュニティである条件であるという考察を行いました。
この定義は「より統一的にコミュニティを解釈できるように」、「コミュニティの『強さ』や『構造』をより定性的に考察できるように」なるなどの利点があるかもしれません。

今後の課題としては、個人の観察に頼らない効用目的グラフの可視化や、コミュニティの結束の強度の定量化、「コミュニティの規模やコンセプト」に応じた「コミュニティにおける目的ノードの共通度」の整理などが挙げられます。
また、今回の定義はあくまでコミュニティがコミュニティであるための最低条件、骨組みのようなものを示したに過ぎません。コミュニティはこの骨組みをベースに成長し、肉付けが行われていくことで共同体意識を強化していきます。共同体意識を強化するものとは、Ayuhaさんのブログで触れられている共同体感覚の要素であったり、コミュニティの構成員が持つ共通の文脈(あcolaは強い、ヨッシーの空上はやばい等)だったりします。このあたりも包括的に、かつ厳密性や構造を損なうことなく語ることのできる視点を考えていくと、よりコミュニティに対する理解が深まると予想されます。

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